第三話:地下牢の春
地下牢。
昼も夜も曖昧なその場所で、けれど不思議なことに、カタジナは以前ほど息苦しさを感じなくなっていた。
湿った石壁も、冷えた空気も、粗末な寝台も何一つ変わってはいない。
それでも、この場所には会話や笑い合う時間があった。
「――カタジナの国の料理は、本当に美味しそうだ」
向かいの牢から、心底羨ましそうな声が聞こえる。
「牢の料理が不味いから、余計に食べたくなるな……」
ヘンリク王子はそう言って、木皿の上に乗った黒パンを見下ろした。
硬い。薄い。味がない。
対して、カタジナが語る前世の料理はあまりにも魅惑的だった。
ふわふわの卵焼き。肉じゃが。カレー。唐揚げ。甘い菓子。湯気立つ白米。
どれもヘンリクにとっては未知の食べ物だ。
「ですよね!それを『飯テロ』と呼びます」
カタジナは得意げに胸を張る。
まるで偉大な知識でも披露したかのような顔だった。だが、間違っても将来の英雄に与える知識ではない。
「メシテロ……」
将来の英雄はその単語を繰り返し、小さく笑う。
「なるほど。しかし、この辛さは拷問に近いな」
「ほんとですよね!脱獄出来たら絶対に作りますっ」
「カタジナと話していると、本当に退屈しない。面白いな」
その声は柔らかかった。
ヘンリクはずっと張り詰めていた。
裏切り、監視、権力争い。
この国で王族として生きる以上、気を抜けば呑まれる。
けれど、カタジナと話している間だけは違った。
彼女の話には妙な熱があり、奇妙な説得力があり、そしてどこか人を安心させる温度があった。
「そう言って頂けると、ますますモチベ上がりますね!」
カタジナはぎゅっと拳を握り、嬉しそうに笑う。
その姿は妙に生き生きとしていて、少し前まで死んだような目をしていた少女とは思えなかった。
「そうだ。昨日聞いた、民主主義という制度を、もっと詳しく聞いてみたい」
ヘンリクは興味深そうに身を乗り出した。
「民が国を作るという考え方は、とても斬新だ」
彼の碧眼は真剣さを帯びており、どうすれば国が良くなるのか本気で考えている目だった。
やっぱり主人公だなぁ、とカタジナは内心で感心する。
「民主主義に目を付けるとは。さすが名君、お目が高い!」
どこか胡散臭い商人のような口調で褒め称える。
もちろん、生き残るためである。未来の王への媚びは大事だ。
ヘンリクはそんな彼女を見つめる、場に優しげな空気が流れる。
その眼差しは、いつの間にか以前よりずっと穏やかなものへ変わっていた。
最初は、奇妙な少女だった。
急に前世がどうとか言い出し、突拍子もない話を始める変人。
だが今では、彼女との時間が楽しくなっている自分がいる。
カタジナが笑えば、地下牢の冷たい空気が少しだけ和らぐ気がした。
(……牢越しではなく、もっと近くで話したい)
ふと、そんな願いが胸をよぎる。
その想いが、既にただの興味ではなくなっていることを、ヘンリク自身まだ自覚していなかった。
*
ある日のことだった。
二人は地下牢という場所に似つかわしくないほど呑気に、しりとりをしていた。
「ほら、『ん』が付いたら負けですよ。頑張って下さい、ヘンリク様」
鉄格子越しにカタジナが楽しそうに笑う。
ヘンリクは腕を組み、真剣な顔で考え込んでいた。
「ちょっと待て……。ご、ご、ごはん!」
言った瞬間、彼の表情が固まる。
「あ」
「はい。ヘンリク様、負けです」
カタジナは勝ち誇ったように指を突き付け――。
「……ん?」
そこで気付いた。
地下牢の奥から、重い鉄扉の開く音が響いていた。
ギィ、と軋む音が静寂を裂く。
薄暗い通路の向こうから現れたのは、数人の男達だった。
その先頭に立つ青年を見た瞬間、カタジナは息を呑む。
短く切った茶髪。鋭い目。鍛えられた身体。
ヤンだ。
とうとうレジスタンスが来た。
「カタジナ!これで助かるぞ」
ヘンリクが安堵したように振り返る。
だが、カタジナは少しだけ困ったように笑った。
なぜなら彼女は知っている。今回は、自分は一緒に行けないのだと。
「ヘンリク様、お助けに参りました」
ヤンは片膝をつき、低い声で告げた。
「身代わりの死体を用意しております。これで国王の目を誤魔化せます」
レジスタンスは、この救出のために用意周到に準備してきたのだ。
警備の配置。逃走経路。偽装工作。
すべては、ヘンリク王子を救うため。
そこに、カタジナの存在は含まれていない。
「ヤン!カタジナも一緒に救ってくれ!」
ヘンリクが即座に叫ぶ。
その声には、これまでにない焦りがあった。
しかしヤンは、苦しげに眉を寄せながら首を横に振る。
「申し訳ございません。今は時間がありません」
低く押し殺した声。
「お救いできるのは、ヘンリク様だけです。ここで気付かれれば全て終わります」
正しい判断だった。レジスタンスは王子一人を救うために動いている。
余計な人員を連れ出せば、逃走速度は落ちる。露見の危険も増す。
ヘンリクの顔は、明らかに苦悩に歪んでいた。
「ヘンリク様」
カタジナは慌てて笑顔を作る。
「私は大丈夫です。落ち着いたら助けに来て下さい。待っていますから」
本音を言えば、不安だった。
怖い、一緒に行きたい、置いて行かれたくない。
けれど、ここで我儘を言えば彼らを危険に晒す。
だから笑うしかなかった。
ヘンリクはそんな彼女を見つめ、苦しげに唇を噛み締める。
やがて、押し殺したような声で言った。
「……わかった」
低く、静かな声。
「必ず助けるよ、カタジナ」
その碧眼の奥には、抑え切れない熱が宿っていた。
「君に伝えたい事が、沢山あるんだ」
けれどカタジナは、その意味に気付かない。
彼女にとってヘンリクは、あくまで“原作の主人公”だった。
そしてヘンリクは、ヤン達と共に地下牢を後にした。




