13話 ボート
別荘から少し歩いた木々の中。目の前に広がるは、壮大な湖。マルフレナ家の領土だから、何をしても許される。
「ボートですか」
ルシオンがオールを両手に、停めてあるボートをつついていた。
「何をしているの……?」
「確認です」
心なしか、ルシオンの瞳がいつもより輝いている気がする。初めての玩具を前にした赤ちゃんみたいで、私はため息をついた。
「ルシオン、たまにはこうやってのんびりもいいでしょう?」
「いつものんびりしてませんか」
「してないわよ!」
私は鼻を鳴らしながら、ボートにゆっくり乗り込んだ。
「……何をしているの、あなたも乗りなさいな」
ルシオンに手招きをすると、彼はオールを肩に担ぎ歩いてきて——船体がぐらりと傾いた。
「ちょっと! もっと優しく乗りなさい!」
「すみません。俺はボートに乗ったことがなく……」
ルシオンが足を引っ込めて、それからもう一度出す。今度はちゃんと慎重にボートへ踏み込んでいた。
「よし、縄を外しますわ……ふんっ」
杭につながれた縄を解き、解き……ほど……けない。
「……俺がやります」
ゆらゆらと船体が揺れたと思えば、私のすぐ後ろから手が伸びてきた。胸板が背中に当たる感触。
(き、筋肉……)
「できました。ここからどうすればいいのですか」
ルシオンの声で我に返る。私は咳払いをしてから、オールを受け取って船を漕ぎ始めた。
中央に向かって、ひたすらに腕を動かしていく。しかし、私のか弱い腕ではすぐに限界がきてしまい。
「る、ルシオン、交代よ……」
肩で息をしながら、オールを彼に託した。彼はオールの柄を握り込み、ゆっくりと動かしてみている。
しかし、子ガモのようにおぼつかなかった。水面とオールがバシャバシャと暴れている。
「先ほどから景色が動いていないのだけど」
「気のせいです」
私は指で水面をなぞり始める。春のあたたかい陽気の中、水はほどよい冷たさで心地よい。
しばらくして、ふとルシオンの顔を見た。彼が無表情なのはかわりないけれど、少し真剣に見えて——
「……ルシオン」
「何ですか」
「私、今すっごく楽しいわ」
オールの動きが止まった。船が揺れる音だけが残る。
「そう、ですか」
「ええ。あなたはどう?」
私がそう聞くと、彼は水面へと目をそらした。
「……楽しいです」
私は目を丸くして、指先で口元を押さえた。
彼が——笑った?
確かに見た。一瞬だったけれど、口角が上がっていた。
「……よかったわ、楽しいなら」
ギュッ。
ルシオンがオールの柄を強く握る。ミシミシと音が聞こえそうなくらいに、強く。
「……ルシオン?」
返事は返ってこない。それはいつものことだけど、何かとてつもなく嫌な予感がする。
「……行きます」
「はい……? ちょっと、何を——」
次の瞬間、すさまじい速度で船が急発進した。
「ぎゃぁぁあッ!!」
バッシャーン、と。湖から跳ね上がった水が、私たち二人を頭からずぶ濡れにした。
髪の毛も、ドレスも、船も。何もかもびしょびしょ。
「……ルシオン」
「はい」
「楽しいですわね」
皮肉たっぷりの一言を、ルシオンは涼しい表情で「はい」とスルーした。忘れていた、この人は鈍感だった。
「一度陸に上がりましょうか」
「わかりました」
またオールを動かそうとする彼の腕に、そっと自分の手を添えた。
「ルシオン」
「はい」
彼は瞬きをしてから、動きをピタッと止めた。
「二度と、オールは握らせませんわ」
「……はい」




