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鈴の仕事場には、常に多くの注文が舞い込んでいた。町人から武家、そして公家までもが、「藍の風」の名を求めるようになっていた。今日も、黒塗りの駕籠が門前に止まった。
茜が出迎えると、年配の女性が降りてきた。その佇まいから、ただの町人ではないことが伺えた。
「ご主人はいらっしゃいますか?」
女性の問いに、茜は丁寧に答えた。
「母なら奥におります。どちらさまでしょうか?」
「大奥の用人、玉川と申します」
茜は驚いたが、すぐに落ち着きを取り戻し、女性を中へ案内した。
仕事場で玉川と対面した鈴は、丁寧にお辞儀をした。
「大奥からのお客様とは、身に余る光栄です」
玉川は鈴を観察するように見つめていた。
「あなたが『藍の風』と呼ばれる染め物師ですね。評判は聞いていましたが、想像より若い」
鈴は微笑んだ。
「若輩者ですが、精一杯の技術をお見せできれば」
玉川は頷くと、懐から一通の書状を取り出した。
「将軍様の御前で、来月、蹴鞠の催しがございます。その際のお召し物として、『藍の風』の染め物が良いと、奥方様がおっしゃっています」
鈴は息を呑んだ。将軍家の御用とは、染め物師として最高の名誉だった。しかし同時に、心に引っかかるものがあった。
「恐れ入りますが、これまで将軍家の御用は藍風堂が担ってきたと承知しております。私ごときが」
玉川は手を振った。
「奥方様が『藍の風』を指名なさいました。藍風堂とてお気に召さないのでしょう」
鈴の胸に痛みが走った。姉・お琴の店の評判が落ちているという噂は聞いていたが、ここまでとは。しかし、この依頼を断る理由はなかった。
「畏まりました。精魂込めて仕上げさせていただきます」
玉川が帰った後、茜が心配そうに母の様子を窺った。
「お母様、大丈夫ですか?」
鈴は茜に優しく微笑みかけた。
「大丈夫よ。ただ、少し複雑な気持ちになっただけ」
「叔母様のお店のことですか?」
鈴は驚いて茜を見た。幼いながらも、娘は状況をよく理解していた。
「そうよ。お母さんが藍風堂から出てきてから、十二年が経つの。あの日のことを、今でも覚えているわ」




