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藍風堂の前には、まだ多くの人が集まっていた。鈴と茜が到着したとき、人々は不思議そうに二人を見た。


「あれ?あれは『藍の風』の鈴さんじゃないか?」


「ここに何の用だ?」


噂を耳にした鈴は、何も答えず、静かに店の中へと入っていった。かつて彼女が生まれ育った家。十二年ぶりに入る実家は、懐かしさと共に不思議な感覚を覚えた。


「お母様、ここがお母様の生まれたお家なんですね」


茜の声に、鈴は優しく微笑んだ。


「そうよ。お母さんはここで育ったの」


二人が店の奥へと進むと、襖の向こうからお琴の声が聞こえた。


「入りなさい」


戸を開けると、そこにはお琴が正座して座っていた。彼女の前には、一枚の着物が広げられていた。それは、鈴が子供の頃に染めた初めての着物だった。


「来てくれたのね、鈴」


お琴の声は、昨日とは違い、柔らかく温かみがあった。


「お琴……本当に藍風堂を閉めるの?」


鈴の問いに、お琴はゆっくりと頷いた。


「ええ。もう十分よ。父上から継いだ店を、これ以上続ける理由がないの」


鈴は悲しげに眉を寄せた。


「でも、藍風堂は江戸の誇り。伝統があるわ」


お琴は微笑んだ。


「伝統は形ではなく、心に宿るもの。父上が大切にしていたのは、看板ではなく、藍を愛する心だったわ」


鈴はお琴の前に座った。茜も静かに二人の横に座った。


「これは……」


鈴は広げられた着物に気づいた。十二歳の誕生日に、父の指導の下で染めた最初の着物。当時は不格好だと思っていたが、今見ると、そこには確かに彼女の才能の片鱗が表れていた。


「覚えているでしょう?あなたの初めての作品。父上がどれほど喜んだか」


鈴の目に涙が浮かんだ。


「覚えているわ。父上は『鈴の布には風が見える』って」


お琴はゆっくりと立ち上がり、押し入れから古い箱を取り出した。


「これを見て」


箱の中には、鈴が家を出てからの十二年間、彼女が染めた布のすべてが、年代順に丁寧に保管されていた。


「これは……どうして?」


お琴は深呼吸をした。


「私が間違っていたわ」


お琴が先に口を開いた。


「あなたを追い出したとき、父上の言いつけだからと自分に言い聞かせていた。でも本当は……嫉妬していたの。あなたの才能に」


鈴は静かに聞いていた。


「あの火事の夜、あなたを助けるよう男を遣わしたのは私よ」


お琴の告白に、鈴は驚いた。


「あなたが……『藍の風』を差し向けたの?」


お琴は頷いた。


「あの火事は私の差し金じゃない。本当に偶然よ。でも、あなたが危険だと知って……清兵衛に頼んだの」


お琴は声を詰まらせながら続けた。


「あの日から、密かにあなたを見守っていた。『藍の風』という名前で、時々助けさせていた」


鈴の目にも涙が溢れた。


「なぜ名乗らなかったの?」


「恥ずかしかったの。あなたに謝る勇気がなかった」


お琴は茜の方を向いた。


「茜、あなたも巻き込んでごめんなさい。私があなたのお母様を追い出さなければ、あなたはもっと幸せな子供時代を過ごせたはず」


茜は静かに首を横に振った。


「叔母様、茶碗の中の水は、注がれた形に従います。茜は今の形が一番幸せです。お母様と二人で生きてきた日々が、私の宝物です」


その言葉に、お琴とユウは驚いた表情を見せた。まだ幼いはずの茜の言葉には、大人びた知恵が宿っていた。


「それに」と茜は続けた。「お母様はいつも、叔母様のことを『強い人だけど、心は優しい』と言っていました」


お琴の頬を涙が伝った。彼女は膝をついて、鈴の前で深々と頭を下げた。


「鈴、許してほしい。妹として、そして染め物師として、あなたを追い出してしまったことを」


鈴は急いでお琴を抱き起こした。


「お琴、もう十分よ。私も若かった。自分の気持ちだけで家を出て、父上と母上を悲しませた。あなたを一人残して」


二人は抱き合い、十二年分の涙を流した。茜も二人に寄り添い、三人で抱き合った。


外では、夏の終わりの風が優しく吹いていた。


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