9話 何でもない時間
庭園のベンチに座って、目の前の景色をひたすらに写していく。薔薇のアーチの奥に、真っ白のガゼボが建っている。
「……う〜ん。ルシオン、あなたならどう思います?」
「どこです」
「ここ。ガゼボのてっぺんですわ」
ルシオンがベンチの後ろから身を乗り出し、私のキャンバスを覗き込む。真横に彼の顔が来る状態になった。
「俺にはよくわかりません……」
まつ毛が数えられそうなほど、彼の横顔がすぐ隣にある。整った輪郭に、通った鼻筋に——何でも吸い込みそうな黒い瞳。
「本当に護衛騎士なの、あなた」
「はい、そうです」
彼に向かって、ジトッとした視線を送った。
「絵のひとつもわからないなんて、困ったものですわね」
「申し訳ありません」
あまり悪びれた様子もなく言うものだから、私は小さく息をついた。
「いいこと? この歪みが重要なんですの。完全に整っていると、不自然になるでしょう?」
「……あえて崩していると」
「そう。ほんの少しだけ」
私の解説を聞いたルシオンは、しばらく黙ってから低く呟いた。
「偽装、ですか」
突拍子もない発言に、私は自分の耳を疑った。
「……はい?」
「一見して違和感のない構図に見せかけて、要所にだけ歪みを仕込む。気づいた者だけが気づく印……」
「違いますけれど」
即座に否定したのに、彼はきゅっと目を細めただけだった。
「高度です」
「違いますってば」
頬を膨らませながら筆を動かす。だんだんとガゼボが形になっていく。
それを、ルシオンは食い入るように追いかけていた。
「……何ですの、その顔は」
「いえ」
彼はそう短く返しながらも、視線はキャンバスに貼り付いたままだった。
「……この絵を解析しています」
「やめなさい、物騒ですわ」
「申し訳ありません」
まったく申し訳なさそうではない声に、私はため息をついた。筆を止めて彼に向き直る。
「いいこと? ただの風景画ですわよ」
「はい」
真剣なのかふざけているのか。読み取れない表情を見つめながら続ける。
「陰謀でも暗号でもありません」
「はい」
「罠でもありません」
少し間があってから。
「……現時点では、ですか」
「違いますわよ、将来的にもありませんわ」
ぴしゃりと否定してから、私はまた筆を動かす。ガゼボの白に、ほんの少し影を落とした。
「何度も言いますけれど、この歪みが大事なんですのよ。整いすぎていると不自然になるでしょう」
「……なるほど」
ルシオンは低く呟き、珍しい物を観察するように目を細めた。
「意図的に違和感を残し、見る者の認識を誘導する」
「しませんわ」
「気づいた者だけが気づく印」
「やめてくださいまし」
いくら否定しても、頑なに何かがあると信じて疑わない彼。そろそろ疲れてきた。
「やはり高度ですね」
「だから違いますってば」
再度私がきっぱり言い切ると、ルシオンは一瞬だけ沈黙した。そして——
「では」
「まだ何かありますの?」
「このガゼボは、合図を送るための拠点ではないと」
ため息を一つこぼしてから、また否定した。
「違います」
「薔薇のアーチは目隠しではない」
「……違います」
「庭園全体で一つの陣形を——」
「違います!」
思わず声が大きくなった。ルシオンはぴたりと口を閉じる。けれど、その瞳だけは一切揺らがない。
「……本当に?」
「本当に」
ルシオンはまだ疑っているらしい。眉が少し寄っている……気がする。
「一切の意図もなく?」
「ありませんわ」
「偶然、この位置に歪みが?」
「偶然です」
返すのが面倒になってきたところで、ルシオンは少し黙った。けれど——
「誰にも気づかれずに?」
「ただの絵ですわよ!」
また口を開いたので、私はそう言い切った。すると、ルシオンは小さく頷いた。
「承知しました」
あっさりと引いたことに、逆に拍子抜けしてしまう。尋問はようやく終わったらしい。
「……わかっていただけた?」
「はい」
彼は一歩だけ距離を詰め、再びキャンバスを覗き込む。私も筆を動かそうとしたのだが。
「では——」
「まだ続きますの?」
「この"ただの絵"に、どの程度の警戒を敷くべきか検討します」
「しなくてよろしいです!」
間髪入れずに言い返すと、ルシオンはこてんと首を傾げた。
「警戒不要と?」
「不要ですわ」
「……それはそれで、不自然ですね」
「どうしてそうなりますのよ」
思わず額を押さえる。こめかみのあたりがじんわり痛い。雲一つない快晴なのに。
「今日は"普通"にしているだけですわ」
「承知しています」
知っているなら何故怪しむのだ。訳が分からない。
「なら放っておいてちょうだい」
「それはできません。普段より、たちが悪いので」
意図の読めないひと言に、私はまたルシオンの方を向いた。筆が一向に進まない。
「褒めていませんわよね?」
「はい」
恐ろしく早い即答だった。じっとルシオンを睨むけれど、彼はまったく気にした様子もなく続けた。
「自然すぎます」
「……普通に絵を描いているだけです」
「はい」
じゃあ何故質問の雨を降らすのか。頭がこんがらがってきた。
「それの何が問題だと?」
「問題はありません。ですので、より警戒が必要です」
「意味がわかりませんわ!」
とうとう堪えきれなくなり、私はまた声を上げた。
するとルシオンは、口元を緩めた——気がした。実際には動いていなかったかもしれない。
「安心しました」
「何がですの」
また変なことを言われるのかと身構えた。が、返ってきたのは、
「いつも通りです」
という予想外の言葉だった。
「……あら」
言葉が詰まる。考えていた返しが、全て覆されてしまった。そよ風だけが空気を埋めている。
「……まったく」
私は肩をすくめ、再びキャンバスへ向き直る。
「どうせ人は、見たいものしか見ませんもの」
「はい」
「だったら好きに見ていればいいのよ」
ガゼボに白を重ねながら、呆れたように小さく息を吐いた。
「ただの風景画すら、陰謀に見えるのでしょう?」
「はい」
「困ったものですわね」
「ええ」
今度こそ吹き出した。本当に困ったものだ。
——こんなにも、何でもない"はず"の時間なのに。




