銀を仕舞い、次の線を引く
【人物のおさらい】
・アルト:迷宮の踏破報酬を前払いで受け取れる探索者。神剣ルクシアと守護環を使う。
・リゼ:鑑定と地図を仕事にする同行者。左掌を療養しながら、自分の地図帳を作りたいと願う。
リゼさんは、自分が受け取った一銀を、地図帳の上へ置いた。
窓際の卓で、硬貨の縁だけが白く光る。
「そこに置くと、報酬の絵みたいですね」
俺が言うと、彼女は指先で硬貨を裏返した。
「実物です。絵にする前に、ちゃんと仕舞います」
紐のついた小袋を出し、右手で口を広げた。左の掌は、今日も重さを受ける方へ使わない。地図帳に硬貨を置いたのは、掌の代わりにしっかりした面が欲しかったかららしい。
入れたあとに袋を持ち上げると、中で銀がひとつ鳴った。
俺の腰には、二銀を増やした袋がある。宿代を払った朝の四十三銀八十六銅から、四十五銀八十六銅へ戻った。共同の一銅は別の包みだ。数字だけ見れば昨日と同じ所へ来た。だが、昨日はまだ、この銀を、三人で帰ってから受け取ることを知らなかった。
「今日の肉は、お祝いにします?」
俺の口が先に言った。
「アルトさん、昨日も、今日も、食べたい時は食べたい顔をしています」
「お祝いの時だけ、二切れの方にします」
「じゃあ、今日は、何のお祝いですか」
俺は答えようとして、腰の剣へ手を置く。
石の翼を一度で落としたことか。二銀を受け取ったことか。
リゼさんは、閉じた地図帳の表を右の指で叩いた。
「先に、花の方を見てから決めます?」
「そうしてください。今だと、俺が一番食べたい理由を選びそうです」
笑ってから、二人とも、卓の窓側へ少し寄った。
*
仕事へ出す図には、足を置けた場所と、上からだけ見えた線を分けた。
彼女の帳面には、その二つの隣に、花の線があった。小さい葉が石の影の方へ寄り、花びらの開いた先だけ、地上の道の方を向く。
俺は、昨日の夕方まで使っていなかったその頁を、もう埋まりかけていると思った。よく見ると、絵と絵の間に、書き入れられる場所がある。
「これで、続きは終わりですか」
「もう一つ、描いてほしいんです」
リゼさんは帳面を俺の方へ回した。鉛筆も添えてある。
「上から見えた、曲がり角。仕事の方は私が線にしました。こっちは、アルトさんが実際に見た向きから」
俺は鉛筆を握り、空いている所を見た。
剣の柄なら、手がどこへ行けばよいか分かる。鉛筆の先をどこへ下ろすかは、そうはいかなかった。
「変な線になったら?」
「変な線も、私の帳面へ入れるかは私が決めます」
「消す時は、少し先に言ってください」
「見た所の話をしてくれたら、だいたい残したくなると思います」
彼女は窓の外へ一度目を向け、待った。
俺は、岩の出っ張りを描こうとして、最初の線を短く引いた。
実際に見たのは、岩そのものより、隙間から通った風の方だった。空へ一歩出ると、裾が広がる向きが変わる。岩の手前では視界が切れて、次の一歩で道が見えた。
「ここで、急に下が見えました。図にするなら、こっちの端から?」
リゼさんが、俺の引いた線を追った。
「線の続きでなくて、立っていた所を、先に点で置いてみますか」
俺は小さい点を打った。
一歩目の上と、降りる所を間違えなかった二回目の上。二つの点が少し離れている。その間は描けなかった。ずっと浮かんで繋いだわけではない。
彼女はそこを、空いたまま残した。
「こういう空き方なら、分かります」
「上へ行った俺には、下の花は分からなかったです」
「無かったんじゃなくて?」
「見てない、です」
俺が答えると、彼女は、花の横へ一つ、小さい点を足した。
「私はここ」
短い言葉だった。
図の中では、点と点が、同じ高さには並ばない。それでも、どちらかが欠けているようには見えなかった。
俺は、しばらく、自分が付けた点と、彼女の点の間の白さを眺めた。
*
飯は、宿の食堂で、焼いた肉を添えた皿にした。
値を見て、俺は二切れの方を選んだ。追加の肉を含めて六銅。リゼさんは汁とパンの五銅にする。彼女が、欲しければ自分であとから肉を足すと言ったので、俺は皿を勝手に一緒に頼まなかった。
卓へ来た肉の端で脂が弾けた。昼の砂の匂いが、腹から先に消えていく。
「お祝いは、決まりました?」
リゼさんが、自分のパンを割りながら訊く。
「地図に俺の絵が入ったので」
「まだ、点と線です」
「じゃあ、点と線を祝います」
彼女は笑って、汁へパンの小さい方を浸した。
「それなら、私の花も。絵にしたら、名前をあとで訊けるので」
「花の名前、知ってました?」
「いいえ。名前を知らないことも、忘れずに、です」
彼女は言い、熱い汁を急がず一度吹いた。
剣があれば、一人で魔物を落とせる。それは今日、疑う必要のないことだった。花の名前を知らない時に、知らないまま一緒に食事ができるのも、俺は好きだと思った。
二切れ目を食べる前に、リゼさんのパンの端が空になった。
俺は肉の方を見た。
彼女が目を上げる。
「私の分を心配する顔じゃないです」
「え」
「残すか、先に食べるか、悩んでいる方」
当たっていたので、俺は先に食べた。噛んだところに、焼き目の苦さが少しあった。彼女がその顔でまた笑った。
残りは、四十五銀八十銅。今日、外で得た金から払ったことと、自分で食べたかったことは、どちらも勘定から消えない。
*
皿が下がる頃、入口に、紺の衣が見えた。
セシルさんは、昨日まで俺たちが見るより少し早く足を止めた。仕事場でなら相手が手を空けているか確かめる間だ。食堂では、空の皿を見てから、俺たちが帰る支度をまだしていないことを見ていた。
「食事のあとで、少しお時間をいただけますか。急ぎの出発ではありません」
俺は立とうとしたが、リゼさんが先に、空いた椅子を示した。
「ここでよければ。地図帳は片づけますね」
「はい。私が見たいのは、提出された図の控えだけです」
セシルさんは座り、自分の鞄から、折った紙を出した。今日の線が入った図の端に、もう一枚、役所のものらしい厚い紙が添えてある。
「一つ目の道、班でも見ました。ここは、荷を持たない人なら地上から入れる可能性がある。今日の図で、初めて候補にできました」
彼女の指が、空の三歩で見た切れ目ではなく、その手前に描いた岩の角に止まった。
「先にここへ?」
俺が尋ねると、セシルさんは首を振った。
「角までです。水路へ入る所は、今日歩いた場所から見えません。向こう側を確かめるのに、道具を運ぶ人を先に出したくない」
リゼさんが控えを引き寄せた。
「水路の入口を見る仕事と、道が通れると決める仕事は、別ですか」
「別です。入口の水の音と、戻る側から見える印を記す所までが、今回頼みたい範囲です」
「中へ入るなら?」
「戻ってから、別の条件で」
昨日と今日、彼女がそこを繰り返す理由を、俺はもう少し知っていた。
行った人数と、帰った人数を数える所で育った人だ。道の先に報酬があっても、帰りを空けて進む約束にはしない。
俺は図の端を押さえた。
今朝の二回と同じように空を歩けば、入口の上へ届くかもしれない。岩に見えない所があっても、神剣で何かが出た時に勝てる。そう考えた途端、口が先に開いた。
「俺が上から一度――」
セシルさんは遮らなかった。リゼさんの目が、俺の指を見た。
指は地上の角から、まだ紙に描いていない場所へ、勝手に伸びていた。
「……そこを通れると決める前に、俺が空から見たいか、という話でした」
自分で言い直すと、指を戻すのが少し恥ずかしかった。
「見たいですか」
リゼさんが訊く。
「見たいです。でも、そのために、リゼさんが入口の下にいないと困る仕事にはしたくないです」
「では、私は、紙を広げる前に自分で止まる場所を決めます。そこから見えない場合は、見えないと書きます」
彼女は俺にではなく、セシルさんの方へ、その言葉を渡した。
俺の力を遠慮して隠す必要はない。けれど、俺ができることを先に全部置くと、二人が選ぶ場所が、図の端へ押し出されることがある。
今日は、紙から指を戻しただけで、それが分かった。
*
セシルさんは、厚い紙を真ん中へ寄せた。
まだ印はない。仕事の範囲と支払いを詰めるための控えだ。
「次は、地上の入口までの案内を私がします。前のように上へ出る役を含めるなら、その時の足場を見て決めたい。地図は、入口を見た日の一枚をお願いしたいです」
リゼさんが、すぐには頷かなかった。
「一枚に入れるのは、歩けた範囲と、見えた入口ですか」
「そうです」
「戻る向きと、そこで止まった理由も、私は入れます。前の仕事の写しへ足すだけには、したくありません」
セシルさんは紙の欄へ視線を落とした。
「新しい一枚として扱う、ということですね」
「はい。私の仕事の値段も、そのつもりで聞いてください」
リゼさんの声は、普段、焼いたパンを勧める時より少し低かった。強く押し通そうとしているのではない。自分が今日の取り分をもらった手で、次の仕事に要るものを確かめている。
「紙と写しの手間を、見積もりに入れたいです。いま、前と同じ一銀で受ける、と答えるのはやめておきます」
彼女はそこまで言い、右の手を膝へ下ろした。
俺は、足りないなら自分の二銀から、と言いかけた。親切のつもりでも、その場で足してしまえば、彼女が班へ値段を聞いた意味がなくなる。
口にせず、セシルさんの返事を待った。
セシルさんは、少し考えてから、自分の筆記具を取り出した。
「私からは、班へ、その一枚に何が入るかを伝えます。値は、私が今日ここで決められるものではありません」
「はい。確認できるまで、依頼を受けたことにはしないでください」
「そうします。上からの観察が要らない日なら、前の二銀をそのまま足すこともしません。役ごとに、仕事を出します」
最後の一言は、俺へ向けられた。
俺は少し笑った。
「俺の分も、次は話を聞いてからで。空を歩くって書いてなければ行かない、ではないです」
「そこを訊けるなら、次は相談が早く済みます」
セシルさんも少しだけ笑った。
だれも、紙の下へ署名はしなかった。
明日受けると約束したものはなく、今日の銀が増えたわけでもない。それでも、次の仕事を、前の仕事の値段へ押し込めずに帰れる。何をして、どこまで戻るかの線だけが、前より太くなった。
*
リゼさんは、まだ白い報酬欄の上へ、日付を書こうとしたセシルさんの手を目で追った。
「返事の日付だけ、書いてもらえますか。出発の日と間違えないように」
セシルさんは、そこで筆記具を止め、欄の外へ、小さく書き直した。
「返事が出る日も、明日と約束はしません。明日、私が先に班へ渡す、と書きます」
紙が乾くまで、誰もそれを畳まなかった。
俺は銀の入った袋を握り直した。今日持っている二銀はもう働いた分で、紙にない金とは違う。すぐ欲しいと思う気持ちも、待ってから決めることも、どちらも自分のものだった。
リゼさんが、空いた欄を見て、やっと肩を下ろした。
「はい。そこからなら、私も明日、何を聞けばいいか分かります」
セシルさんが立つ前に、俺は、入口の向こうへ伸ばしかけた線を、鉛筆の尻で指した。
「前に聞いた、核碑へ行く道とは、まだ繋がらないんですね」
「はい。入れる場所と、踏破に使える道は別です。今日の報告にも、そこは足さないでおきます」
彼女は控えを畳み、班の紙と重ねた。二枚の角はぴたりと揃わなかった。厚さが違うからだ。
「ただ、入口に行ける候補が一つできた。明日の朝、班へ紙を回します。返事が来るまでは、出発しないでください」
「分かりました」
俺が答えると、セシルさんは自分の鞄を取り、椅子を元の所へ戻した。
忙しい人が、俺たちを急がせに来たのではなかった。明日も帰る人数を数えられるように、今日のうちに、行くかどうかを別の紙にしたのだ。
扉が閉まると、夜の外気の匂いが、一瞬だけ食堂へ入った。
リゼさんは、地図帳を出し直さなかった。
鞄の口へ手を掛け、そこから俺の方を見た。
「さっき、私が値段の話をした時、何か言いかけました?」
見ていたのか、と思った。
「俺の取り分を足せばって。でも、俺が払いたいのと、リゼさんの仕事の値段は違うので」
「はい」
彼女は、それだけ言ってから、少し待った。
「でも、困って頼んだら、相談には乗ってください」
「もちろんです」
俺が早く答えると、彼女は目を細めた。
「そこは、速いんですね」
「頼まれてからなら」
笑いながら答えると、彼女も笑った。
こういう時に、自分の役を先に小さく決めてしまわなくてもよい。できることが多いまま、相手に頼んでほしいと思ってもよかった。
俺は、神剣のある腰を少し引いて、椅子から立った。今日、あれから光刃を使っていない。守護環へも手を出さなかった。魔力は七十のまま。明日使う力を、今夜のうちに見せておく必要はない。
リゼさんが鞄を閉める。
「明日、帳面をまた見せます。仕事がなくても」
「じゃあ、俺の点と線の続きも?」
「はい。でも、どの頁へ入れるかは私が決めます」
「そこは、俺が決めると変な余白ができますから」
彼女は鞄を右で持ち直し、俺は先に扉の方へ歩いた。
仕事の控えは、班へ行った。俺たちが自分で持って帰った方には、名前の分からない花と、飛んだ時の点が二つ。
明日の報酬は、まだ前払いされていない。
それでいい。次は、先にもらった力を何に使うかを、まず三人で決められる。
今夜は、俺の二切れ目まで、ちゃんとうまかった。




