空を歩いて、騎士と会いました
【人物のおさらい】
・アルト:迷宮の踏破報酬を前払いで受け取れる探索者。神剣ルクシアと守護環を使う。
・リゼ:鑑定と地図を仕事にする同行者。左掌を療養しながら、自分の地図帳を作りたいと願う。
空を三歩歩ける靴があっても、朝の勘定は飛び越せなかった。
「昨夜の寝台と夕食、今朝の分までで二銀。こっちへ、お願いね」
白の混じる黒髪をまとめた宿の女主人が、前掛けの手を拭いて言った。
俺は二銀を払い、財布を閉じる。
四十九銀八十八銅から、四十七銀八十八銅へ。
共同で残している一銅は、別の袋のままだ。
塔を踏破した昨日の金が減るのは、少し惜しい。それでも、温かい寝床と腹に残った夕食を思い出せば、金だけ置いてきた気持ちにはならなかった。
リゼさんも、自分の分を支払って席へ戻った。
彼女の財布の中身全部を、俺が数えることはしない。
机へ置いた新しい帳面の表紙が、朝の光を薄く返していた。
「行けそうですか」
俺が尋ねると、彼女は自分の左掌の布を見て、それから頷いた。
「乾いた入口までなら、今日は行きたいです。奥の水路へは、入りません」
「はい。俺も、まず入口を見たいです」
前受けの枠は、零件。
その零を早く埋めたくて、彼女の返事を待てなくなる朝にはしなかった。
*
町を出る道は、リゼさんが先に選んだ。
昨日買った帳面は、荷の内側で硬い板と別に包んである。歩きながら開かず、曲がり角で止まった時だけ、右手で小さい手帳を出した。
「ここ、最初に町へ来た時、私が間違えた所です」
彼女が、二つの石の道を指す。
「同じ方へ見えます」
「はい。片方は、途中で荷車の置場へ入ります。戻れるので、迷宮ほど怖い道ではありません。でも、覚えていると、少し嬉しいです」
俺は、彼女の選んだ方へ歩いた。
どこでも先に知っている鑑定士ではない。自分で間違え、戻って、次へ線を引ける人の道だった。
坂を一つ越えると、石壁の下に水の光が見えた。
水鏡の回廊。
昨日、紙で読んだ名が、今日は冷たい匂いを伴って近づいてくる。
乾いた入口の前に、出入りを知らせる札と、水位の板があった。
俺の長靴が、石へ音を立てる。
水の上へ歩き出した音ではなかった。
*
入口係は、紺の前掛けへ巻き紙を差していた。
水位の札を替える手を止め、俺たちへ向く。
この地方の出入りの記録を家業として覚えた人だと、受付の案内に役目がある。町で会った灰色の上衣の係とは、別の人だった。
「見学ですか。入場のご相談ですか」
「今日は、乾いた受付までです。町で案内をもらいました」
俺が言うと、リゼさんも自分の範囲を伝えた。
係は頷き、机へ一枚の図を広げる。
「ここまででしたら、入場料はありません。この先の水路へ行く場合は、別に用件を確認します。核碑を見に進むことも、そちらへ含まれます」
俺は図を見た。
すぐ目の前に報酬を並べてもらえる机ではない。
それでも、どこから水が深くなるか、乾いた床へ戻る線がどこかを、初めて現物と一緒に読める。
俺は剣の柄へ触れず、図の戻り道を指した。
「長靴で三歩出ても、この先は、立てる所が続くとは限らないんですね」
「はい。上から床に見える所もあります。今日は、外の見晴らし台から見える側までにしてください」
係は、水面へかかる光を指した。
強い装備を持っている人のために、深さの分からない水まで浅くはならなかった。
*
見晴らし台への道で、金属の留めが短く鳴った。
紺の上衣に白銀色の軽鎧を着た女性が、盾の革帯を確かめていた。
淡い金髪を低く結び、顔を上げた目は青灰色だった。
腰にある派遣の札を、入口係が確かめる。
「本日の地上調査の方ですね。外の歩廊は、まだ切れたままです」
「分かりました。まず、戻る側から確認します」
彼女は落ち着いた声で答えた。
そのあと、俺たちへ向く。
「王国の遠征班から来ました、セシル・グランです。今日は観測に来る人の護衛と、組合への連絡を担当します」
「アルトです。こちらは、地図と鑑定のリゼさんです」
俺が名乗ると、リゼさんも自分で挨拶をした。
セシルさんは彼女の左手へ一度目を置き、立ち位置を少し空けた。
勝手に手を取って助けることはない。
「お二人は、見晴らし台まで?」
「はい。今日は、水路へは入りません」
リゼさんが答えた。
「では、同じ所までですね。私も、最初は外の道を見ます」
彼女は言い、部下を呼ぶようではなく、三人が通れる道の幅を先に見た。
騎士家で育った人だとあとで聞く前から、誰がどこへ戻れるかを気にする癖が、足の置き方へ出ていた。
*
切れた歩廊は、見晴らし台の手前にあった。
普通の見学路は、その手前で折れ、石の段を遠回りする。
使えない木の橋を渡らなければ、帰れない場所ではなかった。
セシルさんは綱を持って来た観測班の印を見て、まず回り道の方へ立つよう俺たちへ示した。班の人たちはまだ入口側で準備中で、彼女だけが先に道を見に来ている。
「今日は、こっちで待ってください。近い方へ、足を掛けないように」
彼女の声は、短くなった。
名誉のために近道を渡って見せる気はないらしい。
俺は頷き、切れた間の向こうを見た。
乾いた石の縁と、こちらへ垂れた細い木の枝。
崩れた歩廊の上の木から、折れた枝が一本、引っ掛かっている。
風の向きで、時々、その影が道へ落ちた。
リゼさんが、俺の見た方へ顔を向ける。
「枝の下へは、入らない方がいいです。先だけ見えていても、根元がどう留まっているか、ここからは」
「はい。向こうの石へも、下りてはいません」
俺は答えた。
剣なら枝を切れる。それと、人の上へ落とさずに済むことは、同じ一言ではなかった。
リゼさんは歩廊ではなく、戻る側の乾いた石の縁を右手で示した。地面から見える面と、枝に隠れて見えない面を分け、帰りに使える石の位置だけを手帳へ残す。俺も、その縁を自分の目で確かめた。
その時、枝の影が動いた。
風に揺れた方とは、逆へ。
小さい石色の翼が、壁から離れる。
一つだった。
鳥に見えかけた形が、こちらへ向いた時、翼の下に硬い鉤のような足が見えた。
俺は剣を抜いた。
セシルさんが、盾を上げてリゼさんの前へ出る。
「後ろへ。石段の曲がりまで」
リゼさんはすぐ動いた。
俺も彼女の退く方を一度見て、戻す剣の側を空けた。
相手が人を狙う理由は、まだ分からない。巣の近くへ来たからか、動く荷へ寄ったのかも知らない。
だが、今、こちらへ来る一体は見えていた。
*
翼の影が低くなった。
俺は長靴の足場を、一つ、空へ置いた。
身体が、いつもの地面より高い所へ上がる。
石の壁を蹴ったのではない。枝へ乗ったのでもない。
二歩目で翼の外側へ回り、三歩目で、戻る側の乾いた石の上へ位置を変えた。
神剣の白い刃が、光を返す。
飛ばす光刃は使わない。
俺自身が届いた所で、通常の一振りを置いた。
硬い影が割れ、風の下へ沈む。
足場の三歩を使い終えた俺は、最初に見た石へ降りた。
靴底へ固い感触が戻る。
その瞬間、腕へ遅れて重さが来た。
勝った。
剣が届かないと思った高さへ、自分で歩いて届いた。
俺は息を吐き、すぐ二体目がいないか、壁の見える範囲を見た。
姿はない。だからといって、壁の穴の全部を空だと決めはしなかった。
「アルトさん、足は?」
リゼさんの声が、石段側から来た。
「着きました。ここ、石です」
俺が答えると、セシルさんも、彼女を残してすぐ俺へ駆け寄らず、周囲を見てから盾を下げた。
「そのまま、こちらの道へ戻れますか」
「はい。ここからは、地面で戻れます」
俺は剣を下ろし、折れた歩廊へ足を置かずに回った。
戻る途中、石の縁へ残った自分の靴跡が見えた。来る時に選んだ場所が、ちゃんと帰る側にも残っている。俺はそこを踏み、剣の先が壁へ当たらないよう下げた。足場が戻った安心を、刃を振り回す方へ変えずに済んだ。
リゼさんの右手が、俺の戻る方を示していた。
枝を切るつもりで抜いた剣ではない。
枝そのものも、まだ上に残っている。
俺たちが無事に戻れたことと、観測班が通ってよい道へ直ったことを、同じ勝利へ数えるわけにはいかなかった。
*
曲がり角へ着くと、セシルさんが俺の靴を見た。
少しだけ、先ほどより目が大きい。
「今の三歩は、足場のない所に」
「はい。空へ三歩だけです。石へ着いたので、また使えます。でも、ずっと飛び続けることはできません」
彼女は頷いた。
「翼を追って、そのまま向こうへ行くのかと思いました。戻る石を、先に選んでいたのですね」
「リゼさんが、そこを見てくれたので。最後に立つ所、要ります」
俺は答えた。
リゼさんが、右手で小さい手帳を持ち上げる。
「地面から見えた範囲だけです。壁の奥に何がいるかは、分かりません」
セシルさんは、その返事も同じように受け取った。
強い剣を見たから、地図の仕事まで全部終わったと考える人ではなかった。
「私は関所の家で育ちました。父たちは、何人戻したかを、よく数えていたので」
彼女は盾の帯を緩めず、言った。
「今の戻り方は、覚えておきたいです。私が前へ出る時にも」
俺は、少し照れた。
「俺、勝てたのも、かなり嬉しいです」
正直に言うと、彼女は一度驚き、それから笑った。
「そこは、隠さなくても。私も、盾で受け切れた時は、嬉しいです」
堅い鎧の人の笑い声が、思ったより明るく石へ響いた。
*
入口へ戻り、起きたことを係へ伝えた。
外の道で石色の翼一体が寄って来たこと。俺が通常斬撃一回で倒したこと。ほかの個体と、巣の有無は未確認であること。
セシルさんは自分の派遣の記録へ、リゼさんを石段側へ退かせた位置を残した。
観測班がまだ入っていなかったことも、同じ欄へ添える。
係は現場へ人を出す手配をし、見晴らし台の先へ向かう案内を、いったん止めた。
俺に大金の礼を出すと、その場で約束する人はいなかった。
こちらも、値段の決まっていない出来事を、財布へ足したりはしない。
枝の片付けと、道の確認は、担当者の仕事として残った。
俺たちは、使える入口側の石の広場へ戻った。
水路の奥へは、一度も入っていない。
次の前受けも、まだ零件のままだった。
*
広場の腰掛けで、リゼさんが手帳を開いた。
俺の使った三歩を、彼女が見えた範囲で描く。
俺は、空中の二歩目で見えた壁の側を、別の線で伝えた。
「ここは、俺が上から見た方です。下からだと、石が重なっていました」
「はい。私の見た線へ、そのまま繋げず、こちらへ」
彼女が余白を示す。
昨日の帳面の最初へ町の道を入れたいと言った人が、今日は、自分の目で新しい道を一つ増やしている。
塔の図を全部俺の話から写すだけではない。
そのことが、俺には嬉しかった。
「また、飛んだ方、教えてくださいね」
彼女が顔を上げる。
「はい。リゼさんの方から見えた俺も、聞きたいです」
「少し、得意そうでした」
俺は返事に詰まった。
彼女が笑う。
勝ったあとの顔まで図へ書かれるのは、少し恥ずかしい。でも、見ていてくれた人へ、その嬉しさを隠すのも、今はもったいなかった。
「たぶん、そうでした」
俺が認めると、彼女は、はい、と嬉しそうに頷いた。
セシルさんは、班へ渡す控えを作ってから、こちらへ来た。
俺たちへ、今日すぐ護衛隊へ入るようには言わない。
「次の正式な調査で、力を借りたい場合には、組合から条件を出します。今日の三歩と、リゼさんの図の方、両方を相談したいです」
「金額と、日程も、そこからですね」
「はい。私一人で、皆さんの仕事を決めるわけにはいきませんから」
彼女は笑った。
リゼさんも、手の具合を見て返事をすると答えた。
俺は頷く。
剣と靴を褒めてもらった朝が、相手の予定全部を俺の物へする朝にはならなかった。
その方が、次に一緒に働く所を、ちゃんと楽しみにできた。
*
帰りは、朝と同じ道を歩いた。
魔力は八十。今日、光刃は使っていない。守護環も展開せず、休んだ時間を勝手な蓄力へは足さない。
長靴の空中三歩を一回、通常斬撃を一回。
新しい傷はなく、リゼさんの左掌も、治った扱いにはしない。
昨日の塔の九歩は、昨日の欄に残す。
今日の三歩が、新しい一日の、初めての三歩だった。
町の手前で、リゼさんが坂の上を見た。
「この先、夕方、町の灯りが見える場所があるそうです。私も、まだ夜には来ていません」
俺は同じ方を見る。
迷宮の奥へ続く道ではない。
ただ、一緒に立って町を見る場所だった。
「見に行きたいです。リゼさんも、よかったら」
「はい。今日は戻って休んで、手と空の具合を見てから。行ける日を決めませんか」
「決めたいです。仕事の帰りに、ついでじゃなくて」
言ったあと、俺は少し顔が熱くなった。
彼女も、すぐ手帳へ日を入れなかった。
俺を見て、笑う。
「私も、その方がいいです。地図を描く時間と、眺める時間、両方ほしいので」
俺は頷いた。
次の約束の名は、まだ、仕事ではなかった。
恋人だと決めた言葉でもない。
けれど、俺が空を歩いて見てきた景色だけでなく、二人で同じ高さから見る景色も欲しい、と言えた。
宿へ戻る前に、俺は靴の土を落とした。
先にもらった一足が、今日、知らない騎士へ自分の三歩を見せた。
神剣は、届かなかったはずの高さで、ちゃんと一体を斬った。
まだ前受けの枠は空いている。
それでも、強さを持ったまま歩く次の道が、もう増えていた。
リゼさんが、自分の描いた町の曲がり角を示す。
俺はその横へ並び、今度は、地面の一歩を一緒に置いた。




