神剣で開く、地図にない近道
【前回までの人物】
・アルト・レイン:神剣ルクシアを入口で前受けした探索者。素材を売って取り分二十銀貨を得た。白鐘の迷宮はまだ踏破しておらず、次の前受け枠も開いていない。
・リゼ・フェルナ:地図の更新と遺物鑑定を仕事にする女性。三階で見つけた搬送路を、翌朝アルトと調べる約束をした。左の掌には傷が残っている。
風呂には、ちゃんと肩まで浸かった。
足だけでも嬉しかっただろう。だが、そういう遠慮をしている間に、湯が冷める方が惜しかった。
白鐘の迷宮から戻った日の午後、俺は西門の宿へ行った。空室があるか訊くと、前掛け姿の女主人が、壁から鍵を一つ取った。
「部屋と夕飯、明日の朝飯までで銀貨二枚。共同の風呂も使えるよ。湯がある時間は、階段の下に書いてあるからね」
白髪の混じった黒髪を布でまとめ、こちらの剣より先に、靴の泥を見ていた。
俺は二枚払った。
銀貨二十七枚と銅貨九十八枚が、二十五枚と九十八枚になる。稼ぐ前の俺なら、部屋を決めるより先に、安い方の宿を三軒は見に行ったと思う。
今日は、ここに泊まりたかった。
共同の浴室は一人で占める広さではない。先の客が出るのを待ち、剣と財布を脱衣棚の近くへ置いた。目を離しすぎない位置を選んでから、身体を洗う。
湯へ入ると、脛にこびりついていた一日の力が、下からほどけていった。
「……ああ」
声が勝手に出た。
昨日まで欲しかった物を、明日もっと稼いでからと戻さなくていい。
湯の上で黒い前髪を掻き上げ、俺はもう一度、財布の中で二枚減った銀貨を思った。
惜しくなかった。
*
夕飯のあとは、家へ持ち帰るための短い便りを書いた。
剣のこと。猪が出たこと。手を貸してもらった人と、一緒に戻ったこと。
母が包んだ昼飯は、肉と一緒に食べてうまかったと書く。心配させたくなくて、猪の行だけ抜きたくなったが、そのまま残した。
便りはまだ出していない。渡す便を明日にでも探そうと、折った紙を鞄の内側へしまった。
風呂で使った布は乾く場所へ広げ、水袋を満たす。灯りの残りと、目印に使う物を確かめた。保存食は二日分、手を付けていない。
空の陶器箱には、昨昼に灯晶を包んでいた布を詰め直す。
次も空では帰らないつもりで、ただし、何が入るかは決めつけずに。
寝台へ横になると、藁の匂いがした。硬さもあったが、肩を下ろせる場所を今日の自分で選んだことが嬉しかった。
ルクシアは手が届く所にある。
最深部へ行くまで借り物で震えていろ、と言う剣ではない。いま使い、持って帰り、ここへ置ける。
明日の朝が、寝る前から楽しみだった。
*
宿で朝飯を済ませてから向かった入口で、リゼは左の掌を胸の前へ上げて見せた。
「布は替えました。でも、まだ、握ると痛いです」
栗色の髪の左側を細く編み、砂色の革上着を着ている。道具の紐は右肩に寄せられていた。
元気です、の一言で済ませない返事に、俺も今日の荷を先に下ろした。
「左を使わなくて済む持ち方に、出来ますか」
「地図と灯りは右で。袋を一つ持ってもらえたら、助かります。いちばん重いのは本なんですけど」
「そこは、昨日から予想してました」
リゼが少し笑い、綴じ帳とは別の包みを差し出した。
受け取ると、ずっしりしている。
「これは……予想より強いですね」
「開いてない時は、誰でも重いだけなんです」
俺は背負い袋の内側へ収めた。代わりにすぐ出す地図を彼女の右手側へ置き、灯りをどちらが持つか決める。左手で引き上がる必要のある場所なら、今日は通らない。
リゼはその条件を聞いても、目を伏せなかった。
「搬送路が続いていたら、手すりがあるかも見たいです。地図に線を入れるなら、歩けた人の条件も書きたいので」
「俺、今日も続きが見たいです。でも手が悪くなる前に戻りましょう」
「はい。それは、私も」
短い茶髪の受付係が、入口の札をこちらへ向けた。
北階段は通行出来る。東の搬出口はまだ閉鎖中。昨日とは別の確認を受けてから、俺たちは入った。
「二人でお戻りの時も、ここで札を。奥まで行けても、こちらは勝手に帰ったことには出来ませんからね」
「はい。帰ったら、返しに来ます」
核碑の前を通る。
前受けは一件、神剣ルクシア。白鐘を踏破していないから、次の枠は開いていない。
もう一本もらえないかと立ち止まるより、腰の一本で歩ける先を見たかった。
*
三階の棚には、昨日の白い印が残っていた。
空いた窪みへ手を入れても、灯晶は生えていない。売った三つを、もう一度拾えるわけではないのだ。
リゼは棚より、横の壁の幅を見た。昨日描いた短い線を、今日の地図の端へ合わせる。
「ここからです。旧い図だと空いていた所」
坂は、冷たい土の匂いがした。
床の左右へ浅い溝があり、中央だけが滑らかだ。荷を滑らせたのか、車輪が通ったのか。リゼはまだ断言せず、しゃがまずに見られる位置から灯りを当てた。
「段差のない方が、手には助かります。でも、帰りは上りですね」
「重い本は、俺の方です。帰りに文句を言うなら、ちゃんと俺が言います」
「じゃあ、持ち主への文句も、一緒に聞きます」
笑いながらも、彼女は後ろへ目印を残した。
新しい道へ一本線を引くたびに、戻るための印が増える。
俺は剣を抜いた。ルクシアの白い刃が灯りを返し、溝の向こうの暗がりを、少しだけ細くした。
*
最初の行止まりは、鉄の桟格子だった。
壁と天井を支える柱とは別に、通路の幅へはめられている。下の二本が曲がり、脇の留めだけが錆びて膨らんでいた。
俺は刃を近づけ、振る前に止めた。
切れたとして、その向こうが崩れたら意味がない。
「上から荷重は、来てますか」
リゼは柱と、格子の上の隙間を見た。石へ入った梁は格子とは繋がらず、留め金の上へ埃が積もっている。
「見える所では、建物を支える方ではなさそうです。閉めるための枠に見えます。でも、向こうの床までは、まだ」
灯りを隙間から当てると、坂は先へ続いていた。
格子を倒して通ると、帰りの道へ鉄を寝かせることになる。俺はリゼに後ろへ下がってもらい、格子が外れても人の方へ振れない位置を選んだ。
切るのは、右下の細い留め。
「一本だけ。音がしたら、そのまま待ってください」
ルクシアを引いた。
鉄へ当たる音を覚悟したのに、手へ返ってきたのは、薄い板を払ったような軽さだった。
留めの端が、ころりと床へ落ちる。
「うわ……」
自分の声が出た。
昨日も硬い殻を切った。だが錆の膨らんだ鉄が、刃の向いた線のまま離れたのを見ると、また違う実感が来る。
格子の残った留めを確かめ、俺は手持ちの紐で、開いた分が戻らないよう脇へ留めた。人が一人ずつ通れる幅が出来た。
「切れましたね」
リゼが近づき、地図ではなく切り口を見た。
「……その剣、扉を開くのも、早いです」
「鍵のある家では、やりません」
彼女は笑いかけ、それから真顔で、ここの枠も誰かの設備なので場所と切った所は残します、と帳面へ印を付けた。
俺も頷いた。
便利に通れたことと、通った跡を消してよいことは別だった。
*
坂の先で、風の温度が変わった。
新しい広間へ出た時、床の柱に四つの溝が刻まれていた。リゼが既知の四階の記号と比べ、階層の高さも地図へ移す。
全部を一度に正解へするのではなく、四階の通路と繋がる所まで歩いて、同じ印を見つけた。
「繋がりました。北階段の、横へ出ています」
リゼの声が弾んだ。
彼女は左手で紙を押さえたくなったらしく、一度その手を浮かせ、右の肘で綴じ帳の端を支え直す。
俺は灯りの位置を変えた。
押さえましょうか、と言う前に、彼女が自分で書ける角度を見つけている。
「次の便で荷を運ぶ人にも使えますか」
「この格子の所は、箱の幅も書いてからです。でも、人の戻り道には、もう一本線を足せます」
余白だった場所が、ただの黒い坂ではなくなった。
俺たちはそこで北階段へ戻れることを確かめ、休まずに駆け下りるのではなく、時計と水を見て次の範囲を決めた。
昨日より奥へ行くための朝だった。時間も、灯りも、まだ残っている。
四階の先も、搬送路は続いていた。
五階の脇へ出るまで、分岐を二つ記録した。六階の手前には、床へ埋め込まれた太い金属の輪が並ぶ。昔の荷を留めるための物かもしれない、とリゼが言った。
昨日なら、俺は床の模様くらいに見ただろう。
今日は輪を跨ぐ時、自分の靴を引っ掛けず、その人が何を置こうとした場所なのかを考えていた。
*
六階の広間で、石に爪が立つ音がした。
低い身体が柱の陰から出てくる。
蜥蜴に似ていたが、背には厚い灰色の殻が重なり、頭の横へ短い角がある。尻尾が床を打つと、欠けた石が一つ跳ねた。
二体いた。
「鎧蜥蜴です。尻尾、横へ来ます」
リゼの声が短くなった。
俺は剣を胸の前へ持ち、左の柱を見た。退く通路は一人幅だ。二体を同時に入れれば、細い道の中で避ける場所がなくなる。
「リゼさん、右後ろへ。柱の陰まで。前には出ないで」
「はい。足元、溝があります」
彼女は自分で溝を避け、灯りを壁側へ持った。
俺は先の一体へ踏み込む。
刃が殻へ当たる一瞬、腕が弾かれる覚悟で肩に力が入った。
だが、止まらない。
ルクシアの白が、重なった甲殻の隙間ではなく、正面の厚みごと通った。
蜥蜴の身体が沈む。
振り切った右腕へ、重い衝撃は返らなかった。俺は片足を戻し、倒れる胴へ踏み込まないよう距離を取った。
硬いから迂回するしかない相手が、剣を振った場所で止まっている。
強い。
そう思った直後、もう一体が尻尾を振った。
柱の縁で石が砕けた。
リゼの位置へは届いていない。彼女の灯りが止まっていることを横目で見て、俺は床の破片を踏まない側へ寄った。
蜥蜴は一体目の向こうだ。間に、壊しては困る棚も、こちらへ来る人影もない。
「光を飛ばします。そこにいてください」
返事を聞いてから、剣の奥へ力を送った。
白い刃が伸びるのではない。振った先へ、光の一線が離れた。
十歩に満たない距離を走り、二体目の殻へ届く。
鈍い音がして、蜥蜴が止まった。
胸の奥の力が、ひとかけら抜ける。
昨日の光刃と同じ感覚だった。いつまでも気軽に重ねてよい力ではない。
俺は剣を下げず、二体が動かないことと、柱の向こうに別の影がないことを見た。
そのあとで、ようやく息を吐く。
「……通るんだな。あの殻にも」
声が少し震えた。
怖さが遅れて来たのか、嬉しさが先なのか、うまく分けられない。
「はい。真正面から。私、継ぎ目の場所を言おうとしてたんですけど」
リゼが柱の後ろから顔を出した。
「もう、切れてました」
琥珀色の目が大きくなったままで、俺はつい笑った。
伝説の剣を見た人だけでなく、その横で歩いてくれた人に、いまの一振りを見てもらえたのが嬉しかった。
*
素材を取る場所へは、広間の様子を見終えてから戻った。
リゼは右手で小刀を使い、取れる部分を教える。左で殻を強く押さえる作業は、俺が代わった。二体分の魔石と、持てる大きさの殻片だけを分ける。
胴の全てを抱えるつもりはない。先へ進む袋と、帰る足は残しておきたかった。
「値段、期待してもいいですか」
「傷と大きさを店で見てもらってからです。でも……手ぶらではなくなりました」
リゼが空の陶器箱を見た。
昨日売った灯晶と同じ額ではない。俺も売る前の金を財布へ足さず、包んだ魔石を箱へ入れた。
また少し、荷が増えた。
水を飲む短い時間を取り、彼女の手が悪くなっていないか訊いた。布に新しい血は見えないが、掌を握ればまだ痛むという。
次の階へ下りる前に戻る道を一度指してもらい、今日はその範囲から外れないと決めた。
光刃を使ったあとの長い休息は、まだ取っていない。胸の奥の欠けた感じを、全部戻ったことにはしなかった。
搬送路の最後の坂を下りると、柱へ七つの溝が刻まれていた。
奥で、白い灯りが二つ揺れている。
その間に、階段とは違う大きな扉が見えた。扉の手前までは広く、戻る坂も途切れていない。
リゼが地図へ七階の印を入れた。
扉の脇には、昨日の棚で見たのと似た、三つの浅い窪みがあった。ただし、幅はずっと大きい。俺は空の陶器箱を思い出したが、昨日売った灯晶が要ると決まったわけではない。
リゼも箱を開ける代わりに、扉へ向かう床の筋を目で追っていた。左から来た筋は壁の奥へ入り、右の筋は柱の向こうへ消えている。
剣なら扉ごと切れるかもしれない。
だが、開いた先に道があるかどうかは、刃の鋭さでは教えてもらえない。
俺は、その二本を彼女が地図へ写すまで待った。ルクシアを持っているからこそ、全部の壁を通り抜けなくても、選んで先へ進める。
「昨日の短い線が、ここまで来ました」
彼女の声は弾んでいた。
俺は腰の剣を見た。まだ一度も十二階へ着いていないのに、最深部の一本が、もう何度も目の前の道を変えている。
「次、あの扉ですね」
「はい。でも、その前に、少し座りたいです。本を持ってもらった方が言うのも、あれですけど」
「俺もです。剣がすごくても、俺の脚は俺のままなので」
二人で笑い、壁際の、通路を塞がない場所を選んだ。
光る扉は逃げない。
その先へ行けるだけの強さを、もう持っている。
俺は神剣を膝の前へ置き、次の一歩まで自分たちで選べることを、初めての銀貨と同じくらい嬉しく思った。




