戻った日にも、地図は残る
【人物のおさらい】
・アルト:迷宮の踏破報酬を前払いで受け取れる探索者。神剣ルクシアと守護環を使う。
・リゼ:鑑定と地図を仕事にする同行者。左掌を療養しながら、自分の地図帳を作りたいと願う。
朝、宿の戸口に出たら、靴の底へ張りついていた石の粉が一筋、敷居に落ちた。
昨日、空へ出た時には、底に何が付いているかなんて分からなかった。今日、足を地面につけたまま振ってみると、思ったより白い。払った粉が、半分だけ靴の縁に残った。
「そのまま外まで履くんですか」
リゼさんが階段の下で訊いた。地図帳を右で持ち、左は外套の内側へ入れている。
「ここで待つなら、普通の歩き方しか使わないです」
「普通に歩いた足跡も、昨日の紙にないですから」
彼女はそう言い、俺の靴の底ではなく、敷居に残った粉を見た。
昨日、セシルさんは、今日の朝に書類を班へ渡すと言った。返事が来るのが今日だとは言っていない。俺たちは、返事がないうちに水路へ行かないと答えた。
昨日は食事を終えて、腹の中に肉が二切れあった。今朝は、何か先に出来そうな気がして、戸を開けたらそのまま道へ出かけた。
リゼさんは俺を止めず、先に地図帳を卓へ置いた。
「私、今日はまず、昨日描いた線を、一枚選び直したいです」
「班へ出す方ですか」
「こっちに残す方。出す紙が今日なくても、帳面は持っていけるので」
俺は戸を引いた。外を通った荷車の音が、戸が閉じても、少しだけ残った。
出かけるのは、水路ではない。地図の続きなら、昨日、自分からまた見たいと言ったばかりだ。
「どの線を選ぶんです」
「アルトさんの、曲がったところ」
「どっちも、だいぶ曲がりましたけど」
「それで選べるんです」
リゼさんは目を細め、昨日も使った卓へ先に戻った。
*
開いた頁には、二つの点と、片方から短く伸びた線があった。俺が空から見た岩の角だ。線の途中に、強く鉛筆を押した跡がある。そこだけ見れば、実際より確かな道に見えた。
リゼさんは花のある方を自分の前へ引き寄せ、俺の線と自分の点の間へ、何も書かなかった。
「ここの余白、ちょっと狭くしたいです」
「つなぎますか」
「逆です。つながってない方を、最初に見てほしいので、線を短い紙へ写します」
彼女は指で、頁からはみ出さないくらいの大きさを示した。
帳面へ描いた時、俺は気にしていなかった。空から帰ってきて、地面に降りた足で続きを話したから、下からは見えないところまで同じ声で伝えてしまう。
別の紙へ写せば、そこだけを出した人が、次の行き方だと思うこともある。
「どこにいたか、書いた方がいいですよね」
「はい。紙が帳面から落ちても、どっちから見たか残る方がいいです」
リゼさんは小さい紙を一枚出した。右手で鉛筆を持つと、左掌を使って押さえられない。紙の端を帳面の下へ挟み、引き出す長さを決める。
俺は、端を押さえようと伸ばした手を、卓の上へ戻した。
「何か置きますか」
「小袋を。軽い方で」
彼女の袋を取る時、紐の下にある銀の形が、布越しに指へ当たった。昨日仕舞った一銀が中にある。彼女は俺から袋を受け取って、紙の端へ置いた。
鉛筆が一度動いて、止まった。
「この点、地面から見た私はどっちにいました?」
「こっち側だと思ったんですけど、俺の見た向きと、リゼさんの向きは反対です」
「じゃあ、私がいた点を、こっちの紙に無理に写さなくていいですね」
彼女が紙を少しずらす。帳面の花はそこに残り、短い紙の上は、俺が立った方だけになった。
自分の話が切り取られるのかと思ったのに、見ていないものが一つずつ外れていく方が、話してもいいことが増えた気がした。
「帰りの方は、点より先に言えます。ここへ戻ったんです」
俺は空に立った所からではなく、二人の靴が並んだ地面から、鉛筆の尻を置いた。
*
写しが出来てから、宿を出た。
行く先は水路の方ではない。町の中で人が通る道なら、掲示の図を見られる。昨日の岩が何と呼ばれているか分からなくても、町から戻ってきた時の向きを書ける。
道は、朝の荷が出ていく方へ混んでいた。木箱の角が低い所を通り、足を止めると、荷を持った人が俺たちの前へ回り込む。
リゼさんが、先に石段のない側へ寄った。
「私が地図を持っている日は、ここで広げない方がいいですね」
「いまも、広げるつもりでした?」
「いいえ。昨日は地図を見た方が早いと思って、出す場所を先に考えなかったので」
左の外套が人の袖に触れかけて、彼女は肩を引いた。右手は地図帳の下のまま。俺が前へ出て道を全部止めるのではなく、彼女と同じ側へ半歩寄ると、次の人は、二人の間を通ろうとしなかった。
道を挟んだ向こうに、柱へ括った板が見えた。帰りに通る人へ、門の名前と、荷を降ろせる場所だけを知らせる図だった。
川へ向かう線には、俺たちが今日行かない入口の名前はない。
「ここの角に、小さい印があります」
リゼさんが顎を少し上げた。
「左の石段の、手前?」
「はい。道の名前じゃなくて、荷を置ける場所です。入口へ行く紙にも、こういう印を先に聞きたいです」
俺は門の外の方を見た。
地上を歩ける人間の仕事なら、入口に届いたところで一つ終わったと思える。重い道具を持つ人は、どこで持ち直せるかまで知らないと、同じ場所へ来られない。
「俺も、いま着いたばかりなのに、石段の上から見た方が早いと思いました」
リゼさんは笑わなかった。図をもう一度見て、小さい文字が読める距離まで寄った。
「上から見る方がいい時は、言ってください。ただ、私が待つ場所は、上から見て良さそうな所より、ここから選びたいです」
「はい」
俺が答えると、彼女はようやく、帳面の脇から昨日の小さな紙を出した。表にはまだ、俺が自分で打った点が二つある。
「今日のは、これと同じ紙にしないでおきます」
掲示の図は、今日の道を歩いた紙だ。昨日から何が見えたかの証拠にはしない。その違いが、短い紙の厚みで分かるようになっていた。
*
宿へ戻って、昼の鐘が聞こえるまで、俺は地図帳を借りずに、自分の紙で歩いた順をなぞった。
来た道なら、一息で書けると思った。ところが、図を見た板の下で、自分が誰を待ったかを思い出すと、行きの線が止まる。
リゼさんは、紙の横へ水の杯を置き、自分で持っていた方を口にした。
「昨日の入口、まだ見てないのに、今日の紙も要ります?」
「誰かと行った時、先に出過ぎた場所を思い出せるから」
「じゃあ、いまの紙は、アルトさんが持っていてください」
「帳面に要らなかったですか」
「あとから聞けるなら、私の帳面に何でも入れておかなくていいんです」
嬉しいのか、寂しいのか、一瞬、どっちを言いかけたか分からなかった。けれど、彼女がまた聞くと決めたことの方が、そこに残った。
俺は自分の紙を折った。靴の裏の粉を払ったせいで、指の間に、まだ少しざらつきがある。
水を飲むと、昼の匂いは、昨日食べた焼き目よりも薄かった。肉の皿が欲しくなったが、朝から今日の分をもう働いたような顔で頼む気にはならなかった。
「昨日の二切れ、もう一切れあればよかったです」
「昨日は二切れでお祝いになったんでしょう」
「今日は、昨日お祝いしたことのお祝いで」
「そうやって増やしたら、明日は四切れになります」
リゼさんが小さく笑う。
財布の中は、昨日肉を食べて残った四十五銀八十銅のまま。共同の一銅も別の包みにある。誰かから仕事の代金を受け取るまでは、肉の理由だけ増えても中身は増えない。
俺は水をもう一口飲み、折った紙を鞄の外側へ入れた。
*
セシルさんが来たのは、窓の影が椅子の背にかかってからだった。
紺の袖から出した紙を、渡す相手が見える向きで卓へ置く。
「朝、班に渡しました。今日来たのは、返事が一つだけ先に出たからです」
俺は腰の辺りへ手をやった。出発の支度はしなかったが、返事と聞くと、靴の方が気になる。
セシルさんはそれを見たのか、先に紙の一番上を指した。
「許可の印ではありません。地上から行く下見は、準備してよい。その準備の中に、入口より前で引き返す条件を入れてほしいそうです」
リゼさんは紙へ手を掛けず、昨日も聞いた欄を見た。
「値段は?」
「まだです。入口で見えるものが少なくても、どこまでが仕事か。そこを条件にしてからです」
彼女はそこで、帳面の脇へ小さな紙を一枚置いた。昨日の二つの点でも、今日の町の角でもない。何も書いていない紙だ。
「戻った日の紙も、一枚の仕事に含められますか」
セシルさんが顔を上げた。
「入口が見えなかった場合?」
「はい。戻った向きと、誰がどこで止めたか。見えなかった理由が書けるなら、その日の紙は空ではありません」
セシルさんは、朝に持って行った控えを開いた。昨日リゼさんが返事の日付だけ、と言った欄の外に、班に渡したことが書いてある。まだ署名する所には、誰の字もない。
「私も、それがあれば次に人を出す方へ話せます。条件の返事として、私からもう一度、班へ言います」
セシルさんは、空いた欄の隣へ、小さく書いた。リゼさんの目が、その筆先を追った。
「この紙を受け取っても、受けたとは書かないでください」
「ええ。私も、受けてもらったとは書きません」
昨日は、返事と出発を分けた。今日は、準備してよいと聞いて、出ると決める前に、帰る時にも何が仕事かを分けた。
俺は、あの靴で上から見れば出来ることをいくつか思いついた。どれも、入口へ誰も来られなければ、それで全員が帰れたとは言えない。
「その日は、俺がやることも別で聞いていいですか」
俺の声に、セシルさんが自分の紙を回した。
「もちろんです。まず、同じ三人で戻れるか。上から見る方が必要なら、その時に、どこから上がってどこへ戻るかまで一緒に考えます」
「じゃあ、最初から上にいる人の仕事としては考えなくていいんですね」
「はい」
軽い返事だった。先にもらった力を、そこへ書かれなければ持っていけないわけではない。使わずに歩いて帰れる日なら、先にその日を考えてもいい。
*
セシルさんが立つ前に、リゼさんは、町の図を見た話をした。
「荷を置ける場所の印がありました。入口の手前にもあれば、そこを先に知りたいです」
「記録には、石の角があります。ただ、そこに荷を置けるかは、まだ書いていない」
セシルさんは少し指を止め、空白を横から見た。
「明日、先に、道を知っている人へ訊きます。その答えも紙へ入れられます」
俺はそこで、鞄の外側に入れた紙を出した。点ではなく、町の角を歩いた順の紙だ。
「この角で待つのに、道を通る人を止めなくていい所がありました。今度の角にも同じ場所がある、とは思わないですけど、俺は、そこを聞きたいです」
セシルさんは俺の紙を引かず、卓の上で読んだ。
「それなら、質問に出来ます。角へ行けるかだけでなく、誰かが通る時、待てるか」
彼女はそこまで言うと、昨日より少しだけ長い行を、自分の紙へ書いた。
俺は、今日、町を歩いてから、初めて班へ持って行ってもらえることが出来たと分かった。剣を抜いた時のような気持ちよさはない。あとで紙が返ってきた時に、行くかどうかを自分で決められるくらいの、一行だった。
リゼさんが、机の上にあった小袋を取る。
「その紙、返事が来たらまた見せてください。先に何が書いてあったか、一緒に見たいので」
「はい。返事が来たら、私がここへ持って来ます」
帰り際、セシルさんは昨日の控えを鞄へ入れかけ、開き直した。
「いまの質問、私の紙だけに書きました。そちらにも写しますか」
リゼさんは片手で小袋を退け、自分が持つ方の紙を押し出した。
「はい。班の返事が違う言い方だった時、どこが変わったか分かるように」
紙が薄くて、筆先が当たると小さく音がした。昨日は値を聞く前に閉じた控えに、今日は、返事を比べるための言葉がある。
俺はその間、帳面の花の頁を開かずに待った。昨日までなら、紙が動く音だけで、仕事が決まった気になっただろう。
セシルさんは、椅子を引いて立った。
約束は、返事を持って来る所まで。新しい契約も、前払いもない。入口へ行く日も、地図一枚の額も決まっていない。
そのことは、彼女が出ていってからも、机に残った紙の白い所で読めた。
俺は靴の縁に残っていた白い粉を見た。今日は一度も、空へ足を掛けなかった。神剣も守護環も使わず、魔力は七十のまま。入口のことを考えたあとでも、その残りは明日まで持っていける。
リゼさんが、地図帳の花の頁を開く。
「これ、昨日より、外側が少し白く見えます」
「花びらですか」
「はい。いま、窓が明るいからかも」
俺には、昨日と同じ花に見えた。そこで、自分の方へ帳面を回してもらうより、彼女が見ている窓と同じ方から、顔を近づけてみた。
花の輪郭の脇に、鉛筆を置かなかった場所がある。
「昨日、訊きそびれました。名前が分かったら、どこに書きます?」
「余った所に。先に場所は決めません」
彼女が帳面を閉じるまで、俺は自分の折った紙を見ていた。
今夜、何かを先にもらったと言うなら、地図に線を引く前に、誰に何を訊くかを一つ決められたことだ。報酬の欄へは書けない。だから、帳面と別の方の紙へ、今度聞きたいこととして持っておく。
椅子から立つと、靴の下で、小さな粉の粒が鳴った。
地面に足がある音だった。明日どんな高さへ行くにしても、まず、それを聞いてから歩きたい。




