71、反逆②
二校時目の授業がはじまると、気の弱い若い男性教師が、
「プリント学習をやめて、授業を聞いてください」
と、お願いしていたが、大半の生徒はかまわずプリント学習を続けていた。教師は困った顔をしていたが、一校時終わりの休み時間で、教師間で取り決めをしたのか、一部の一斉指導を聞いている生徒に向けて授業を続行した。そのようなことが四校時まで続いた。教師たちも、この前代未聞の事態にどう対処すればいいのか、戸惑っているのだろう。
一斉指導の授業をマラソンランナーに例えると、このランナーは教室にいる生徒一人一人に対して、伴走者のように寄り添って走ってはくれない。決められたスピードで走ることのみ専念し、ついてこられない生徒を振り返ることはない。
遅れはじめた生徒は追いつこうと懸命にがんばるが、その差は開くばかり。授業という名のランナーの背中は小さくなっていき、やがて姿さえ見えなくなる。焦って前よりもがんばるが、圧倒的な差は埋まることなく開くばかりである現実を知った時、歩みは止まる。絶望の闇の中、理解不能の授業に身を置くことになった少年少女の背後に、ソウ・チャイルドは出現する。理解していない授業は、黒板に書かれた内容を見ていても、それは見えていない。教師の喋っていることを聞いていても、聞こえていない。それがあの×印で、両瞼両耳が縫われている意なのだろう。ミイラ姿なのも、存在しない死者のように葬られた、ということなのか。そして見捨てられた生徒達は、上っ面の勉強行為を強制させられる。彼らは、大人達の《高いレベルの教育を与えている》という自己満足を食べさせられ、代償として魂が痩せていくのだ。『ソウ・チャイルド』は、痩せ細った魂の悲鳴から産まれるオーラなのだ。
彼らのように遅れをとった生徒にこそ個別指導が必要だが、学校はそれを与えてくれない。多くの場合、家庭の経済力も弱く塾に通ったり、家庭教師を雇ったりする事が出来ないので追いつくことさえ出来ない。家に帰れば、家事や介護の手伝いをしなければならないこともあり、学校にいる時間だけが勉強に専念できるのだが、実際は理解不能の授業を聞かされ、ノートを取っているだけなので、まったく学力が上がらないまま月日だけが流れていく。授業の理解度が遅い生徒にも、共に寄り添ってくれる個別指導なら、費やした時間の分だけ学力も上がり、学ぶ喜びも味わえるが、社会はそれを与えず切り捨てた。そんな子供の人権を踏み躙る環境に、長期間身を置くのだ。特に貧しい家庭の子供達は、貧困から抜け出す有効な手段である教育を実際は受けていない。未来に羽ばたく翼は、子供の時に切り取られたのだ、教室で。
彼らの多くは大人になって、不安定で低収入の仕事に就く。低収入のために納める税金も少なく、失業者となって、失業保険や生活保護で暮らすこともある。国家は税収入が減り支出が増え、財政を圧迫する。若い芽を育てず見捨てていき、萎れ枯れていった魂の死骸が、国中に広がっているのだ。そんな非道な事をした当然の報いを、現在も国家は味わっている。
昼休み後の五校時目の授業は、全学年自習となった。教師たちは職員室で、この異常事態について話し合いをしている。生徒たちは、嫌な顔をする教師がいないので、のびのびとプリント学習に勤しんだ。休み時間になっても、教わろうとする生徒、教える生徒の光景があちこちでみられた。それまでは学力の差による目に見えない階級が存在し、壁のようになっていたが、『教える人』『教わる人』の役割からくる交流から、結果壁がなくなり、生徒間の融和が図られた。教師にとっては不愉快極まりないが、生徒にとっては学力が上がること極まりないのだった。どちらのために学校が在るのかを考えれば答えは自ずと出るが、教師たちは自分たちのために学校は在るのだと考えた。




