階段の先に、まだ空がある
【人物のおさらい】
・アルト:迷宮の踏破報酬を前払いで受け取れる探索者。神剣ルクシアと守護環を使う。
・リゼ:鑑定と地図を仕事にする同行者。左掌を療養しながら、自分の地図帳を作りたいと願う。
俺が描いた回廊は、実物より、少し広かった。
作業部屋の机で、リゼさんが二つの紙を見比べている。右手のペンは、俺の線の途中で止まっていた。
「ここ、荷を置いた場所と、剣を振った場所が、隣に見えます」
「間に、欠けた渡りが。俺、そこを、短く描きすぎました」
「では、足跡の前へ、もう少し空白をください」
俺は頷き、自分の紙を引いた。
空を三歩、進んで剣を届かせた。言葉なら、それだけで嬉しくなれる。だが、リゼさんが欲しいのは、剣が当たった時だけの絵ではなかった。
どこから出て、何の上を通り、どこへ下りたか。
机へ戻った俺は、それを、自分が歩いた足の方から描き直す。
彼女の左掌には、まだ布がある。
紙を押さえようとして、その手を止めたのに気づき、俺は自分の紙の端へ重しを置いた。
「これで、見えますか」
「はい。私の線の方も、こちらを、少し」
頼まれた所へ重しを動かす。
手伝う場所を、自分で全部決めずに済むようになったことが、少し嬉しかった。
リゼさんは、扉の奥へ、細い線を引きかけてやめた。
「奥は、まだ、見えた所だけでしたね」
「はい。入っていません。次は、あそこから」
彼女は実際に歩いた線の先へ、小さい点を置いた。
全部の空白を、今の俺の強さで埋めた図にはならなかった。
*
図を片付けてから、俺は包みを机へ出した。
塔から戻ったあと、通りの店で買ってきた菓子だった。二人分で二十銅。
五十八銀四十八銅から二十銅を引き、残り五十八銀二十八銅。共同の一銅は、別の袋にある。
「さっき、買ってきた方ですか」
リゼさんが訊いた。
「はい。紙をしまってから、食べる方の約束を、今日、使いたくて」
彼女は自分のノートを閉じた。それから、俺へ顔を向ける。
「私の分も?」
「今日は、俺が。次も、必ず二人分買ってくる約束ではなくて」
「では、今日の分を、ありがとうございます。次に私が見つけたら、私からも持ってきたいです」
その返事で、俺は、そういう続きがあるのか、と思った。
ただ机で菓子を食べたいだけだった、と、気楽に言ってしまうのも違う。けれど、何と呼べばよいかを決めるより先に、次は自分も持ってきたい、と言ってもらえたことが、かなり嬉しかった。
包みを開くと、焼けた砂糖の匂いがした。
紙の上へ直接は置かず、空けた机の端で食べる。貸主さんと決めた通り、屑を集める包みも、手元へ残した。
リゼさんは右手で一つ取り、端を少し齧った。
「これ、薄いのに、思ったより音がします」
「塔の音より、好きです」
「今日、その二つを比べるのは、アルトさんくらいかも」
彼女が笑った。
俺も一つ齧る。甘くて、少し焦げた味がした。強い剣と新しい靴を使って帰った部屋で、今は、何も戦わずにそれを食べている。
前の人生で後回しにした物を、一度に全部取り戻す日ではない。
それでも、机の端を空けた甲斐はあった。
「明日も、塔へ?」
リゼさんが訊いた。
「はい。あの扉の、向こうへ入りたいです」
「私は、明日も、こちらで。左手を、まだ休ませます」
「帰ってから、どこまで話せばいいか、教えてください」
彼女は、しまったノートをすぐ開かずに考えた。
「曲がった時、何が見えなくなったか。それを、覚えて帰ってきてもらえますか」
「見えた物ではなくて?」
「見えた物も、聞きます。でも、曲がって、入口が見えなくなった所を、帰りの図へ入れたいです」
俺は頷いた。
強くなったら、そのまま走り抜けたくなる曲がり角へ、明日は、一度、顔を戻す理由ができた。
*
その夜の宿と朝食に二銀、夕食に四十銅を払った。
残り五十五銀八十八銅。
作業部屋には寝台がなく、火も使えない。机で菓子を食べられたことと、宿で眠り、温かい夕食を食べることを、同じ支払いへまとめない。
リゼさんは自分の分を払い、別の部屋へ上がった。彼女の財布の総額を、俺の残りへ足すことはしなかった。
翌朝、携帯食の四十銅だけを新しく払い、俺の所持金は五十五銀四十八銅になった。
朝食は、昨夜の宿代に入っている。
神剣ルクシア、守護環、風渡りの長靴。荷の留めと、昨日の図を確かめ、俺は町を出た。
一時間ほど歩いた先の塔で、入口係は控えを見た。
「今日は、扉の内側ですね。調査の荷は、上層側へ動いています。下層を一緒に見る方は、今はつきません」
「分かりました。俺一人で、帰る所を確かめながら進みます」
セシルさんは、昨日と同じ所にいつもいるとは限らない、と言っていた。
俺は、盾の見えない通路を、自分が見落としていい空白にはしなかった。
核碑には、前受け一件。蒼天の階塔、未踏破。
昨日受け取った力を、また受け取り直す場所ではない。俺は表示を確かめ、低い階段へ向かった。
*
折れた渡りの手前で、俺は足を止めた。
昨日の石翼の守護獣は、もう動かない。だが、そのことを理由に、梁の上を見ずに通る気にはならなかった。
荷のあった場所は空いている。セシルさんの立っていた所にも、今日は誰もいない。
俺は奥の床と、開いた扉の隙間を見た。
風渡りの長靴で三歩。
高く上がりすぎず、昨日確かめた床へ滑り下りる。
靴底が石を受け、膝へ重さが戻った。
剣は、まだ抜いていない。
扉の内側は、回廊より明るかった。
天井に近い細窓から、白い光が斜めに入っている。中央に丸い台、その奥へ、上がる階段が見えた。
階段の下には、石の像が立っていた。
人の形に近いが、顔の所に目も口もない。肩の横へ、長い石の腕が二つ。足元にある円い溝へ沿って、身体の向きを変えられる形だった。
俺は入口の縁で、先に後ろを振り返った。
扉の隙間。渡りの先。戻れる床。
ここでは、まだ入口側の光が見えている。
それを紙へ短く残してから、俺は神剣を抜いた。
像が、向きを変えた。
石と石が擦れる低い音が、床から上がる。
俺へ近づくために歩いたのではない。台の前を塞ぐように、長い腕の一本を、横へ向けた。
俺は、先へ出しかけた足を戻した。
階段へ向かうなら、あの台の脇を通る。
正面から腕を受けて剣を振るう道しかないように、わざと狭く見える部屋だった。
*
神剣は強い。
だからといって、石の床も壁も、全部斬って進んでよい塔ではない。
この階の上へも、調査の人が行っている。俺の見えていない所で、誰かが床を踏む。
俺は入口側へ残り、像の動く幅を見た。
こちらが台へ近づくと、腕が低く回る。少し離れると、像は階段の前へ向き直った。
部屋の外まで追ってくる動きは、今は見えない。
俺は、光刃を放つ方へ手を変えなかった。
像の横には、石の柱が二つある。
低い腕を越えても、その先へ下りる床を見なければ、別の柱へ身体をぶつける。
俺は、台の右側から、階段の手前の広い所へ目を移した。
長靴の三歩を、そこへ置く。
四歩目を作らずに下りる先が、見えている。
昨日は、飛ぶ獣へ剣を届けた。今日は、床の上の腕に、自分が下りてくるのを待たせない。
俺が動くと、像の腕も回り始めた。
低い音が、石の部屋へ広がる。
一歩目。
空気が靴底を受け、石の腕が、その下を通った。
二歩目。
俺は階段へ真っ直ぐ飛ぼうとせず、台の外へ身体を向けた。
像の肩が、上へ動く。
もう一本の腕が、俺のいる高さへ上がってきた。
床を離れれば相手が何もできなくなる、という都合のよい像ではなかった。
三歩目を出す前に、俺は神剣を構え直した。上がってくる腕から離れる方へ足を置き、空中の最後の一歩で、身体の向きを変える。
石の腕を、刃で受け止めるためではない。
腕が通る先から外れ、露わになった肩へ、普通の一振りを届かせた。
硬い物が割れる手応えが、掌へ返る。
俺の身体は、そのまま、見ていた床へ滑った。
三歩目の先で、足場を追加しようとはしなかった。
膝が石の重さを受け、外套の端が遅れて床へ触れる。
背中で、大きな石の腕が落ちた。
*
像は、まだ止まっていなかった。
片側の肩を失っても、円い溝の中で、残った腕をこちらへ向ける。
俺は、すぐ階段を上がらず、入口までの道を見た。
落ちた腕は、台の脇にある。通る所を全部塞いではいない。
像の動きを見ながら、俺は床の上を回った。
神剣へ力を借りても、俺が部屋の全部を一度に見られるようになるわけではない。足の下にある石の欠片を、先に避ける。
像の残った腕が動き、台の外の空気を押した。
俺は、その腕の届かない方へ、もう一度、身体を寄せた。
次の通常斬撃で、胸の前を横切る細い継ぎ目が割れた。
中にあった青白い光が、一瞬強くなり、それから消える。
石の身体が傾いた。
俺は剣を引き、倒れる側から離れた。
部屋の中が、静かになった。
機械の音が止まると、細窓の向こうから風が聞こえる。
俺は、すぐ勝ったと叫ばなかった。肩と腕を見て、足首を動かし、戻る道へ新しい影がないかを確かめる。
傷はない。
長靴を使った足へ、昨日と似た疲れがある。
それでも、怖くて固くなっていた胸の奥から、嬉しさが遅れて上がってきた。
「越えられた」
小さい声が、石の部屋へ落ちた。
力をもらっただけで通れたのではない。
昨日歩いた三歩の先を、今日は別の場所へ置き、自分の剣を届かせられた。
*
像が止まったあと、階段の脇の小さな石蓋が開いた。
俺は近づく前に、中を離れた所から見た。
上へ続く段の一つに、光が灯っている。
扉の内側へ入った時には暗かった所だ。
ここを守っていた像を止めることで、次の上がり口が示されたらしい。
それでも、塔の最上部へ着いた表示ではなかった。
俺は、階段の最初の数段へ足を載せた。
上の折返しから、別の光が入っている。
入口の扉は、振り向けばまだ見える。もう少し曲がれば、見えなくなるだろう。
リゼさんの頼みを思い出し、俺はそこで紙を出した。
どこまで行ったか。どこから先は見ただけか。
その境へ、線を一本。
今の足首で、上の階を一つ、全部歩いて戻る時間を残せるか。俺は、自分の息と、入口で聞いた調査の荷の予定を思い返した。
今日は、この上がり口までを持って帰る。
次も、そこから始められるようにしたかった。
階段を下り、止まった像の脇を通った。
落ちた腕を、売り物として鞄へ入れることはしない。部屋へ残る物と、自分が持ち帰る紙を分けた。
折れた渡りの前まで戻り、長靴で、もう一度三歩を使った。
戦った部屋の床へ接地したあとだから、空中で最初の三歩を増やしたわけではない。
入口側の石へ下りると、今度ははっきり、両足が疲れていた。
俺はそこで少し休み、携帯食を塔の外で食べるための時間を残した。
*
入口係は、帰着の紙を受け取り、俺の図へ目を落とした。
「開いた扉の中の像を一体。奥の階段の折返しは、まだ越えていないのですね」
「はい。階段の始まりと、入口が見える所までです」
「では、下層の記録へ加えます。上層の調査が、そこから全て通った扱いにはしません」
係は一行を書き、俺へ確認するよう向けた。
前受けの表示は、一件のまま。
階塔は、まだ未踏破だった。
剣と環と長靴は俺の手元へ残り、現金の攻略報酬は受け取っていない。
今日使ったのは通常斬撃二回。光刃と守護環は使わず、魔力は八十のまま。
長靴は、渡り、戦闘、帰りの三回、それぞれ三歩と滑空。全部の間に、石の床へ接地している。
外へ出ると、携帯食の肉が、思ったより硬かった。
俺はゆっくり噛み、紙を膝へ置いた。
神剣を持っていても、食事の包みは、自分の手で開く。
そんな当たり前のことをしている時に、さっきの一振りの手応えが、ようやく、自分がしたこととして身体へ戻ってきた。
町へ戻る一時間を、靴の力で飛ばさず歩く。
見上げた空は広かった。今日行けた三歩の外側にも、まだ自分で選んで進める道がある。
*
作業部屋へ戻ると、リゼさんは窓の近くで紙を乾かしていた。
右手で一枚ずつ、空いた所へ移している。
「おかえりなさい。今日は、曲がれましたか」
「入れました。像が一体いて、その向こうに階段が」
言い始めた俺は、入口で一度、足を止めた。
「先に、靴を拭きます」
彼女の口元が、少し上がる。
「はい。今日は、こちらから言う前に」
俺は布を取り、昨日より多い石の粉を落とした。
机へ図を出すと、彼女は重しを置く場所を指した。
俺がそこを押さえ、彼女が右手のペンで、扉の向こうへ線を足す。
「ここから、入口が見えなくなる?」
「その先です。今日は、見える所で戻りました。次は、曲がった先の帰り方を見たい」
リゼさんは頷き、その先を、すぐ濃い線へ変えなかった。
「では、この点までは、アルトさんの歩いた所」
紙に、階段が一つ増える。
俺が空で進んだ三歩より、ずっと小さい絵だった。それなのに、帰って来て彼女へ見せると、塔の奥へ行ったことが、さっきより確かになる。
「今日も、強かった話を、持って帰れました」
俺が言うと、彼女は顔を上げた。
「はい。それと、戻った所の話も」
俺は頷いた。
机の端は、昨日の菓子の屑を片付けたまま、空いている。
まだ見ぬ上の階へ行きたい気持ちと、この机へ次の図を持って帰りたい気持ちは、今日は、同じ向きを向いていた。




