次に欲しいのは、二人の道具
【人物のおさらい】
・アルト:迷宮の踏破報酬を前払いで受け取れる探索者。神剣ルクシアと守護環を使う。
・リゼ:鑑定と地図を仕事にする同行者。左掌を療養しながら、自分の地図帳を作りたいと願う。
次の報酬を一緒に見たい、と言ったくせに、俺は最初の店で足を止めた。
剣でも鎧でもない。
窓の内側へ、革で綴じた小さい帳面が並んでいた。薄茶の背が光を受け、白い紙の端だけが、揃ってこちらを向いている。
リゼさんが、俺の向いた方を見て笑う。
「アルトさん。そちらも、候補ですか」
「はい。でも、俺が前払いでもらえる物じゃない方です」
塔を踏破して帰った、その日の午後だった。
部屋で図を広げたあと、二人で町の窓口へ向かっている。左掌を休めるリゼさんは、重い地図板を持たず、右手に小さい手帳だけを持っていた。
俺の鞄には、蒼天の階塔の図。
神剣と守護環と、風渡りの長靴は、今も手元にある。次の前受け枠は空いたが、だからといって、町の店の商品まで無料になるわけではなかった。
「見るだけでも、いいですか」
俺が訊くと、彼女は頷いた。
「はい。私、実は、帰りに見たかったんです」
俺は少し嬉しくなって、扉の方へ一歩向かった。
欲しい物を一緒に話す約束は、迷宮の核碑の前だけで始めなくてもよかった。
*
紙の店の奥では、針が薄い革へ通る音がしていた。
生成りの上衣を着た成人の店主が、作業台から顔を上げる。灰褐色の短い髪に、紙の端のような細い切れ端が一つ付いていた。
壁の札には、紙束、綴じ、帳面の修理。町の記録用の帳面を家族で作ってきた店だと、入口の案内にある。
「開き方を見ますか。使う紙を先に決めますか」
店主が訊いた。
リゼさんは、窓にあった小さい帳面を右手で示した。
「地図をまとめたいんです。机へ置いた時、開いた頁が戻りにくい物を」
「片手で、押さえずに?」
「はい。今は左を休めていますが、それだけでなくて。定規を持つ時も、頁の端を押さえる手が足りないので」
彼女は布のある左掌を前へ出さず、右手で普段の紙を開く動作をした。
店主は、その動作を見て、二冊を台へ置いた。
片方は背が硬く、もう片方は、開くと綴じの間へ細い隙間ができる。
「こちらは持ち歩く時に丈夫です。ただ、最初は閉じる方へ戻ります。こっちは平らに開く。その分、背を捻る扱いには弱い」
どちらにも、便利な所と困る所があった。
リゼさんは、台へ置いたまま、一冊目を右手で開いた。
半分まで開くと、頁が指を追って戻ってくる。
二冊目は、机の上へ残った。
俺は、こっちです、と言いかけ、彼女の目を見た。
まだ、文字を書く幅を比べている。
開いた時に楽だから、それ以外も全部よい物だと決めるには早かった。
「持ち歩く時、外へ硬い板を添えれば、背を捻らず運べますか」
彼女が訊いた。
「板と紐の当て方によります。強く締めれば、その綴じも傷む。今、地図は、どう運んでいますか」
店主は、彼女の手帳を見る。
リゼさんは、紙の図と地図板を分けて持つことを説明した。今日は板を持って来ていない。
「では、今すぐ全部を一冊へ入れ替えず、最初に写す分だけを。これなら、白紙二十四葉で四十銅です」
店主は札を指した。
リゼさんは値段を確かめ、もう一度、自分で頁を開いた。
*
「これにします」
彼女が言った時、俺の手が財布へ向きかけた。
踏破した日に、何か贈りたい気持ちがあった。
けれど、彼女は自分の財布を出している。
その前へ硬貨を置けば、嬉しくなるのが誰なのか、少し分からなくなった。
「アルトさん?」
彼女が俺を見る。
俺は正直に言った。
「俺が、出したくなりました。でも、リゼさんが、自分の地図帳を選んでる所だったので」
彼女は一度、開いた帳面を見た。
それから、口元を緩める。
「今日は、私が買いたいです。最初の頁も、私が決めたいので」
「はい。何を描くか、あとで聞いてもいいですか」
「それは、聞いてほしいです」
彼女は四十銅を払い、店主と頁の抜けや傷を確かめた。
俺の財布は、朝からの四十九銀八十八銅のままだ。
共同の一銅も、ここへ混ぜていない。
彼女の総額を、俺が勝手に知っていることにはしなかった。ただ、彼女が、自分の仕事のための四十銅を払った。その手元は、ちゃんと見た。
包んでもらった帳面は、彼女の右手で持てる大きさだった。
俺はすぐに預かると言わず、扉を開ける。
リゼさんが外へ出てから、店主へ礼を言った。
神剣のように光る品ではない。
だが、彼女が抱えた白い頁には、まだ迷宮へ置いていない自分の足跡を入れる余地があった。
「最初は、塔ですか」
歩き出してから訊くと、彼女は首を振った。
「塔も入れたいです。でも、最初は、私が自分で歩いた道から。塔は、アルトさんから聞いた図として、分けて置きます」
俺は頷いた。
今日の勝利を大きくしてもらうために、彼女が歩いていない道まで、最初の頁へ押し込む必要はなかった。
*
町の窓口では、昨日までと違う用件を口にできた。
「蒼天の階塔を踏破しました。次に見に行ける迷宮の案内を、聞きたいです」
袖口を留めた灰色の上衣の係が、俺の名を確かめ、申告の控えを開いた。
短期依頼の受渡しもしている、以前会った窓口の人だった。今日も机には別の依頼札があり、俺の剣へ驚くためだけに仕事をしている人ではない。
「階塔の入口で、登録の確認は済んでいますか」
「はい。前受けの一件も、精算済みと確認しました。新しい前受けは、まだ受け取っていません」
係は頷き、案内の頁を替えた。
「候補を見ることと、前受けを決めることは、別で進められます。まず、こちらの案内から。現地の核碑で出る候補そのものを、この机でお約束する物ではありません」
俺は紙を見る。
地図の上へ、小さい丸がいくつかあった。
また、入り口へ行く朝が作れる。
そのことだけで、胸が少し熱くなった。
リゼさんが、俺の隣で紙の端を見る。
係が彼女にも読める向きへ、机の上で回した。
「お二人での見学ですか」
「見学先を、今、相談したいです。私の左手は、まだ療養中なので、入る範囲も分けて考えます」
彼女が答えた。
係は、何も問題ないと先に笑わず、道の方を指した。
「入口までと、迷宮内は分けてください。こちらは水のある区画へ続きます。入口を見るだけなら、乾いた側の窓口まで。奥へ進む場合の装備は、現地の案内と一緒に確認する必要があります」
新しい名が、紙へあった。
水鏡の回廊。
俺は、それを声に出して読んだ。
階塔の次に、下りていく水の道がある。
長靴で空を歩けるようになった俺が、まだ歩けない所も、世界には普通に残っていた。
*
案内にあるのは、町から入口への道と、現地で聞ける範囲だった。
報酬の名前も、攻略法も、都合よく全部揃ってはいない。
俺は、足元の長靴を見る。
「水の上を、そのまま歩ける靴では、ないですよね」
リゼさんが頷いた。
「空へ三歩置けます。でも、長い水路を歩き続ける力ではありません。最後に足を置く所は、要ります」
「三歩の先に、床がなかったら困ります」
「はい。ですから、入口の図を見てから」
係は、二人が読んだ紙を押さえた。
「水位で、入れる区画が変わる場合があります。前の人の図があることと、今の道が同じであることは、分けてください」
俺は、塔の輪の破片を避けて歩いた道を思い出した。
自分の勝った図を誰かへ渡せても、次に入る人の足元を、永久に同じ物へはできない。
その注意は、俺の強さを疑うための言葉ではなかった。
別の場所へ入るなら、その場所のことを聞く。
神剣があっても、俺自身が、その手順から消えるわけではない。
「ここで、見学の申込みはできますか」
俺が尋ねると、係は現地の受付時間が書かれた札を示した。
「明日のこの時間内に、入口の窓口で用件を伝えてください。こちらから、入場や前受けの成立を先に処理する物ではありません」
俺は時刻を写した。
リゼさんにも見せる。
彼女は道の長さと坂の印を見比べ、自分の手帳へ、入口まで、と書いた。
「明日の朝、手の具合を見て、私が行けるか決めたいです」
「はい。今日は、行くって決めた紙にしません」
俺が答えると、彼女は頷いた。
係は案内の控えを渡し、別の依頼札を机へ戻した。
新しい迷宮を教えてもらった嬉しさの中にも、その人の今日の仕事の続きがある。
俺たちは礼を言い、窓口を離れた。
*
通りへ出てから、リゼさんが足を緩めた。
俺も、同じ速さへ落とす。
「少し、座ってもいいですか」
「はい。あそこの、空いている所で」
店の荷台ではなく、通りの人が休める石の腰掛けを指した。
彼女が自分で腰を下ろす間、俺は道の邪魔にならない側へ立つ。左手を引いて支えることはしない。
彼女は帳面を膝へ置き、肩の力を抜いた。
「すみません。紙を買う所から、楽しくて、休むのを後へ回しました」
「俺も、次の案内を聞けるのが、嬉しくて。今日は、帰った足を休める日でもありました」
俺も隣へ座った。
朝、塔の頂で守護者を倒した足だ。
長靴は残っているが、履いている人間の疲れまで、踏破の表示と一緒に精算されるわけではない。
俺は剣が腰掛けの端へ当たらないよう向きを変え、水を一口飲んだ。
「欲しい物、増えましたか」
リゼさんが訊いた。
俺は少し考える。
「はい。最初、もっと強い武器って思ったんです。でも、剣は今のがあるので。水の道を見たら、まだ入れない場所へ行ける物が欲しいです」
「倒すための物だけでは、なくて」
「それも欲しいです。でも、行けたら、見せてもらえる景色が増えるので」
言ってから、俺は彼女の新しい帳面を見た。
そこへ、二人で見た景色を一つ増やしたい気持ちがある。
その言葉まで出すと、今は少し照れた。
リゼさんは俺の目線を追い、包みの端を押さえる。
「私は、地図を広げたまま、雨でも読める物が欲しいです。水へ入る道なら、なおさら」
「紙を濡らさない袋とか」
「袋へ入れると、開けない物もあります。そこが、悩ましいんです」
彼女は、嬉しそうに悩む顔をした。
欲しい物を二人で話す、というのは、同じ一つを選ぶまで片方が譲る時間ではなかった。
*
「俺が、次にそういう物を前受けできたら」
言いかけると、彼女が少し首を傾げた。
「アルトさんが使える物を、先に見ましょう。私の帳面のためだけに、選びたい物を変えないでください」
「でも、二人で使えたら、嬉しいです」
「はい。私も。それは、使い方を見てから、喜びたいです」
俺は頷いた。
最初に神剣を手にした時、どう使えるかを、リゼさんと一緒に知った。守護環も、長靴も、名前だけで全てが決まったわけではない。
次に何が出るか、今はまだ分からない。
だからこそ、入口で見た時、二人で具体的に欲しがれる。
俺は、まだ零件の前受け枠を、空っぽで損な物とは思わなくなっていた。
塔を最後まで行ったから、次を選ぶ前の楽しみが戻ってきたのだ。
リゼさんは、少し休んでから、新しい帳面の包みを開いた。
膝の上で無理に書かず、最初の白い頁を見せてくれる。
「ここへ、何を入れるか。私、町へ来た最初の道からにします」
「迷宮の入口じゃなくて?」
「はい。迷宮の図を見つけても、そこへ着く道で迷いたくないので。それに、最初にここへ来た時、私も、少し迷いました」
彼女は笑った。
初めから全部を知っていた鑑定の人ではなく、自分の道を覚えてきた人が、目の前にいた。
「その地図、俺も見たいです」
「見せます。今度は、私が歩いた方を、アルトさんへ」
彼女が帳面を閉じた。
俺は、さっきまでより少し長く、その白い表紙を見た。
*
帰る途中、俺たちは明日の相談を短く決めた。
朝、リゼさんの手と体調を見て、入口見学へ行くかを決める。行く場合も、最初は乾いた受付の所まで。現地で候補を見たことと、迷宮へ入ったことは分ける。
俺だけが入るなら、それもその場で彼女の仕事を決めずに相談する。
今日は、新しい報酬を受け取っていない。
魔力は八十、光刃も、午後は使っていない。守護環の蓄力を、休んだから満ちたと書くこともしない。
朝の戦いの四秒は、そのまま今日の記録へ残っている。
長靴で空へ置いた九歩も、三回に分かれた九歩のままだ。
踏破後だから、使った分が無かったことになるわけではない。
その当たり前の所を、俺は少し誇らしく思った。
先に強さをもらい、使って、最後まで行った一日が、ちゃんと自分の足へ残っている。
部屋へ戻ると、リゼさんは新しい帳面を机へ置いた。
俺は階塔の図を、その横へ出す。
明日の入口への案内は、さらに別へ。
三枚を一度に開くと、机が狭くなった。
「道が増えると、机が足りませんね」
俺が言うと、彼女は笑った。
「はい。でも、最初から大きい机を買うより、今日は、順に開きましょう」
俺は頷き、塔の図を畳んだ。
終えた道があるから、新しい白い頁を、手前へ置ける。
明日、見られる候補が楽しみだった。
何でも斬れる剣を持っていても、まだ欲しい強さがある。
その強さで行く場所を、一緒に話したい人もいる。
俺は長靴の土を落とし、椅子へ座った。
今日は、その楽しみまで、急いで受け取らなくていい。
先にもらった一足で最後まで行けた足を、今夜は、ちゃんと床へ休めた。




