11話 父上
庭園から屋敷へ戻り、客間の前までたどり着く。ここは別荘だというのに、バカンス以外の理由で来るなんて。
私は一度深く息を吸って、時間をかけて吐いた。後ろにルシオンがいるのを確認し、扉をノックして冷たいノブを回す。
「遅かったな」
私が入室した途端、感情のこもっていない声が耳を刺した。私の髪と同じ、赤い色をしたひげを触っている。
ああ、あの癖は、憤怒している時の仕草だわ。
「申し訳ございません。庭園にて少し——」
「言い訳は不要だ」
弁明に被せるようにそう言われ、並べていた言葉がピタリと止まる。
怒鳴られたわけではない。ただ、それ以上続ける価値がないと判断された。それだけのこと。
「最近、妙な噂を耳にする」
「……噂、でございますか?」
「無駄なことに時間を費やしていると」
顔には何も出さない。出せない。"完璧"な私が恐怖を見せるなんて、あり得ないもの。
「そのようなことはございません」
「そうか。なら、何故婚約破棄された?」
(私が聞きたいわよ)
実際、リリアーナに何か嫌がらせをした覚えはない。そもそもあまり関わりがなかったから。
「私が嫌がらせをしたと、リリアーナ様が申されました」
「それは本当なのか」
「いいえ? 事実無根でございますわ」
父上は眉間に指を当てて、深く息を吐いた。
「お前がそんな噂を立てられる程度の人間だとはな」
ピクリ、と口元が引きつるのを感じた。それでも、微笑みは崩さない。
「事実無根を覆す力もないのか? 私が"完璧"に育て上げたのに?」
「……言う通りでございます」
両手を握り込み、爪を立てて自分を律する。ここで動揺すれば、父上の思う壺になってしまう。それだけは避けたかった。
「……ところで、そこの男は誰だ。まさか連れ込んだのか?」
ルシオンの方を一瞥してから、父上はまた私を射抜くように視線を戻す。
「監視役の騎士ですわ」
「監視役?」と、父上は繰り返した。それから、私の方へ歩み寄ってくる。
大きな影が私にかかり、肩が勝手にはねる。父上は私の頭に手を置いて、続ける。
「本当に、何もしていないのだな?」
「はい、父上」
「……そうか」
私がほっと息をつこうと思った束の間——ぐしゃり、と髪の毛が引っ張られる。頭皮が悲鳴を上げて、赤毛が切れてはらりと落ちた。まるで、私の尊厳みたいね。
「ふざけるな。お前は完璧でなくてはならないだろう」
父上の瞳がギラついていた。小さい頃から何度も見てきた、私の一番怖いもの。
「お前はいつもそうだ。育ててやってるのに、いつも期待が外れてばかり」
視界に涙が滲んで、「ごめんなさい」の一言を発しようと口を開いた——その時。
「おやめください」
ルシオンが、父上の肩を掴んでいた。
「なんだと? 騎士風情が私に指図するのか?」
「はい」
彼は、いつも通りだった。何回そう思ったかはわからないけれど、何を考えているか読めない、無表情だった。
「ですが、俺は監視役以前に護衛騎士です。暴力は見過ごせません」
「護衛も命令されているのか?」
「いえ。俺の判断でお守りしています」
父上の視線が、ゆっくりとルシオンへ向けられる。
「……面白いな」
はっきり聞こえる大きさでそう呟いてから、あっさりと手を離した。解放された髪がばさりと肩に落ち、私はソファになだれ込む。
「忠誠心か。それとも、正義感か」
「どちらでもありません」
詰め寄る父上に動じず、ルシオンは淡々と答える。
「職務です」
「ほう」
父上は一瞬だけ笑った。けれど、その目はまったく笑っていない。底の見えない深淵のように感じられた。
「では聞こう。お前は、この娘をどう見る」
それは唐突な問いだった。ルシオンがほんの一瞬だけ、私の方を見る。それから——
「……未完成です」
と、目を細めながら静かに言った。
(……え?)
理解が遅れて、やっと頭に入ってきて、でもやっぱり理解できなかった。父上の口元が、笑顔ではない歪みを作る。
「ほう。言うではないか」
ルシオンは、「ですが」と続けた。
「壊れてはいません」
その一言が、私の心に触れて、それから浸透した。限界まで目を見開き、ルシオンをじっと見つめた。
「……そうか」
父上は興味を失ったように視線を外し、「くだらん」と。それだけ言って、背を向ける。
「ペリュン」
「はい」
私は平静を装い、また"完璧"な笑顔を作り上げる。
「次は結果を持ってこい」
「——承知いたしました」
誰が聞いても気丈に聞こえる声色で、私はそう頷いた。父上はそれ以上何も言わず、そのまま客間を後にした。
扉が閉まる音が大きく響き、足音が次第に遠くなっていく。。
しばらくして、私はコルクの栓を開けたように、ゆっくりと息を吐いた。
「……勝手なことを言ってくれましたわね」
私は振り返らずに、ルシオンへそう言う。
「申し訳ありません」
「謝らなくて結構よ」
少しだけ間を置いてから、続けた。
「当たっているもの」
私はそっと自分の髪に触れた。切れた毛先が指に絡む。今の顔、きっとひどいものだから。ルシオンには見せられないわ。
「——でも」
それでも、視線は落ちた髪へ向けたまま、くすっと小さく笑う。
「壊れていない、でしょう?」
その問いに、ルシオンは何も答えない。ただ、すぐ隣に立っている。顔を背けていても、ちゃんとそこにいることが伝わる。
「……行きましょう」
私は顔を上げ、いつもの笑みを浮かべて彼を見る。
「"完璧"なんて、こちらから願い下げよ」




