風の輪を、一つずつ斬る
【人物のおさらい】
・アルト:迷宮の踏破報酬を前払いで受け取れる探索者。神剣ルクシアと守護環を使う。
・リゼ:鑑定と地図を仕事にする同行者。左掌を療養しながら、自分の地図帳を作りたいと願う。
階段の先を、今日こそ曲がりたい。
朝食を食べながらそう言うと、宿の女主人は、俺の皿へ目を落とした。
「その前に、そっちの端。まだ肉が残ってる」
俺はパンの陰へあった最後の一切れを見つけ、頷いた。
「はい。こっちは、残しません」
「昨日も言ってたね。塔の石まで、皿へ入れて帰って来ないでよ」
俺は笑い、肉を口へ運んだ。
前の晩に、一泊朝食付きの二銀と、夕食四十銅を払っている。今朝、同じ朝食代をもう一度出す必要はない。
携帯食へ四十銅だけ新しく払うと、俺の財布は五十二銀六十八銅になった。
前の日の五十五銀四十八銅から、二銀八十銅が減っている。共同の一銅は、別の袋へ残したままだ。
寝台も肉も、神剣が勝手に払ってくれる物ではない。けれど、その二つをちゃんと買って、また塔へ行けるのは、かなり嬉しかった。
宿を出る前に、俺はリゼさんへ声を掛けた。
彼女は右手で鞄の紐を整え、左掌を使わずに持ち直していた。
「今日は、先に部屋へ行きます。アルトさんの、帰りの線を空けておきますね」
「はい。階段の曲がり角から、持って帰ります」
「それと、今日は私の方に、一つ持って行く物があるので」
彼女は小さい包みを見せたが、すぐ鞄へ戻した。
「帰ってからです」
俺は頷いた。
中を当てて楽しむより、帰ってから開けてもらう方を、今は楽しみにしたかった。
*
一時間ほど歩くと、塔の影が道へ掛かっていた。
入口係は俺の顔を見て、昨日の控えを開いた。
「階段の折返しから先ですね。昨日お聞きした範囲は、こちらまでです」
紺の袖留めをした手が、紙の点を指す。
「はい。戻る時、階段がどちらへ見えるかも、描いてきます」
「上へある調査の荷は、同じ場所とは限りません。人のいる所へ、欠片を落とさないようお願いします」
俺は頷いた。
昨日、下の像を止めたから、上の人たちの一日まで全部分かったわけではない。
核碑には、蒼天の階塔、未踏破。前受け一件。
新しい靴をもう一足受け取り直すのではなく、手元にある力で、まだ歩いていない所へ行く。
俺は神剣ルクシアの留めを確かめ、下の通路へ入った。
折れた渡りの向こうは、昨日と同じ場所にあった。
石翼の守護獣は動かず、奥の扉も開いたまま。
だからといって、その先まで全部同じだとは思わない。先に下りる床を見てから、長靴で空へ三歩を置いた。
乾いた石へ接地する。
剣を抜く前に、俺は足首を一度動かした。
まだ、重い疲れはない。
昨日止めた像は、台の脇へ傾いていた。
落ちた腕を跨がず、見えている空いた所を回る。細窓の白い光が、階段の最初の段へ入っている。
俺はそこまで行き、昨日の図を出した。
入口が見える最後の点。
今日は、その点へ止まるためでなく、先へ進むために持ってきた。
*
折返しを曲がった瞬間、扉が見えなくなった。
当たり前のことなのに、背中の方が少し広くなったように感じる。
今まで見えていた物が、もう見えない。
俺は一度戻り、段の縁と、壁の欠けを見た。戻って同じ点へ来れば、扉がもう一度見える。
それを紙へ短く残し、また上がる。
二度目は、先へある風の音が聞こえた。
上の通路には、窓が並んでいなかった。
壁の低い所へ、細長い口がある。そこから吹く空気が、床の砂を一方向へ押していた。
奥では、丸い影が二つ、ゆっくり回っている。
盾ほどの大きさの石の輪だった。
輪の外側に、短い翼のような板が幾つも付いている。床へ足を置かず、送風の口の近くで、斜めに浮いていた。
俺が一歩出ると、手前の輪が向きを変えた。
ただ風に流される物ではない。
外側の刃が、こちらへ正面を向いた。
俺は剣を抜き、階段から少し離れた床へ立った。
後ろへ下がりすぎれば、段の端へ踵が来る。前へ出すぎれば、二つの輪の間へ入る。
神剣の届く所へ、自分が立つ場所を一つ作る。
手前の輪が、床の砂を巻き上げて近づいた。
速い。
俺は最初から刃を振らず、横へ身体をずらした。
石の輪が、肩の少し先を通る。
風が頬へ当たり、外套の端が遅れて引かれた。
後ろの壁へぶつかると思った輪は、途中で向きを変え、風の口の方へ戻っていく。
外したら壊れてくれる相手ではなかった。
*
俺は二つ目を見た。
奥の輪は、手前と同時には飛んで来ない。高い所で、こちらの動く側へ少しずつ寄っている。
両方を一度に斬ろうとすれば、先にこちらの立つ床がなくなる。
俺は、壁の送風口と、輪が戻る場所を見比べた。
風そのものを斬ることはできない。
だが、風を受ける石の板は、そこへある。
神剣の光刃を放てば、向こうの壁まで届くかもしれない。それは、見えない壁の向こうに人の荷があるかもしれない場所で、今選びたい斬り方ではなかった。
俺は通常の刃を構え、手前の輪が戻るのを待った。
もう一度、輪が動く。
今度は低い。
俺の足を払う高さへ、薄い石が回りながら来た。
その上へ、長靴で一歩を置く。
床から離れた俺を追い、輪の向きも上がりかけた。
二歩目で、俺は横へずれた。
回っている外側の板を、全部まとめて断ち切るのではない。風へ向いた一枚の根元へ、神剣を届かせる。
最初の一振りが、硬い手応えを返した。
板が一枚、輪から外れる。
俺は三歩目を、階段と反対の広い床へ向けた。
靴底の支えが消える前に、下りる場所を決めていた。
両足が石を受け、俺は膝を曲げる。
背中で、輪の回る音が乱れた。
止まってはいない。
だが、風を受ける板が欠けた輪は、さっきと同じ高さへ戻れなくなった。
片側へ傾き、床の砂を大きく巻き上げる。
二つ目の輪が、俺の着地した方へ寄って来た。
俺はすぐ飛び直さず、床を走って、最初の輪と、奥の輪を同じ正面へ置いた。
足で動ける分を、全部、空の三歩へ頼らない。
手前の輪が低く跳ね、中央の光る継ぎ目をこちらへ向けた。
俺は床から、二度目の通常斬撃を入れた。
刃が継ぎ目を割り、石の輪が、斜めに崩れる。
欠片は階段の方へ飛ばさず、壁際の床へ落ちた。
*
一体目が止まった時、二体目は既に近くにいた。
俺は剣を抜いたまま、顔を上げた。
高い輪は、こちらの頭の上から下りてくる。
さっき飛んだ高さを、相手も見たらしい。俺が空へ逃げるつもりなら、その先を塞ぐ位置だった。
都合よく、同じ低い突進を繰り返してはくれない。
けれど、俺も、最初の輪と同じ側へ飛ぶ必要はなかった。
俺は左へ足を出し、輪が傾くのを見て、身体を低くした。
風が髪を持ち上げる。
床にある欠片が、靴へ当たった。
踏み抜かずに避け、横の空いた石へ足を置く。その一歩が遅ければ、空へ上がる前に、輪の下へ入っていたかもしれない。
俺はそこで、長靴の一歩目を使った。
輪の真上へではなく、その脇へ。
二歩目で、壁の方を向き直す。
石の輪は、こちらへ回った。外側の板が、風の口へ向けて大きく開く。
その内側に、最初の一体で見た中央の継ぎ目があった。
三歩目を、床へ下りる向きへ置いた。
神剣を、短く振るう。
今日、三度目の通常斬撃が、輪の中心を横切った。
板だけではなく、回る身体の芯が割れる。
俺は剣を引き、見ていた床へ滑り下りた。
向こうで、石の輪が落ちた。
空中に四歩目を足して、その落ちる物を追い掛けることはしなかった。
床へ触れた瞬間、足首へ重さが来た。
俺はそのまま一歩下がり、剣先を下ろしすぎないよう持った。
二つの輪は、もう回らない。
だが、壁の口から吹く風は残っていた。
勝ったから、その場の全部が止まったわけではない。欠片が動く方を見てから、俺はようやく息を吐いた。
「斬れた」
声にすると、掌の熱さが遅れて分かった。
神剣は、今日も強い。
その強い刃を、届く所へ自分で運べたことが、どうしようもなく嬉しかった。
*
守護環には触れていない。
光刃も使わず、魔力は八十のままだった。
けれど、魔力が減っていないことと、身体が疲れていないことは違う。
俺は壁の口から離れた床へ座り、足を伸ばさずに休んだ。
傷はない。外套の端に石の粉が増えただけ。
水を飲み、今通った所を紙へ残す。
階段を曲がると、入口の扉が見えなくなる。
その先で、低い風の口が並ぶ。
二体の輪が動いていた場所は、丸を二つ。止めたあとも風が吹く、と横へ書いた。
全部を敵の部屋、と一つの四角へしてしまえば、帰る時に床の欠片を忘れそうだった。
奥へ進むと、通路が少し広くなった。
高い窓が一つあり、その下から、外の空が細く見える。
塔の最上部ではない。向こうには、まだ上がる段が続いていた。
俺は次の段へ走らず、窓の手前から後ろを振り返った。
今度は、折返しの上の角が見える。
その角まで戻れば、下りる階段が見える。
入口が見えない所にも、帰る線を繋げられる。
リゼさんへ、今日はそこを持って帰れると思った。
窓の下には、石で作った小さい棚があった。
俺は、宝箱だと思って手を出さず、上から見た。中には、埃と、古い留めの跡があるだけだった。
都合よく、新しい金貨や、次の報酬が一つ増える場所ではない。
それでも、ここへ足を置いて、自分の目で空を見たことまで、空振りへ数える必要はなかった。
俺は棚の端と窓の向きを描き、今日の点をそこで止めた。
次は、この先へ続く段から。
*
帰りは、止まった輪の間を、床から歩いた。
最初の一体の割れた板と、二体目の芯が、違う所へ落ちている。
ここでも長靴を使えば、すぐ越えられるかもしれない。だが、下りる先へ足を置きたい時に、今の足首がどのくらい重いかを確かめておきたかった。
階段の角が見えた。
曲がる。
入口の扉が、もう一度現れた。
リゼさんへ伝えたい線が、紙の中だけでなく、自分の目の前でも閉じた。
折れた渡りでは、長靴を使った。
行きと同じ床から、空へ三歩。その先で、入口側の石へ接地する。
今日の使用は、渡りの往路、一体目、二体目、渡りの復路の四回。それぞれ三歩で、間に必ず床へ下りている。
十二歩を、続けて空へ置ける靴に変わったわけではない。
俺は少し休み、入口へ戻った。
係へ見せる紙に、窓の点までを描く。
「石の輪を二体。階段の折返しの先で、窓の下までですね」
「はい。その先の段は、まだ上がっていません。風は、輪が止まっても残っています」
係は頷き、別の欄へその一行を移した。
「荷を通す方にも、欠片と風を伝えます。窓より先まで通ったとは、書きません」
俺は確認して、礼を言った。
階塔は未踏破。前受けは一件。
石の欠片を売る荷にせず、現金の報酬も受け取っていない。神剣と環と長靴は、そのまま俺の手元へある。
今日の新しい物は、荷袋より、紙の中へ多く入っていた。
*
塔の外で携帯食を食べ、町へ一時間ほど歩いた。
帰りの坂で、空へ三歩を置いて楽をしたいと思ったが、今日は、普通に歩く足の重さも覚えていたかった。
痛むのではない。使った、と分かる疲れだ。
部屋の戸口へ着く頃には、机へ座るのが、戦いに勝った時と同じくらい楽しみになっていた。
リゼさんは、俺の靴を見るなり、布を指した。
「今日は、粉が多そうです」
「はい。輪が二つ、割れました」
「二つ。先に、靴。そのあと、聞かせてください」
彼女は笑い、机の紙を片付けた。
俺は靴を拭き、鞄の底へ付いた砂も落とした。神剣を鞘へ収めたまま、座る場所から離して置く。
部屋で何かを斬る用事はない。
机へ図を広げると、彼女は最初に、入口の見えなくなる所を訊いた。
俺は折返しの線へ指を置く。
「ここで消えて、その先の窓からは、今度、ここの角が見えました」
「では、戻る時、角を一つ挟むんですね」
「はい。戻れました。ちゃんと、扉が見えた」
リゼさんは頷き、右手で線を足した。
彼女の左掌は、今日も布の中にある。塔へ一緒に来たことにはならない。
それでも、俺が帰って来た所を、彼女は自分の図へ繋げられる。
描き終えると、彼女は朝の包みを出した。
「今日は、私の分から。二人で食べる方です」
菓子だった。
俺が昨日まで買った物と違い、薄い生地が二枚重なっている。
「受け取って、いいですか」
「そのために、持ってきました。私の買い物なので、アルトさんの残りからは引かないでくださいね」
俺は笑い、ありがとうございます、と言った。
彼女の財布の総額は知らない。自分の五十二銀六十八銅は変わらず、共同の一銅も別のままだ。
けれど、もらった嬉しさの分だけなら、今日は、確かに増えていた。
紙をしまい、机の端を空ける。
一口齧ると、香ばしい音がした。
「塔の音より?」
リゼさんが訊く。
「今日も、こっちです」
俺が答えると、彼女は声を出して笑った。
空を踏み、風の輪を斬って、帰ってきた机で菓子を食べる。
強くなってしたかったことの中へ、いつからか、帰って話す時間も入っている。
俺は最後の一口を残したまま、次の段の図を目で追った。
また、あの角を曲がりたい。
次も、曲がった先の話を、ここへ持って帰りたかった。




