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16話 未完成と思惑

 

 入る前から嫌な予感しかしなかった。


 あの湿った匂い。

 油絵が乾ききっていないときの匂いだ。


 それに、美術室と書かれたプレートの下。

 東棟3−5。

 ドアにはB-5の文字。

 意味は分からないが、全ての数字は奇数。

 足しても引いても奇数。


 ムズムズしていたのは、三階に上がったからではなかった。


「突っ立てない、入りなさいよ」


 彼女の声で呪縛が解けたように、僕は一歩足を踏み出す。

 教室の隅に集められた机と椅子。


 その真ん中に、イーゼルに掛けられたキャンバス。


 入り口からでも分かる。


「もうすぐ完成なんだけど、一つ足りないの」


 彼女はキャンバスに近づきそう言った。

 僕は動かない。

 違う。

 これは違っている。


「ねえ、どうしたの?」


 立ち竦む僕に、彼女は心配そうな顔を向ける。

 僕は、意を決してキャンバスに近寄った。


 そして、思う。

 爪じゃない。


「ああ、そうだったね。爪の絵は止めたの」

「……や、やめた?」

「うん。先輩に言われてね。気持ち悪いから止めなさいって。油絵で描きなさいってね」


 おかしい。


 1989年、この年に彼女は爪の絵を作った。

 称賛されて、役場にも飾られ……でも、一部の住人から反対を受け、挙げ句燃やされる。


 だから僕は……彼女を救おうと、幸せになれるようにと……。


 根底が、崩れ去った。

 彼女は、爪の絵を完成させていない。

 それどころか、爪すら使ってない。


「ねえ、さっきから変だよ? 気分でも悪いの?」

「だ、大丈夫です」


 落ち着け。

 今は、落ち着け。


「そ、そうだ。あと一つってなんですか?」


 彼女は怪訝な表情を崩さないまま、「この部分。どうも締まらないのよね」と言った。


 根を張った巨大な地球儀。

 台座から植物の根が伸び、床を突き破って大地と一体化した古い地図の球体。


 空で言えるほど覚えている、題名と説明。

 はじまりの絵。

 何度も何度も見てきた。


 彼女は指さしたのは、古い地図だった。


 太古の昔、大陸はまだ一つだった。

 海に浮かぶ木の葉のような構図。


「相沢くんならどうする?」


 彼女はキャンバスに目を戻し、腕組みをする。

 その横顔を僕は目に収めるように、じっと見つめた。

 彼女はもう変わった。


 この世界で彼女は死なない。


「あの。その前に、一つ聞いてもいいですか?」

「なに?」

「その先輩って、誰ですか?」


 彼女はちょっと驚いた顔をして、考える間もなく名前を告げた。


 だったら僕が出来ることは一つだけだ。

 この絵を完成させてあげること。


 最初の趣旨とずいぶん様変わりしてしまったが、彼女が生きて、幸せになるなら。

 僕は何だって構わない。


 キャンバスを見ながら、呟いた。


「モノクロ。モノクロで描けばいいと思う」


 これが彼女に出来る、僕の最後だった。


「え、それって……うん。いいわね。ありかも」


 頷き振り返る。


「ごめんなさい。用事を思い出して、もう行きます」


 僕は頭を下げ、振り返らず教室を出た。

 背後で、彼女の声が聞こえた。


 それを邪魔するように、蝉は鳴き続けていた。


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