二人で見る高さと、次の三歩
【人物のおさらい】
・アルト:迷宮の踏破報酬を前払いで受け取れる探索者。神剣ルクシアと守護環を使う。
・リゼ:鑑定と地図を仕事にする同行者。左掌を療養しながら、自分の地図帳を作りたいと願う。
宿の椅子へ座ったら、長靴より先に、俺の足が休みたがった。
空を三歩歩いた朝だった。
だが、町へ戻る坂は、自分の足で上った。水鏡の回廊の入口から、ここまで。強い一足を履いていても、座った途端に気持ちのよくなる膝は、普通にあった。
リゼさんは隣の机で、左掌の布を見ていた。
俺は先に、夜景の話を出さなかった。
見たい気持ちはある。さっき、仕事のついでではなく行きたいと言ったばかりだ。その希望へすぐ今日の日付を付けたくなる自分も、少し分かる。
でも、行けるかを見ると、二人で言って戻ってきたのだった。
俺は靴を脱ぎ、足を伸ばした。
リゼさんも右手で水を飲み、しばらく、何も書かなかった。
新しく買った帳面が閉じている時間を、損な時間だとは思わなかった。
「アルトさん、今、眠りそうでした」
彼女が言って、俺は顔を上げた。
「少し。靴の方は、もう行けそうなんですけど」
「靴だけ、坂の上へ行っても、景色は教えてくれませんね」
「俺の足も、一緒に行く方がいいです」
そう返すと、彼女が笑った。
肩までの栗色の髪の、細く編んだ左側が揺れる。
「私、今のところ、朝より痛みが増えた感じはありません。もう少し休んで、夕方の短い方なら、行きたいです。暗くなる前から、同じ所にいて」
「俺も、その方が見たいです。明るい町が、灯りの方へ変わる所」
俺は答えた。
リゼさんは頷き、時刻の分かる宿の掲示を見た。
出るのは、足を休めたあと。戻る道が見えるうちに一度確かめ、寒くなり過ぎる前に下りる。
その短い約束を、二人で決めた。
彼女の左掌が治ったからではない。今日の身体で、行きたい方を自分で選べるだけの休みを取ってからだった。
*
出る前に、組合の町窓口へ寄った。
出る前に、二人で、窓口へ寄れるだけ足が休めたかを確かめた。朝の報告の控えが届いたと案内があり、用件を先に確かめたかった。
灰色の上衣の袖を留めた係が、俺たちの名を見て、一枚の紙を出す。
「水鏡の外側の調査について、正式な条件の照会です。今、こちらでお読みになりますか」
「はい。依頼を受けたことになる前に、範囲を見たいです」
俺が答えると、リゼさんも隣へ立った。
彼女自身が読む向きへ、係が紙を回す。
セシルさんの遠征班から、外の乾いた道と、見晴らし台の周辺を確かめる仕事の条件が出ていた。
切れた歩廊を直す工事ではない。
水路の奥へ行き、核碑で報酬を受ける話でもなかった。
日程は明後日の午前。天候と現地の状態によって変更する。
俺の足場と上からの確認へ二銀。リゼさんの地図へ一銀。合計三銀、完了して記録を渡したあとに支払う。
俺は、その二つの欄を見た。
剣を持つ人一人へ三銀で、ほかは好きに分ける、ではない。地図を作る人の名と値が、最初から別に置かれていた。
「朝の一体を倒した代金は、ここへ入っていますか」
俺が尋ねると、係は首を振った。
「今回の三銀には含みません。朝の報告は、危険の発生の記録として受けています。こちらは、次の調査の条件です」
俺は頷いた。
少し惜しい気持ちはあった。勝ったし、役に立った。その分の礼が金でもらえたら、嬉しいに決まっている。
だが、頼まれた値がなかった朝を、いま受けた仕事の前金だったことにはできない。
次の条件を、次の自分たちで選ぶ方がいい。
リゼさんが左掌へ目を落とし、それから紙を見る。
「前日の午後までに、手の状態を見てお返事したいです。それでも、日程の相談はできますか」
「できます。明日の夕刻までに、こちらへお知らせください。その返答前に、参加済みの名簿へは入れません」
係が答えた。
俺も、同じ返事にすることを伝える。
今、前受けの品を受け取る机ではない。
普通の有料の仕事を、普通に、受ける前に読める。それも、強い装備を手に入れたあとに増えた、嬉しい選択肢だった。
*
窓口を出ると、リゼさんが控えを自分の筒へ入れた。
「私の一銀の所、先に見ていましたね」
「はい。地図の方が、ちゃんと、別にあったので」
「嬉しいです。でも、アルトさんの二銀の方も、嬉しそうでした」
俺は少し返事に詰まった。
「二銀は、嬉しいです」
正直に言うと、彼女が笑った。
「私も、一銀、嬉しいです。だから、手を痛くしてでも受けたいって、今日は言わないでおけます」
俺は、その言い方を、もう一度頭の中で聞いた。
欲しくないから断れるのではない。
自分の仕事へ値が付き、その先も続けたいから、今日の手を使い切る方へ行かずにいられる。
俺は頷いた。
「明日は、地上から見た図を、先に整理したいです。俺が上から見た所も、座ってなら話せます」
「はい。私も、その方をやりたいです。まだ、私が見ていない線まで、同じ色へ入れたくないので」
彼女の声が少し速くなった。
仕事を避けるために休む話ではなかった。
自分で選びたい次の仕事のために、今日、休めた手と、描ける図を持っておく話だった。
俺は、坂へ続く道を見る。
「その前に、今日は、眺める方ですね」
そう言うと、リゼさんは嬉しそうに頷いた。
*
坂の途中に、焼き菓子の小さい店があった。
焦げ茶の髪を布で包んだ女性が、平たい菓子を、焼けた面を上にして並べている。粉を焼く家業の店だと、脇の板に案内があった。
夕方の分が売れたら閉めるらしく、籠はもう半分ほどだった。
甘い匂いへ、俺の足が少し緩む。
リゼさんも店を見た。
「一つ、いくらでしょう」
「二銅です。今のは、縁が少し固い方。柔らかいのは、もう、終わりました」
店の女性が答える。
リゼさんは、一つ頼んだ。
俺も自分の一つを頼み、二銅を払う。
四十七銀八十八銅から、四十七銀八十六銅。
共同の一銅は、別の袋のままだ。
リゼさんも自分で払い、右手で紙包みを受け取った。彼女の財布の残り全部を、俺の勘定へ足すことはない。
「歩くなら、冷めてからの方が割れにくいですよ。熱い所、紙の上から押さないで」
女性は焼面を指して教えてくれた。
俺たちは礼を言い、包みを持って通りの端へ寄った。
見晴らしへ行って、食べる楽しみもできた。
迷宮へ行く時の、必要な道具だけを買う袋とは違う軽さが、指へあった。
坂は、朝の道より短かった。
それでも、リゼさんは途中の石の腰掛けへ座った。
俺も隣へ座る。
「あと少しだから、って、言いそうになりました」
俺が正直に言うと、彼女は笑った。
「ここからでも、少し、見えます」
建物の間から、町の屋根が一列見えた。
彼女は左手を持ち上げず、右の膝へ包みを置いて眺めている。
俺も、一口先に食べようか迷った。
まだ温かい紙の下で、菓子の縁が固くなり始めている。
上へ着いてからと決めたことを、罰のように守る必要はない。それでも、今は、二人であの景色の前で開ける方を待ちたかった。
「俺、もう少し、待てそうです」
「菓子の方ですか」
「はい。足の方も、ですけど」
彼女が笑い、俺も笑った。
休む時間まで、ちゃんと、楽しみに来ていた。
*
見晴らしの端には、低い石の囲いがあった。
俺は先にその外へ出たりせず、二人で座れる内側の場所を見た。
乾いた地面の上に、長靴を置く。
空の足場は、使わなかった。
上へ三歩出れば、もう少し遠くまで見えるかもしれない。だが、今日は、同じ高さで見るために、彼女と来たのだった。
屋根の向こうに川がある。
朝、自分たちが歩いた道も、その途中まで見えた。
遠くの塔が光を受け、片側だけ、白く見える。
昨日登った場所を、今日は、町から眺めていた。
「高かったですね」
リゼさんが言う。
「はい。あの中で、俺、足元ばかり見ていた所もあります」
「私もです。地図にしたら、線は長くなるのに、見た景色は、一つずつでした」
俺は頷いた。
手に入れた長靴は、あの長い道を、一瞬で終わった話へ変える品ではなかった。
歩いた先に、本当になかったはずの三歩を作る。
その分、今まで届かなかった所へ行ける。今日は、その嬉しさを、塔の外の普通の地面からでも感じられた。
リゼさんは帳面を出す前に、俺を見た。
「少しだけ、道を描いてもいいですか。今日、町の頁の最初を、ここで終えたくて」
「もちろんです。俺も、どの曲がり角だったか、見たいです」
彼女は右手で帳面を開いた。
四十銅で、自分で買った二十四葉。
最初の頁には、自分で間違えて戻った、荷車の置場へ入る道がある。今日、俺を案内した方には、違う線が引かれていた。
どこかの古い図録を写した一頁ではない。
彼女が歩き、迷い、また来た町だった。
今、その外に見える塔と、川の向きを、小さい目印として添えている。
「ここへ、今いる場所を」
そう言って、彼女が点を置いた。
俺はその指の先を見た。
「俺も、そこにいますね」
「はい。でも、点の中へ、二人の顔までは入りません」
「俺もいた場所が、リゼさんの最初の頁に残るのが、嬉しいです」
口にしてから照れた。
リゼさんも一度筆を止め、それから、はい、と小さく返した。
*
朝の三歩の図は、別の紙へ置いた。
俺が上から見た石の棚と、リゼさんが地上から見た戻り道。
彼女は、今ここから見える塔の線へ、それを繋げなかった。
離れて眺めた形と、足を置いて確かめた所は、別だった。
「この、二歩目の横です。下からは、重なって見えていた面が、俺には、分かれました」
俺が紙の上を示す。
「立てる幅まで、ありましたか」
「見えた幅はあります。でも、そっちへ足は置いていません。着いたのは、最初に二人で見た石です」
リゼさんは頷き、見た方だけの線へした。
強い足場を持つと、行けたはずだと、記憶の中で先へ歩きそうになる。
まだ踏んでいない棚があるから、次の調査の仕事になるのだった。
俺は、その紙を見て少し笑った。
「何ですか?」
彼女が訊く。
「俺、三歩を早く使いたくて、昨日まで、空いた所ばかり見ていました。今は、三歩の先に、どの石があるか、見たくなっています」
「そこへ、私の道も置けたら、嬉しいです」
彼女は答え、紙を畳んだ。
その先を全部、今日の仕事へ持っていかない。
今いる場所の景色へ、二人で目を戻した。
*
菓子は、もう、手で持てる熱さになっていた。
包みを開けると、縁が、教えてもらった通り少し固い。
俺は自分の一枚を割り、口へ入れた。
甘い。次に、焼いた粉の香りが来る。
肉の嬉しさとは別の、夕方に欲しくなる味だった。
リゼさんは自分の分を小さく割り、川を見ながら食べた。
「今度は、別の甘い物も、持って来たいです」
「地図が、もっとできてからですか」
俺が訊くと、彼女は首を振った。
「できていなくても。眺めに来る日は、あっていいと思いました」
俺は頷いた。
いつか仕事が片付いたら。もっと金が貯まったら。全部知ってから。
前の人生で、自分の楽しみを、その先へ何度も置いた。
今は、まだ地図が終わっていない彼女と、自分で買った二銅の菓子を食べている。それが、欲しかった今日の一つだった。
町の窓へ、灯りが点き始めた。
最初は一つ。
次に、道を挟んだ別の家。
俺は、その明るさを見て、自分の家のことを思い出した。
「母が縫い物をしてると、外からでも、窓の所だけ分かったんです」
俺は言った。
「帰る時、今日はまだ、起きてるなって」
「お母さまの、仕事の場所ですか」
「はい。父が遅い日は、そこへ二人で荷を持って帰って。俺、腹が減った方を、先に言ってました」
リゼさんが笑う。
「今と、似ていますね」
「似てます。昔から、飯の話、早かったので」
俺も笑った。
前世の町の灯りも、今の家の灯りも、どちらかだけを本物へ選び直したいわけではない。
今の俺が育った窓へ、いつか、今日見てきた町の話も持って帰りたかった。
リゼさんは、しばらく町を見たあと、自分の帳面の表紙を撫でた。
「私、図録の中の町を見て、いつか自分で確かめたいと思っていました」
彼女は言う。
「今日、自分の町の頁ができたら、もう、ここは分かった場所になるのかなって、少し思っていたんです。でも、明かりが点いたら、また、知らない方になりました」
俺は、川へ落ちた灯りを見る。
昼の道は、確かにその下に残っている。
なのに、いま見たい景色は、さっきまでと違った。
「全部描けたあとも、来たいですね」
俺が言うと、彼女は頷いた。
「はい。描くためじゃなくても、アルトさんと」
俺は返事をするまで、一拍遅れた。
嬉しい方の言葉だった。
それを、仕事の確認へ戻したくなかった。
「俺もです。また、一緒に来たいです」
彼女が笑う。
灯りの点いた窓へ、もう一つ、小さい影が動いた。
俺たちは、その知らない家の夕食を勝手に想像し過ぎず、自分たちの菓子の残りを食べた。
*
完全に暗くなる前に、下り始めた。
俺は靴の三歩へ頼らず、来た時の石を見て歩く。
リゼさんも、途中で一度止まり、手と足を確かめた。
今のところ、痛みが強くなったとは言わなかった。だからといって、明後日の調査まで、今夜の返事で全部決まるわけではない。
町窓口の閉まる前に、二人で、明日の夕刻までに最終返答することを、控えどおり伝えた。
今日の三銀は、まだ入っていない。
財布は四十七銀八十六銅。共同の一銅は、使っていない。
魔力は八十。光刃も守護環も、午後は使わず、休んだ分を環の蓄力へ勝手に足しはしない。
長靴も午後は零回。朝に空中三歩を一回使った、その一日のままだ。
新しい前受けも、零件。
それでも、帰る荷には、自分たちで選べる次の仕事の条件と、初めて二人で眺めた町の頁がある。
宿の戸が見える所で、俺はリゼさんへ向いた。
「今日は、行けてよかったです」
「私も。休んでから行けた方で」
彼女が笑う。
俺は頷いた。
明日は、地上の図を整理し、彼女の手の様子を見て、次の仕事へ答える。
その次に使う三歩の先には、まだ知らない石の棚がある。
いま戻る先には、今夜の寝台と食事を相談する宿がある。
先に手に入れた強さを持ったまま、自分でその間の一日を選べる。
俺は、土の付いた長靴を、敷物の上で一度揃えた。
もっと高い景色も、また見たい。
でも今日、彼女と同じ高さで見た町を、そのための途中の小さい景色にはしなかった。




