14話 便利
ボートに乗ったあの日から数日が経った。
私は素晴らしい平穏の日々を過ごしていた。紅茶を飲み、庭園で花を眺め、手紙を整理する。
「ペリュン嬢」
ルシオンが扉をノックして、私の部屋に入ってくる。
「……何よ」
「殿下への返書はどうされましたか」
私は一瞬だけ動きを止め、それから該当する手紙を探し出す。
「ああ。そんなものもありましたわね」
手紙を保管している箱から、王家の紋章がついた一枚の封筒を取り出した。
「これですわ」
「返事は」
「しておりません」
ルシオンは少しだけ首を傾けた。私は手紙に目を向ける。
「……何故ですか?」
「婚約破棄してきた相手に、何を返せばいいんですの? 私にはわかりませんわ」
ルシオンから言葉は返ってこなかった。不審に思い顔を上げると、彼は顎に手を当てて何かを考え込んでいた。
「……何を考えていらして?」
「返書の内容です。書き出しは『拝啓、王子殿下へ。婚約破棄ありがとうございました』で……」
「喧嘩を売りに行ってません??」
私は封筒から手紙を取り出して開いた。実際に読むのは初めてだけど、一体どんな——
『リリアーナ嬢に嫌がらせをし、婚約破棄で"狂人令嬢"が暴れたと、社交界が荒れている。君の問題だろう、何とかしてくれ。』
挨拶の定型文もなし。さらに、社交界のことを丸投げときた。なんて失礼な手紙なのだろうか。
「そもそも、私に社交界をどうにかしろと言われても……」
「その通りですね。ペリュン嬢が行けばさらに混乱するかと」
貴族は面倒だ。根も葉もない噂を面白半分で信じ、嘲笑するしか能がない。だからこそ、今行けば格好の的だ。
それに、リリアーナと鉢合わせした場合のことも考えなければならない。彼女は絶対に被害者面をするだろうから。
「もう……私の平穏を返してちょうだい……!」
「しかし、返事をしなければおそらく——」
ルシオンが何かを言いかけた瞬間だった。部屋の扉が慌ただしくノックされ、一人の侍女が入ってくる。
「失礼いたします、お嬢様! あの、殿下が、王子殿下が来ております……!!」
私は深く息を吸って、また吐いた。震える指を固く握りしめ、侍女に向き直る。
「来ているって、どこに」
「も、門の前に馬車が……現在は客間にいらっしゃいます。お嬢様を呼ぶようにと……」
もう一度、深く息を吸って吐いた。落ち着け、落ち着くのよ私。
「……今から客間へ行きますわ。ルシオン、あなたもついてきてちょうだい」
「はい、ご一緒します」
私は仕方なく、本当に仕方なく立ち上がり、長い廊下をあえてゆっくり歩く。
「ねえルシオン」
「はい」
「私、帰りたいわ」
ルシオンは首を傾げて言った。
「ここが家では?」
「ここは別荘よ……そういう意味じゃないわ」
ここ最近、彼は首をよく傾げている。不思議なことが多いのか、知らないことが多いのか。フクロウみたいだと思う。
なんて、くだらないことを考えている内に客間へたどり着いてしまった。
「緊張していますか」
「してませんわ」
ルシオンは視線を落とした。
「手が震えています」
「……見なかったことにしてくださる?」
ルシオンは「はい」とだけ言って黙った。私は髪の毛を整え、背筋を伸ばし、完璧な淑女の顔を作った。
(不敬で処刑されたくないもの。不敬で処刑……あっ、少しリズムがいいわね)
咳払いで邪念を払ってから、私はドアノブに手をかける。
ソファに座っていたオルヴィエ殿下が、私を見るなり眉を寄せた。立ち上がらずに、そのままの姿勢で。
「……返事くらいはしてくれないか?」
私はソファの横まで歩いていき、立ったまま言う。
「申し訳ございません。返す必要がないと思っておりましたので」
「……君は、婚約破棄した側ではないだろう」
「ええ、そうですわね」
さらに眉間へしわを寄せる殿下。私は事実しか言っていないのに、そんな顔をしなくても。
「なら、何故そんなに他人事なんだい?」
「もう他人ですもの。当たり前でしょう?」
思ったよりこの言葉が深く刺さったのか、殿下は目を見開き固まってしまった。
客間がしんと静まった。この部屋にあるのは布擦れの音だけ。おそらくルシオンのもの。
「……オルヴィエ殿下?」
一文字ずつはっきり発音して名前を呼ぶと、殿下は肩をびくりと揺らしてこちらを見た。それから咳払いをして、気を取り直す。
「……僕がここに来た理由はわかるね? 社交界が君のせいで荒れているんだ、何とかしてくれ」
(出た、責任転嫁)
噂を信じ、真偽を確かめもせず、あげく全て私のせいにする。この国の未来は大丈夫なのだろうか。
「私、何もしておりませんわ。あの日から社交界に出ていませんもの」
「君が何もしないから困っているんだ」
「それは私の責任ではありませんわ」
完璧な笑顔を向けると、殿下のこめかみがぴくりと動いた。内心ほくそ笑みながら、ただソファの横に立ち続けている。
すると、殿下が突然こんなことを言い始めた。
「では、何故君は、噂を否定しないんだい?」
逆に聞きたい。『何故殿下は私が嫌なことばかり聞くのですか?』と。
もちろんそんなことを聞けるはずもなく、微笑みを崩さないままこう答えた。
「だって、"狂人令嬢"って便利ですもの」




