10話 無駄
あれから数十分ほど経った。私は鼻歌を歌いながら、草の形を綺麗に整えていく。
「手先が器用ですね」
私は一瞬だけ筆を止めた。水に一粒だけ絵の具を落としたように、昔の記憶が広がっていく。
器用なのは——そうなるように"教育"されたからだ。
「……まあ、これくらい当然ですわ」
(だめよ、怒っては。彼は何も知らないもの)
目を閉じ、深呼吸をして自分を律する。最後の色を乗せ、私はキャンバスから体を離した。
「完成したわ」
「……すごい。細かいですね」
その言葉に、私は一瞬だけ視線を落とす。
細かい。器用。
それは褒め言葉のはず。だけど、薄く爪を立てられたように、胸が少しだけざわついた。
「ええ。そうでしょう?」
何でもないように笑ってみせる。これも、私の得意なことだ。
「これくらい、できて当然ですもの」
軽く言い切ってから、私は肩をすくめて首を横に振った。
「——なんて、昔はよく言われましたわね」
ぽつりと零した言葉は、思ったよりも静かに空気へ溶けていく。
ルシオンは何も言わない。ただ、いつも通りの無表情でこちらをじっと見ていた。
「まあ、今はどうでもいいことですけれど」
場の空気を切り替えるようにして、私はキャンバスへと向き直る。乾きかけた絵の具を指先で確かめて、小さく頷いた。
「それで。解析は終わりまして?」
「いえ、まだです」
「終わらせなさい」
私が睨みつけながら言うと、ルシオンはわずかに首を傾げる。
「ですが、この構図はやはり不自然です」
「どこがですの」
「このガゼボ。中心からわずかに外れている」
キャンバスに向き直るも、彼は止まらない。
「意図があると判断します」
「物騒なものは断じてありません」
私は一瞬だけ目を閉じてから、彼の方を向いた。しっかり目を見て、こう伝える。
「無駄なことほど、丁寧にやりたくなる。そういうものですのよ」
ルシオンは、言葉の意味を咀嚼するように固まってしまった。
(彼には難しかったかしら)
「……本当に、面倒な人ですこと」
「はい」
返ってきたのは迷いのない肯定だった。思わず顔を上げる。ルシオンはいつも通り、子犬のような曇りなき眼をしていた。
「ですが——あなたの言う"無駄"は、よくできています」
わずかに間を置いてから、彼は続ける。
「無駄にしておくには、惜しい」
「……あら」
予想外の言葉に、ぱちぱちと数回瞬きをした。彼の言葉は、警戒でも分析でもなく——ただの評価。
「困りましたわね。評価されないからこそ楽しいのに」
「では、見なかったことにしますか」
「それも困りますわ」
小さく笑ってそう言いながら、筆を片付けていく。
——そのときだった。
「お嬢様」
背後から控えめな声がかかった。振り返ると、使用人が一人。深く頭を下げている。
「旦那様がいらっしゃいました」
その一言で、私の中で時間が止まった。
——父上が、ここに来ている。
それだけで、背筋を冷たい何かが這い回っていく。
「……そう」
けれど、それも一瞬のこと。私は何事もなかったかのように微笑んだ。
「ちょうど退屈していたところですわ」
画材を持って立ち上がり、軽くスカートを払う。風が少しだけ冷たく感じた。
「行きましょう、ルシオン」
「はい」
彼は平坦な声で短く言って、顎を引いて頷いた。その視線が、一瞬だけこちらを探るように揺れた気がした。
私はそれに気づかないふりをして、ゆっくりと歩き出す。
「——さあ」
誰にともなく、小さく呟く。私の口元はきっと、不自然に吊り上がっているのだろう。
「"普通"に振る舞いませんと」
くすりと笑ってみせてから、私はまた前を向いた。




