地上へ戻る、明日の約束
【人物のおさらい】
・アルト:迷宮の踏破報酬を前払いで受け取れる探索者。神剣ルクシアと守護環を使う。
・リゼ:鑑定と地図を仕事にする同行者。左掌を療養しながら、自分の地図帳を作りたいと願う。
宿の朝飯は、焼いたパンの端がいちばん旨かった。
俺は割った一片を口へ入れ、まだ熱い中身に舌を少し引っ込めた。窓の外は明るい。昨夜、リゼと見た灯りは、昼の町の屋根へ戻っていた。
あのあと二人で宿へ入り、夕食と朝食付きの寝台を、それぞれ二銀で頼んだ。
俺の手元は、四十五銀八十六銅。
共同の一銅は、別の小さい包みのまま触っていない。夜景の帰りに自分で買った焼き菓子の二銅も、もう引かれたあとだった。
向かいで、リゼが地図帳を開く。
四十銅で買った二十四葉の、彼女自身の帳面だ。町を描いた頁には、昨日二人で立った場所の点がある。
「夜、ここから見ると、橋だと思ったんです」
左の掌を使わず、右の鉛筆で、屋根と屋根の間を示す。
「朝の方は?」
「まだ、そこまで行っていません。たぶん道ですが、あとで見に行きたいです」
「じゃあ、俺も。今なら、腹が減ったから引き返すことはないので」
俺がパンを持ち上げると、リゼが笑った。
「そこは、あまり信じません。さっき、二枚目を見ていたので」
「見ただけですよ」
「見て、悩んでいました」
栗色の髪が、左の編み込みの下で揺れる。
彼女は、地図帳を閉じる前に、今日の日付のための小さい欄を空けた。
明日の午前には、セシルが持ってきた外縁偵察の仕事がある。受けるなら、返事は今日の夕刻まで。
朝飯の皿を空けてから、俺は自分の方から言った。
「俺は、あの仕事、受けたいです」
リゼの指が止まった。
「報酬も、道を見られるのも、両方。それと、上から見た物を、地図にできる所までやってみたい」
「私も、受けたいです。ただ、左手を使わずにできる担当を、先に決めたいです」
彼女は、手を隠さず机へ置いた。
治ったふりをして受ける返事でも、治るまで全部を手放す返事でもなかった。
*
宿の女主人が、空いた皿を下げに来た。
白い物の混じる黒髪を後ろへ留め、前掛けの端へ布を掛けている。
「今日も泊まるなら、夕方までに言って。明日の朝に出る客が多いから、朝食は早い方も出せるよ」
「明日の午前に、仕事へ出るかもしれません」
俺が答えると、女主人は頷いた。
「決まったら言って。二銀で、今夜の夕食と明朝の分。荷物を置く所も、今の所を使える」
「分かりました。昼を回ったら、返事をします」
ここでまだ払ったことにはしなかった。
仕事を受けてから、泊まる方も決める。俺は杯に残った水を飲み、席を立った。
外へ出ると、町は、昨日の夜より狭く見えた。
灯りだけなら離れていると思った二つの店が、昼には軒を接している。リゼは立ち止まり、帳面を出さずに、まず両方を見比べた。
「これ、離れた二点にしてしまいました」
「暗い所も、道の幅に見えましたね」
「はい。でも、夜に見えた間も、消したくないです」
彼女は最初の点を潰さず、その脇へ昼の軒の線を足した。
夜の形と、昼の道。
同じ場所へ二つの見方が重なる。
俺は、昨日、空へ三歩だけ出た時の景色を思い出した。
上からなら見えるからといって、地上を歩く人の足元まで分かったことにはならない。リゼの鉛筆は、その違いを埋めるために動いている。
俺は、明日の仕事を、昨日より少し面白く感じた。
*
セシルは、予定した話の前に、二人の顔を見た。
淡い金の髪を低く結び、紺の衣に軽い鎧を着けている。仕事の時の彼女は、町の景色へ目を取られる前に、出入口を確かめていた。
「返事を、今日ここで?」
「はい。俺たちは、受けたいと思っています。担当を詰めてから」
俺が言うと、リゼも頷いた。
机の上へ、班から示された外縁の乾いた経路の図が広がる。
水路へ下りる依頼ではない。核碑へ到達する仕事でもなかった。昨日、倒した魔物の分を、遡ってこの依頼へ含めることもない。
「報告を受け取ってから、合計三銀。アルトさんへ二銀、リゼさんへ一銀。前渡しはありません」
セシルはそう確かめ、図の端を指した。
「私の役目は、班の護衛と連絡です。お二人の専属の仲間として、別の道まで動けるという意味ではありません」
「分かりました。俺が、上から見て戻る。リゼさんは、地面から確認して描く。その間を、お願いします」
俺は言った。
リゼが、地図帳の空いた頁を見せる。
「こちらの写しと、自分で歩いて確かめた所を分けます。上からの見え方を聞いて足す時は、アルトさんの観察だと分かる形にしたいです」
「左の手は?」
セシルの問いは短かった。
リゼは、机の下へ隠さず掌を見せた。
「まだ、支える方へは使えません。右で書くのはできます。登る所や、両手が要る物を持つ担当には入れないでください」
「では、地上の経路から外れません。上の見晴台へ全員で上がる前提も外します」
セシルは図へ印を置いた。
出来ない物を一つ言ったことで、地図の上からリゼの仕事全部が消えることはなかった。
むしろ、どこにいればいいかが、初めてはっきりした。
俺は、図の高い側へ目を置いた。
「昨日、崩れていた枝の道。あそこは、まだ直っていませんよね」
「はい。今回も通れる道としては数えません。見えるからといって、歩いて確かめたことにはしないでください」
「上から、先がどうなってるか見るだけにします」
セシルが頷く。
強い脚具で越えられる所と、荷物を持つ班が通れる所は違う。
俺は、それを自分の力へ付いた面倒な但し書きとは思わなかった。自分しか見られない方を、自分の仕事にすればいい。
*
話が金額から道の方へ移ると、リゼの声が少し早くなった。
「上の形を聞く時、私からも質問していいですか。右、と言われても、向いている方で変わるので」
「もちろんです」
俺は答えた。
「俺がどっちを向いていたかも、先に言います。見えた物が多いと、面白い方から喋りそうなので」
「そこは、止めます」
リゼが言う。
セシルの口元が、少しだけ緩んだ。
「私も、班へ持ち帰る時は、地上で通れた所を先に聞きます。上の面白い景色は、そのあとで」
「二人掛かりだと、俺の土産話が後回しですね」
「土産話の分まで、帰って来てください」
リゼの返事は、笑いの途中で少し小さくなった。
俺は、彼女の方を見た。
昨日、夜景へ行こうと言った時にも、同じように、本の話から一つだけ外れた声を聞いた。
「はい。先に戻ります」
俺は、軽い冗談で打ち消さずに返した。
最後に、集合の場所と、明朝、出発前にも道の状態を確かめることを揃えた。
依頼を受ける印が付き、セシルが班の控えを取る。
まだ、三銀が手元へ増えたわけではなかった。
受けて、歩いて、見て、帰って報告する。
その先に、自分で引き受けた報酬がある。
俺は、その順を嫌いではなかった。
前払いの神剣が、俺の手へ先に来たからこそ、今度は、自分が先に約束を置く仕事も選べる。
*
昼を回り、二人は乾いた中庭へ寄った。
人の通り道から外れた、足元の見える場所だった。俺は剣を抜かず、脚具の方だけを確かめる。
「昨日、三歩目のあと、すぐ戻れると思っていました」
俺が言うと、リゼは庭の端へ寄り、帳面を胸へ抱いた。
「降りる所を、先に見ていたんですよね」
「はい。今日は、一回だけ。上で見回すより、戻って立つ方を先に覚えたいです」
俺は、濡れていない石の位置を見た。
空へ出られる脚を持ったのは、夢みたいに嬉しい。
それを使っている間だけ、地上がどうでもよくなるのは違った。帰る足元も、見たい景色の続きにある。
身体がふわりと持ち上がる。
空の三歩は、地上で走る時とは違う感触だった。支えがあるようで、重さをずっと預けていられる場所ではない。
俺は、その上で長く止まろうとしなかった。
三つ分の空のあと、身体がゆっくり下りる。
地面へ足が戻ると、石の硬さが、脚を通ってはっきり伝わった。
使ったのは一度。
光刃も、結界も出していない。剣へ魔力を流す用事はなく、八十ある自分の魔力も、そのままだった。
俺は顔を上げた。
「……地面、こんなに安心する物でしたっけ」
リゼが笑った。
「さっきまで、空へ行きたがっていた人が」
「両方好きになったことにします」
俺は自分の靴を見下ろし、もう一度、小さく足を動かした。
地面へ戻れば、また三歩を始められる。
けれど、今日はそれを何度も見せるための時間ではなかった。
リゼは、上を歩いた人の姿ではなく、俺が戻った側へ、小さい印を描いた。
「そこは、俺が言った所と同じですか」
「少し、違います。降りてから、一歩動きました。そのあとで、ここって言ったので」
俺は振り返った。
確かに、最初に着いた石は、一つ向こうにあった。
「最初の場所も、描いてもらえますか」
「はい。明日は、戻ってから動く前に聞きます」
上から見てきたことを正しく話す準備は、上で見る練習だけではなかった。
誰かが下で、別の角度から見てくれる。
その心強さを、俺は、肩の力が少し抜けるような気分で知った。
*
庭を出た所で、セシルが戻ってきた。
班へ受諾を伝え、明朝の控えを持ってきてくれたのだった。
「今、使いましたか」
彼女の目が脚具へ向く。
「一回だけ。剣は使っていません」
「分かりました。明日は、上にいる間、地上の位置を揃えます。危険で動く時は、戻る前に合図を。戻る所が変わると、話が一つ増えるので」
リゼが、今描いた二つの印を見せた。
セシルはそれを読み、小さく頷いた。
「先に試してあって、助かります」
俺は、少しだけ胸を張りたくなった。
派手な力を見せた時とは違う褒められ方だった。明日、自分が使う力の戻りまで、仕事の役に立つと言ってもらえた。
セシルは控えを二人へ渡してから、腰の道具を確かめた。
「私は、このあと班へ戻ります。今日は、これ以上、外縁へ下見に出ません」
「はい。俺たちも、町へ戻ります」
「明日の景色を、今日、全部見ておかなくていいですから」
彼女は、少し笑って言った。
いつも危険の話だけをする人ではない。仕事を引き受けたあとでも、残りの一日を、自分の物として使えると分かっている人だった。
リゼが会釈をし、俺も礼を言った。
セシルの背中は、班の方へ進んでいく。
正式に頼んだ護衛がいる。それは、強い自分が誰かを守らなくてよくなったことではなく、それぞれが見る所を持てるようになったことだった。
*
リゼは、受け取った控えを、地図帳の外へ挟んだ。
俺が不思議そうに見ると、彼女は紙の端を少し上げた。
「自分の帳面へ、そのまま貼ると、依頼の図と私の記録が混じるので」
「一銀をもらう方の地図は、提出するんですよね」
「はい。班へ渡す分を描きます。これは、自分が歩いた所も残したい帳面です。二つ描く手間は増えますが」
彼女は、少し考えてから続けた。
「報酬で買い足したい物はあります。でも、この帳面まで全部、仕事の用紙にしたいわけではないです」
俺は頷いた。
自分の神剣も、依頼で使えば仕事の道具になる。それでも、好きな景色を見るために持って歩いていい。
「じゃあ、明日の最後は、リゼさんの帳面の方も見せてください」
「はい。そちらは、上から見えなかった町の話を多くするかもしれません」
「それ、俺の土産話より長くなったりしません?」
リゼが声を立てて笑った。
「競争にするなら、帰ってから」
勝ち負けを決めていない約束が、また一つ増えた。
宿へ戻る道で、リゼは地図帳を閉じたまま歩いた。
俺が手元を見たことに気づくと、彼女は少し笑う。
「今は、描かない方」
「見晴らしが変わったのに?」
「変わったから、全部すぐに描こうとすると、道の方を見なくなります」
彼女は、朝、橋だと思っていた軒の間を指した。
そこから、焼き物の匂いが流れてきた。
俺が顔を向けると、リゼが先に笑った。
「今日は、見るだけですね」
「……朝に言ったこと、よく覚えていますね」
「地図にしなくても、覚えていることはあります」
俺はつられて笑った。
昨日、一緒に夜景を見た人と、今日は朝の道を歩いた。
明日は同じ場所へ、仕事で向かう。
地図帳の新しい頁が増えることだけが、二人で出かける理由ではなくなっている。
宿の戸を開けると、女主人が振り向いた。
「決まった?」
「はい。今夜も泊まります。明日の朝、早い方をお願いします」
俺は答えた。
リゼも、自分の分を同じように頼む。
二人が今夜も泊まることは決まった。支払は今夜、夕食と寝台を受ける時にする、と女主人と揃えた。
俺は、まだ増減していない袋を腰へ戻す。
今日の手元は、四十五銀八十六銅。
明日の二銀を先に得たことにも、今夜の二銀をもう払ったことにもしなかった。
部屋へ戻る前、リゼが階段の下で呼んだ。
「アルトさん。明日の地図、帰ってから、一緒に見てくれますか」
「もちろん。俺の上からの話、今度は面白い方も入れていいですか」
「仕事の報告が終わってからなら」
彼女の口元が緩む。
「そのあとで、私が下から見た方も聞いてください」
俺は頷いた。
空を歩ける脚と、地上の道を描く右手。
違う高さで見た一日を、帰ってから並べる約束だった。
先にもらった力を使って、自分で選んだ報酬を取りに行く。
その帰りに待っている時間まで、もう、楽しみになっていた。




