08話 黒幕は遅れてやってくる
沈黙がテーブルの空気をピリつかせる。
僕は、小さく吹き出した。
「なにがおかしいの? この状況でよく笑えるわね。まだ、状況が飲み込めないのかしら?」
僕は、首を振る。
「……すみません。ちょっと壮観だと思って。たかが二年生ひとりに、これだけの人員を割くなんて。先輩たちの熱意には恐れ入ります」
「馬鹿にしてるの?」
「いえ、ただ」
一息ついて続ける。
「お陰で目が覚めました。継承がどれだけ無意味なことか、良く分かりました」
「そんなことを言ってられるのも、今のうちよ」
先輩は、ポケットに手を入れ、取り出したものをテーブルに置いた。
何度も見てきた。
ふと笑みがこぼれる。
「また笑う。もういいわ。爪、切らしてもらうわよ」
「話し合いじゃなかったんですか?」
「時間がない。それにあなたの戯言に付き合うほど暇じゃない」
白い爪切り。
現在の世界を侵食し、継承を受け入れる爪切り。
僕はそれを一度知らずに使い、継承の世界に飲み込まれかけた。
その時、僕は朽木先輩に救われた。
それが今、僕を再び継承の世界へ引きずり込もうとしている。
継承の円環。
これが笑わずにいられるか。
「彼を押さえて」
朽木先輩の声に、実行委員は盲目的に従い、動き出す。
疑念も困惑もない。
白の爪切りとは、そういうものだ。
それにしても、来るのが遅い。
肩と両腕を押さえられ、テーブルに手を開かされる。
「動いてもいいけど、痛いわよ」
彼女はテコを動かし、爪切りを構えると、僕の指を押さえた。
細く冷たい指。
手を繋いだあの日の記憶は、彼女にはない。
それにしても、遅い。
時間稼ぎで、再び笑みを浮かべる。
「まだ笑えるのね。少し見直したわ。でもね、気合や根性ではどうしようもないのよ」
「ええ、知っています」
先輩の手が止まる。
どうして知っているのか、そんな表情を浮かべていた。
「一ついいですか?」
「な、なによ。今更謝ってももう遅いわ」
爪切りが僕の指にかかるその前に、目の端に映った。
僕は大げさに首を横に振り、そのまま視線を外に向けた。
ガラスの向こう。
その場にいた全員が、釣られるように首を動かした。
一人の生徒がこちらに向かって歩いていた。
嫌いな奴。
でも、悪くない。
皆の視線が戸惑うのを、僕は黙って眺めた。
黒幕は遅れてやってくる。
使い古されたシチュエーション。
それが今、僕の前で起きていた。
凶と出るか、吉と出るか。
すべては、彼次第ということだ。
自動ドアが静かに開くと、彼が入ってきた。
「よ! ここは涼しくていいね」
片手を上げながら近づいてくる。
その際、彼の視線が白い爪切りに一瞬注がれたが、表情は変えない。
「朝霧先輩、どうしてここに?」
実行委員の誰かが口に出す。
「ちょっとね」
そう言って肩から掛けたカバンをぽんぽんと叩く。
「もうすぐ終わりますから」
朽木先輩は振り向きもせず言う。
朝霧は構わず近づく。
実行委員は道を開け、丸テーブルのバリケードが崩れた。
「彼に用事があってね。ちょっと借りるよ」
「ですが、爪を……」
朝霧が朽木先輩を見下げる。
その目は冷たく、深淵のように深い。
途端、彼女は竦んだように僕の手を離した。
「ですが」
尚も抵抗する朽木先輩を無視して、朝霧は続ける。
「借りたものを返しに来たんだ」
手をパチパチと叩き、
「さあ、君たちも帰りなさい。『夏、楽しい旅をしよう! 君の夏はこれから始まる!』これは受け売りだけど、こんなところで油を売ってないで、青春を謳歌しなさい」
実行委員は口々になにかを呟いていたが、次第に解けていく。
その際、朽木先輩を見て声を掛けようか迷いながらも、結局は口を噤んだまま、解散していった。
「ほら、君も帰りなさい」
最後まで残っていた朽木先輩の肩を、ポンと叩く。
それが合図だったかのように、彼女は椅子を引き、俯いたまま何も言わずに出ていった。
「新校舎はいいね。新しい匂いって、好きだな」
僕は鼻で笑う。
「嫌いじゃなかったの? 定食屋のポスター」
「嫌いじゃない。趣味じゃないだけだよ」
嘘をつけ。
ポスターのキャッチコピーをまんま言ったくせに、よく言う。
「それで。こうなることも分かっていたでしょ?」
「君こそ、俺がここに来るのを知っていたんだろう?」
定食屋を出る時、彼は言っていた。
引き戸の向こうで、「借りたものは返す」と。
卒業アルバムの返却なら、僕に預ければ済むこと。
それをわざわざ自分の手で返しに来た。
「相変わらずですね」
「褒めるなよ、照れるだろう」
そう言いながら、二階へ向かう。
僕は、立ち上がると黙って後を追った。
彼がなぜ来たのか。
単純なことだ。
彼も、38枚になった絵の真相を知らないからだ。
イレギュラーな僕と、イレギュラーな世界を作った朝霧。
僕たちの知らない何かが動いている。
それを確かめるに、僕は一歩また一歩と階段を登る。
その先にあるだろう、答えを見つけるために。




