闇の中に、光る目を見た。
その日の夜。
混乱する十和子を放っておけないと思ったのか、九井はずっと側にいて、夕飯に誘ってくれた。
「奇妙な話だねぇ」
料理が出来るのを待っている間、帰宅した彼女の旦那さんである吾郎にも事情を話すと、彼は腕を組んで天井を見上げた。
「ここに建ってた別の建物に住んでた、かぁ……でも、ここが建て替えられたのはもう三十年も前だったはずだけどなぁ」
市役所勤めの彼は公営住宅などを管理しているらしく、そうした事情に詳しいらしい。
「ここは市営住宅だから、その辺りの記録はちゃんと残ってるとは思うけど……えっと、堺さんとニノマエさんと、どっちで呼んだらいいかな?」
「あ、どちらでも……」
別にここで暮らしていた記憶がなくなっている訳ではない十和子は、そう答える。
「そう? じゃ、呼び慣れてるほうで……もし前に建っていた住宅が堺さんの覚えてるもので、かつ記憶が正しいなら、もう貴女は五十歳近いっていう話になるよね」
「多分……」
「でも、どう見ても堺さんは五十歳を超えているようには見えないねー。どう多めに見積もっても三十代に差し掛かったところだ」
吾郎は、九井に渡されたビール缶のプルトップをプシュッと音を立てて引きながら、冗談まじりに片目を閉じる。
しかし彼の言う通り。
十和子が昔住んでいた場所が昔の建物だったとするのなら、そうでなければおかしいはずだ。
「外見が若いって褒めるのも、最近はセクハラ扱いらしいわよ? 気をつけなさい」
「おっと失礼。おっさん化しないように気をつけないとな」
ははは、と笑う彼を、九井は睨みつける。
「まぁでも、確かにあなたの言う通りよね」
タイムスリップか何かかしら? と冗談めかして彼女は言うが、十和子は笑えなかった。
本当に、そうとしか思えなかったからだ。
十和子の知るテレビはこんなに薄いものではなかったし、家庭用の電話は黒電話ではない。
使い方こそ分かるものの、九井と一緒に買いに行ったスマートフォンという機械も、記憶を取り戻した今となっては摩訶不思議なものにしか思えなかった。
「……あの、ごめん。茶化すようなことじゃなかったわよね」
黙り込んでしまった十和子をどう思ったのか、九井はバツが悪そうな顔で目を伏せる。
「いえあの、大丈夫です……」
「このアパートが建て替えられた経緯でも、少し調べてみようか。詳しいことは分からないかも知れないけど、もしかしたら昔の建物の外観とかは分かるかも」
「ぜひ、お願いします」
普通に考えたら、そんな昔の建物を記憶しているなんて、あり得ない。
外見通りの年齢ならまだ自分は二十代で、その頃には生まれていないのだから。
それに……年号。
十和子の知る限り、自分が生きていた場所の年号は『昭和』だったはずだ。
しかし、今ついているテレビのニュースで口にしている年号は『令和』。
タイムスリップも現実味がないが、少しずつ、確実に違和感のある様々なものを見ると……別世界、という言葉が頭を過ぎる。
確か、並行世界、とか言うんだっただろうか。
夫が好きで買っていたSFの雑誌や、好んで読んでいた漫画なんかに特集されていたことが多々あり、彼が説明してくれたのだ。
現実とよく似た、しかし別の世界に迷い込むような話も、多かった。
本当にそういうことはあり得るのかも知れない。
でも十和子が実際に摩訶不思議な状況に置かれて気になるのは、そうした現在の境遇よりも、戻れるのかどうか、だった。
ーーー和葉のところに、そして夫のところに、帰らないと。
あの子はまだ幼い。
自分がそばにいないと、すぐに泣き喚く子だった。
夫も、愚鈍ではないが口下手で人付き合いが苦手な人だ。
十和子がいなくなってしまったら、彼一人で子どものことを色々やるのは、結構な負担だろう。
二人が心配でいてもたってもいられなくなるが……だからといって、どうしたら良いかも分からない状態で、どんな行動を起こすことも出来ない。
ーーーどうか。
和葉のところへ帰れますようにと、十和子はいるのかいないのかも分からない神に、そう祈ることしか出来なかった。
※※※
自室に帰って布団に入ると、眠れないと思っていたが、疲れていたらしくいつの間にかウトウトとしていた。
そうして、夢を見た。
十和子は今いるこの部屋が、ひどく散らかっているのに呆れかえっていた。
誰がこんなに汚したのかしら、と腹を立てながら片付けていくが、遅々として進まない。
そのうちに、押し入れの中……わずかに開いた襖の向こうから視線を感じて、十和子は目を向ける。
『何でそんなところに入っているの? 出てきなさい』
しかし返答はなく、襖が開く気配もない。
暗い闇の向こうにかすかに光る、淀んだ目。
ひどく不気味に思っても良さそうな状況だが、夢の中の十和子は恐れを抱くこともなく押し入れに近づき、襖を開く。
そこにいたのは、全身にアザのある、ガリガリに痩せた男の子。
目ばかりが大きく、十和子が近づいたことで蹲ったままこちらを見上げる彼と目線の高さを合わせた……ところで。
パッと、目が覚めた。
ーーー今のは?
そこにいたのは、和葉ではなかった。
夢の中の、奇妙に暗い部屋の中で、十和子はその事に違和感を覚えていなかった。
それどころか、男の子に何かを話しかけようとしていたように思える。
ーーーあれは、何?
恐る恐る、布団に入ったまま押し入れの方に目を向けるが、隙間など開いておらず、誰かのいる気配も当然ない。
豆電球のオレンジの光が照らす中、高鳴る心臓を落ち着かせた十和子は、大きく息を吐く。
何か引っかかるが、自分が何に引っ掛かったのかはよく分かっていない。
和葉は娘であり、十和子に息子はいない。
あんなに部屋を散らかしたこともない。
気持ち悪い違和感を抱えたまま、そこから眠ることも出来ず、十和子はそのまま朝を迎えた。