12話 1989年、夏
僕は爪切りを取り出した。
いつも持ち歩いている。
爪切りのテコの裏には、『JYUNKO』の文字が浮かぶ。
「なあ、一つ聞いてもいいか?」
急にしおらしくなった朝霧めぐみ。
「なに?」
「シュレディンガーの猫。どうしてその発想に行き着いたんだ?」
「ああ、あれはね」
思い出す。
大晦日、僕がイレギュラーな爪切りを使ったせいで、彼女は認識されなくなった。
おそらく、彼女と関係性があった人たちだけが、彼女を見ることが出来た。
世間では、彼女の存在は幽霊か透明人間だった。
認識している人には見えて、そうでない人には見えない。
まさしく、シュレディンガーの猫に、彼女をしてしまった。
観察者が認識して初めて状態が確定する。
そうしてしまったのは、僕の行動だった。
「なに、ニヤニヤしてるんだよ。もしかして、彼女のことでも思い出したか?」
「まあ、ね」
「チィ、のろけやがって」
僕は笑う。
そして、彼も笑った。
やがて、笑い声が収まり、蝉の鳴き声が響き渡る。
僕は金属の爪切りを握り、彼の手にも同じ物が握られていた。
「ゼロで同時に切る。いいな」
「うん」
「カウントは三からはじめる」
そして、カウントダウンが始まった。
ぱちん。
重なる音。
僕の意識は、白く、透明に輝いた。
1989年 7月23日 晴れ 気温31度
平成元年。
バブル経済の絶頂期。
ウィキで学習してきたので、世の中のことは大体把握している。
11月には、ベルリンの壁が崩壊する。
半年後の話だから、言葉には注意しないと。
「さて、僕はどうなっているのか」
以前、継承に巻き込まれた時、僕の家は団地の一人暮らしに変わっていた。
今でもそうだけど、この世界でもそうなのだろうか。
目の前の眩しさから解放される。
徐々に視力を取り戻す。
「太郎、早く起きなさい。夏休みだからっていつまでも寝てないで」
この声は……。
僕は飛び起きた。
部屋のドアを開け放つと、ダイニングに母の姿があった。
「えっ」
「おはよう」
「……あ、おはようございます」
「なに? まだ寝ぼけてるの? さっさと食べて。お母さん、出ないといけないから」
キッチンで洗い物をする母の後ろ姿。
中学二年生のとき、両親は離婚した。
大人の事情なんて知る由もない当時の僕は、父と一緒に暮らすことになった。
この世界では、まだ離婚してないのか。
ち、ちょっと待てよ。
僕は中学生ってことか?
「なに馬鹿なことを言っているの? ほら、食べて。洗い物は自分で片付けてね。お母さんもう出かけるから」
化粧をした母は、僕の知っている母より若く見えた。
「お、お父さんは?」
「昨日から宿直でしょ。ねえ、お母さん忙しいんだから」
そう言うと、僕の横を通り過ぎ、奥のリビングへと入っていった。
「お昼は、冷蔵庫。夜は、笠井さんの所で食べて。お金はテーブルに置いたから、無駄遣いしないでよ」
母は、カバンを手に出てきてそう言った。
玄関に向かい、「いってきます」と振り向かずに出ていった。
「うそだろう……」
時間はそのままに、時代だけが巻き戻ると思っていた。
このままだと、彼女に会えない。
いや、会えるだろうが、中学生の僕になにが出来る。
予想外の事態に、困惑する。
それでも時は待ってくれない。
9月の文化祭。
彼女——高校一年の笠井淳子は今まさに、爪の絵の制作に取り掛かろうとしているはずなのだから。




