16
享保八年、初夏。江戸の町には心地よい風が吹き抜けていた。八代将軍・吉宗の改革により、町は活気に満ちていた。質素倹約を旨とする将軍の姿勢は庶民の暮らしにも影響し、華美な装いよりも品格と質を重んじる風潮が広がっていた。
小石川の路地を抜け、少し高台に上がったところに建つ小さな家。「藍の風」と書かれた控えめな看板が掛かっている。前を通る人々は皆、その家を知っていた。三年前の大火から立ち上がり、今や江戸で指折りの染物師となった鈴の住まいだ。
中では、今や八歳になった茜が客を迎えていた。
「いらっしゃいませ。母はただいま染め物の仕上げをしております。しばらくお待ちくださいませ」
茜の物腰の柔らかさと、年齢の割に落ち着いた対応に、客は感心した。
「立派なお嬢さんじゃ。お母さん譲りの美しさじゃな」
茜は礼儀正しくお辞儀をした。
「ありがとうございます。お茶をお持ちします」
茜が奥へ引っ込むと、客は店内を見回した。壁には鈴の染めた布が展示されている。深い藍色の中に、まるで風が吹いているかのような流れるような模様。見る角度によって色合いが変わり、光の加減で様々な表情を見せる。
奥の仕事場から鈴が現れた。二十九歳になった彼女は、苦労の跡を残しながらも、品格と落ち着きを備えた美しい女性になっていた。
「お待たせしました。西村様のお着物、できあがりました」
鈴は丁寧に包まれた着物を客に差し出した。客は恭しく受け取ると、布を広げた。そこには、風に揺れる藍色の花々が描かれていた。まるで生きているかのような躍動感に、客は息を呑んだ。
「素晴らしい……これぞ『藍の風』の技。鈴殿、あなたの手にかかれば、布は命を得るのですな」
鈴は謙虚に頭を下げた。
「過分なお言葉、恐縮です」
客が帰った後、茜が母に寄り添った。
「お母様、また素敵な着物ができましたね」
鈴は娘の頭を撫でながら微笑んだ。
「茜のおかげよ。あなたが手伝ってくれるから、私も安心して仕事ができるの」
茜は嬉しそうに母の腕に抱きついた。
「お母様、茜もいつか『藍の風』のような染め物ができるようになりたいです」
「ええ、きっとできるようになるわ。あなたにはその才能がある」
鈴は娘の瞳に、かつての自分と同じ輝きを見出していた。




