娘の姿が、どこにもなくて。
『かーたん!』
十和子は、耳元に響く娘の声でふと我に返った。
見慣れた、公共アパートの自室の中。
見回すと、畳み掛けの服と取り込んだ洗濯物を入れたカゴが、ベランダがある部屋に座った自分の周りに並べてある。
どうやら、少しの間ぼんやりしていたらしい。
ーーー和葉はどこ?
十和子は今日四歳になる娘の姿を探したが、目につく場所にはいないようだ。
押入れの襖は閉まっているし、ベランダに続く窓にもちゃんと鍵がかかっている。
この部屋から見えるのは、三畳間と玄関へ続く短い廊下の脇にあるトイレのドアだが、そちらにもいないようだった。
ーーー台所か、向こうの部屋?
もう一つの窓を閉めたかどうか少し不安になって立ち上がり、玄関横の台所を覗いてみるが和葉の姿はない。
後残っているのは、台所の先にある、風呂場へ続く食卓を置いた八畳間だ。
一応三部屋あるが狭いアパートなので、ほんの数歩の距離でしかないのだが、物音ひとつしない。
ーーー寝てるのかしら?
少し不安を覚えながら台所を通り抜けた先にも、いなかった。
心臓が少しずつ高鳴っていく。
自分はどのくらいぼんやりしていたのだろうか、と胸元を押さえながら、十和子は部屋トイレから風呂までぐるぐると探し回る。
だが結局、見つからなかった。
「和葉……? いたら返事を……」
ついに押入れの襖まで全て開いたが、やはり誰もいない。
ーーーまさか外に。
十和子は抑えきれない焦燥を感じながら、玄関に向かった。
サンダルをつっかけて部屋を出ると、急いで目の前の柵から眼下を覗き込む。
ーーーもし落ちてたら。
柵の幅は、子どもが体を横に向ければ通り抜けられるくらいで、ご近所さんと『危ないわよね』と話していた。
部屋は四階にあり、この高さから落ちたら大人でも助からない。
だが、十和子の心配は杞憂だった。
自転車置き場と花壇の間にある、駐車場に向かう狭いアスファルトの道には誰の姿も見えなかった。
フェンスで仕切られた自転車置き場の向こうでは車が行き交っているが、事故を起こした様子もない。
しかし安心したのも、つかの間の話。
和葉の姿が見えないことに変わりはないのだ。
「和葉! どこ!?」
少し大きな声で呼びかけてみるが、やはり返事はない。
角部屋なので、すぐ横の階段を降りて行こうとしたところで、お隣のドアが開いた。
「和葉!?」
「あら、サカイさん。どうしたの、そんなに慌てて」
「九井さん……あの、和葉を見ませんでしたか?」
顔を覗かせたのは、当然ながら和葉ではなかった。
年齢は30代後半くらいの、腕に大きな火傷の跡があるお隣さんだ。
九井は目鼻立ちのはっきりとした美人だが、子どもの頃に火事に遭ったらしく、腕だけでなく顔にも少し火傷の跡があるそうで、左半分を隠すように前髪を伸ばしている。
「カズハ、って、私?」
キョトン、とした顔をされて、十和子は慌てて首を横に振った。
そういえば、お隣さんは和葉と同じ名前だったのだ。
「いえ、そうじゃなくて、私の娘の……」
と、言いかけたところで、十和子は違和感に気づいた。
ーーーサカイ、って、誰?
十和子の苗字は二前であり、サカイではない。
夫の名前も、一成である。
誰かと勘違いしているのだろうか、と思ったのもつかの間、十和子はおかしいのが九井ではなく自分であることに気づいた。
ーーーそうだ。私の苗字は堺だ。
彼女は、間違っていない。
ここに住み始めたのは、半年前。
記憶喪失になってフラフラしていたところを、お隣の九井さんに保護されて、警察に行って。
色々な検査などをされた後、彼女の好意で隣の空き部屋に引っ越して世話を焼いてもらったのである。
十和子は混乱した。
ーーーどうして……。
唇を震わせ、頭を横に振る。
なぜなら、それを知ってなお、十和子は自分が堺ではない、と感じたからだ。
この場所も、アパートの部屋での暮らしも。
一切合切を覚えているのに、ここは『知らない場所』だった。
「堺さん?」
黙り込んでしまった十和子に、九井がそう呼びかけてくるが……小さく首を横に振り、血の気が引いたまま開けっ放しのドアから自分の部屋の中を覗き込む。
そこには、洗濯物があった。
自分一人分だけが畳み掛けで置いてあり、夫のものも、娘のものもない。
「そんな……」
思わず、声を漏らしながら口元を両手で覆う。
ーーーここじゃない。違う、私の居場所は、ここじゃない……。
九井のことも、部屋のことも、記憶を失ってからの自分のことも、全部覚えている。
でも。
ーーー何が、どうなってるの?
視界が揺らぐほどの衝撃を覚えたまま、十和子は助けを求めるように九井を見た。
彼女は、こちらを見て何を思ったのか急に表情を引き締めて、スリッパ姿のまま廊下に出てくる。
「堺さん……もしかしてあなた、記憶が?」
「ええ……ええ……」
何度も頷くが、同時に声が掠れ、目から涙が溢れる。
どう説明したらいいか分からないまま、口元を押さえて嗚咽を漏らす十和子を、九井は優しく抱きしめて背中を叩いてくれた。
『落ち着いて。いきなり記憶が戻って、混乱してるの? でも、良かったじゃない』
そんな彼女の優しい言葉が、まるで反響しているように遠かった。
ーーー違うの。
記憶が戻ったことも、混乱しているのもその通りだ。
だが、違う。
ーーーただ、記憶が戻っただけじゃないの。
声にならないが、十和子が感じていた違和感はもっと違う種類のものだった。
この廊下から見える街並みも。
目の前を走る道路の形や標識、信号の場所も。
今自分が住んでいる部屋の位置も。
何もかも、昔から知っている景色とそう変わっていないのに。
今住んでいるこのアパートの形が全く違い、家族の存在だけが消えているのだ。
ーーー何が、どうなってるの?
全てが知っている景色の中で、今の住んでいるアパートだけが慣れ親しんだものではない。
ーーー和葉のところに、帰らないと。
今いるこの場所が、本当ならそうであるはずなのに。
帰るべき家がなく、娘がいないのだ。
その事実に対する、途方もない違和感を消化し切れないまま……十和子は、九井の腕の中で泣き続けた。




