三歩で、剣の届く場所へ
【人物のおさらい】
・アルト:迷宮の踏破報酬を前払いで受け取れる探索者。神剣ルクシアと守護環を使う。
・リゼ:鑑定と地図を仕事にする同行者。左掌を療養しながら、自分の地図帳を作りたいと願う。
新しい長靴を履いたまま宿の階段を上がろうとして、俺は一度、足を止めた。
空へ三歩、出られる靴だ。
だからといって、一段ずつ歩くより早く天井を越えられる部屋ではない。
前の低い試しで得た足裏の感覚を思い出し、普通に手摺へ手を添えた。
「そこで飛んだら、二階の床を直す方が先になるよ」
下から女主人の声がした。
白の混じる黒髪を揺らし、彼女は帳面を示した。
「今夜も泊まるなら、先に。朝付き二銀。夕食は四十銅でいい?」
「はい。お願いします」
俺は階段を下り直した。
六十一銀二十八銅から、二銀四十銅。残り五十八銀八十八銅。
作業部屋を借りても、あちらは寝泊まりする場所ではない。鍵を一つ増やしたことで、今夜の寝台まで要らなくなった顔はできなかった。
リゼさんは自分の宿と食事を払い、俺と違う部屋の鍵を受け取った。
左掌の布は、夕食の間も残っていた。
彼女は右手で匙を持ち、俺の足元へ一度だけ目を向けた。
「明日は、机で見せてください。ここだと、靴と食事、両方へ顔が向いてしまいます」
「俺も。今日は、先に肉の方で」
彼女が笑い、俺も皿へ向いた。
*
翌朝、食事を終えてから、俺たちは作業部屋へ行った。
朝食は昨夜払った宿代に入っている。通りで買った携帯食の四十銅だけを、新しく自分の財布から引いた。
残り五十八銀四十八銅。共同の一銅は、別の袋にある。
塔へ行くなら、今日も自分で歩いて行く一時間が要る。昼に戻れると決めつけず、食べる物を先に持った。
貸主さんは、階段の下で窓の留めを見ていた。
灰色の短い髪。茶色の毛織の上着。腰の鍵紐が、振り返る拍子に小さく鳴る。
「荷、増えた?」
俺の足元を見て訊かれ、笑って頷いた。
「靴です。今日は、リゼさんが部屋で図を描いて、俺は、そのあと塔へ出掛けます」
「机で跳ねる方じゃないならいい」
リゼさんの肩が、小さく揺れた。
俺は、もう一つ、と声を掛けた。
「紙のない方で、包みのお菓子を食べるのは、いいですか。火は使わず、屑も持って帰ります」
貸主さんは、鍵を指へ掛けたまま考えた。
「鍋で煮るとか、匂いを作る方はなし。包みから食べるなら、紙をしまってから。甘い屑を床へ置いて帰らないで。あそこ、前は製本してたからね」
「はい。食べる所を、机の端へ分けます」
「分けるなら、引出しの上じゃなくて。開け閉めで落とすから」
俺は頷いた。
借りた部屋へ好きな物を持ち込めることと、建物の全部を自分の暮らしへ変えられることは違う。
けれど、菓子を食べる場所を相談できたのは、かなり嬉しかった。
部屋へ入ると、リゼさんは左手を使わずに鞄を椅子へ下ろした。
俺が机へ長靴を載せる前に、彼女が首を振る。
「そのまま、紙の上へは載せないで。昨日の土が」
「あ、はい。先に、拭きます」
俺は布を広げ、靴底を拭いた。
隣で、彼女が紙へ三つの足跡を描く。
右手の線は速い。だが、左掌を無意識に台へ付こうとして、途中で戻した。
俺は長靴を彼女の前へ押しつけず、見える位置に立てた。
「ここが光りました。空へ出た時だけ」
「三つ目のあと、同じ高さへ、もう一つ足場が?」
「ないです。俺が四歩目を踏みに行かなければ、滑るように下りる。その先に床がある所で、試しました」
彼女は四つ目の足跡を描かず、三つの先へ、下りる矢印を置いた。
「じゃあ、帰る所の絵も、同じ紙へ」
俺は頷き、昨日の平場の端を描いた。
靴の力の絵が、出発点だけで終わらなくなった。
*
リゼさんは、今日は部屋に残ると決めていた。
塔までの道を往復しなくても、昨日の資料と、自分の地図帳へできる仕事がある。
「入口から、何が見えたか。帰ったら、そこから聞きたいです」
彼女が言った。
「奥で何を倒したか、だけでなく?」
「それも、聞きたい。でも、私の紙は、あなたが帰って来る方から始めたい」
少し笑った声だった。
俺は鞄の留めを閉じ、持ち物を確かめた。
神剣ルクシア。守護環。風渡りの長靴。携帯食。昨日の写しと、今日の小さな控え。
前受けは、蒼天の階塔の一件。塔を踏破しない限り、次の枠は開かない。
剣と環は、前の迷宮の精算を終えたまま、ここに残っている。
「行ってきます」
俺が言うと、リゼさんは紙から顔を上げた。
「いってらっしゃい。今日は、階段の天井、ちゃんと見て」
「そこは、もう、二人に言われました」
彼女が笑った。
靴をもらったばかりの自分を笑われるのは、悪い気分ではなかった。帰ってから、ちゃんと使えた方の話もしたくなった。
*
一時間ほど歩いた先で、塔は昨日より低く見えた。
実際に低くなったわけではない。昨日は上ばかり見ていた。今日は入口へ続く道と、その先の低い回廊へも、目が向く。
紺の袖留めをした入口係へ、今日は奥の下層を見に来たと伝えた。
「昨日の前受け一件は、そのままですね」
「はい。まだ、踏破していません」
「調査班が低い回廊の手前にいます。そこへ着いたら、先に声を掛けてください。荷を運んでいる所を、別の探索路としないように」
俺は頷き、示された階段へ向かった。
核碑は、今日は通り過ぎた。
もう受け取った靴を、また選ぶために来たのではない。
石の階段の先で、セシルさんが盾を持っていた。
淡い金髪が、昨日より少し高い光を受けている。青灰色の目が俺の足元へ行き、顔へ戻った。
「今日は、試しではなく?」
「下の通路へ。使える所があれば、靴で進んでみたいです」
彼女は回廊の奥を指した。
「私たちは、あの折れた渡りの手前まで。荷を置く場所を確かめています。奥に、翼のある守護獣が一体。今、姿が見えません」
俺は、まず、床を見た。
調査の荷は壁際へまとめられている。通り道を残して置かれ、誰かが慌てて逃げ捨てた形ではなかった。
「俺が奥へ行くなら、こちらへ飛ばせない方がいいですね」
「はい。着地する場所も、そこへ重ならないように。私が見ているのは、この通路と荷の方です」
俺は頷いた。
彼女は、俺について塔の奥まで来ると約束したわけではない。それでも、同じ場所で何を守っているかが分かれば、俺も、自分の進み方を決められる。
*
回廊の先には、石が欠けた渡りがあった。
遠くへ跳べれば越えられる、というだけの場所ではない。向こう側へ下りたあと、頭の上には、張り出した梁がある。
俺は、長靴の三歩を、頭の中でそこへ置いてみた。
高く上がるほど、よい道具ではない。
昨日、平場で覚えた低い足場の感触が、ここでは役に立ちそうだった。
ただ、今は向こうの床を見切れていない。
俺は手前の石へ寄り、梁の下を見た。
白い物が、動いた。
翼を持った、石の獣だった。
鳥に似ているが、羽の先が薄い石板のように重なっている。梁の陰から離れると、風を打つ低い音がした。
「来る」
声が出る。
セシルさんは盾を上げ、荷のある方から身体をずらした。
俺も神剣へ手を掛ける。
相手は俺の胸へ真っ直ぐ来ず、回廊の高い側を回った。剣を持つ人間の正面へ、自分から下りてくれる獣ではない。
俺は鞘を引き、抜いた刃を低く保った。
光刃なら、梁まで巻き込むかもしれない。
ここには、俺がまだ歩いていない床と、彼女が守っている通路がある。
翼の影が、セシルさんの上を横切った。
彼女は追い掛けず、盾を構えたまま、こちらへ短く言う。
「下りるなら、右の床。私の後ろではなく!」
俺は、その場所を見た。
欠けた渡りの向こう、右に残った幅のある石の床。荷は手前で、彼女が守る通路とは、欠け目一つを挟んでいた。俺が下りる場所を、彼女も見ている。
俺は頷き、空へ足を出した。
*
一歩目で、足の裏が、何もない場所を受けた。
昨日の平場と同じ感触だった。
だが、見える物は、全然違う。
下へ落ちる床の切れ目。横へ伸びる梁。空を回った白い翼。
二歩目を出す時、俺は高くなろうとせず、翼が通る側へ身体を向けた。
剣を届かせるために、獣が低く来るのを待つ必要がない。
三歩目。
目の前を、石の翼が横切った。
俺は、通常の刃を振った。
硬い手応えが、腕へ返る。
光ではなく、自分の手で持った神剣が、翼の付け根を割った。
白い獣が傾き、俺の前を落ちていく。
それを追って、もう一歩を踏み出しかけた。
足場は、ない。
俺は膝を引き、下りる方へ視線を戻した。
風が外套の下へ入り、身体を運ぶ。
セシルさんの盾が、視界の端で上がった。
割れた翼の一片が、彼女の守る通路へ飛んだ。彼女はそれを受け、荷のない方へ落とす。
俺は、彼女が示した右の床へ下りた。
靴底が石へ触れ、膝が重さを受ける。
剣を床へ当てずに済んだ。
向こう側で、守護獣の胴が石へ落ち、動きを止めた。
俺は、自分の足を見た。
地面に戻っている。
新しい三歩を使える状態へ戻っても、今すぐまた跳ぶ理由はなかった。
「無事です」
顔を上げて言うと、セシルさんが息を吐いた。
「こちらも。今の破片は、向こうに落ちました」
俺は盾へ目を向けた。
「ありがとうございました」
「私の通路でもありますから」
彼女は答え、それから、少しだけ笑った。
「三歩目に、剣まで入るんですね。昨日は、見ていませんでした」
「俺も、今日、初めて」
正直に答えた。
足裏に、まだ空の硬さが残っている。
見上げるだけだった高さへ、剣を持った自分が行けた。
胸の中へ、遅れて、強い喜びが来た。
*
倒れた獣へ近づく前に、二人は梁の上を見た。
新しい影は動いていない。ただ、それで塔の上全部に何もいないことにはならない。
セシルさんは荷のそばへ戻り、俺は渡りの向こうを覗いた。
入口側の見通しを遮っていた石の扉が、守護獣の停止とともに少し開いていた。
奥には、もう一つ、低い回廊が見える。
俺は、見えた入口と、歩いて入った所を、自分の紙で分けた。
今日はここから最上部まで一人で走る日にはしない。
「扉の内側、今は、どこまで行きましたか」
渡りの手前へ戻って来たセシルさんが、こちらへ声を掛けた。
「入口から見ただけです。梁の影の奥は、分かりません」
「分かりました。調査班へ渡すのも、その範囲で。あの扉が開いたのは、こちらの通り道にも助かります」
彼女は自分の紙へ、一行を足した。
俺が守護獣を倒したことが、全部、王国の隊の攻略へ吸い込まれるわけではない。彼女が荷と通路を守ったことも、俺の剣の手柄へまとめられない。
同じ場所に、違う仕事が一度、噛み合った。
次に組む時の話をできる相手が、昨日より少し具体的になった気がした。
帰りに、俺はもう一度だけ長靴を使った。
欠けた渡りの上へ、三歩。
今度は剣を鞘へ納めたまま、見えている入口側の床へ滑り下りる。
接地してから使えた三歩であって、最初の飛び方の続きを空で増やしたのではない。
足首に、少し疲れがあった。
痛みはなく、新しい傷もない。だからといって、疲れまで無い靴にはしない。
セシルさんへそれを伝えると、彼女は頷いた。
「次に来る時、荷の出る予定を入口で聞いてください。私も、上へ行く方の護衛があります。いつも、今日の場所にいるとは限りません」
「はい。俺も、一人で見た所と、皆で行ける道を、分けて持ってきます」
彼女は盾の帯を確かめ、通路へ戻った。
*
入口へ帰着した時、核碑の表示は変わっていなかった。
前受け一件。蒼天の階塔、未踏破。
俺は入口係へ、下層の翼の守護獣一体と、開いた扉の場所を伝えた。
係は紙と俺の控えを見比べ、帰着を記した。
「塔の精算ではなく、下層の通路の報告ですね」
「はい。奥は、まだです」
神剣も、守護環も、長靴も、自分の所へ残っている。
今日の戦いは通常の斬撃一回。光刃は使わず、魔力は八十のままだ。守護環も起動していない。
長靴は、三歩と滑空を二回。現金の報酬は受け取らず、獣の欠片も、今日の売り物として持ち帰らなかった。
携帯食は塔の外で食べた。
冷たいパンと肉が、思ったより旨かった。食べながら、俺は昨日の三歩を思い出す。
あの時は空へ足を出せたことだけで嬉しかった。
今日は、その足で、剣の届く場所を自分から増やせた。
食べ終えた包みをしまい、町へ歩く一時間を、ちゃんと残して帰った。
*
作業部屋の窓には、午後の光が入っていた。
鍵を開けると、リゼさんが右手のペンを置いて顔を上げた。
「おかえりなさい」
その一言を、俺は少し、入口で聞いた。
自分の借りた部屋へ、自分より先に帰って来ている声がある。
「ただいま。入口の図、持って帰りました」
「では、靴を拭いてから」
「そこ、今日も最初ですね」
彼女が笑い、俺も布を取った。
机へ出した紙には、三つの足跡と、その先の床がある。彼女が朝描いた物と、俺が実際に行った場所が、隣へ並んだ。
「ここで、剣を?」
リゼさんが三つ目を指した。
「はい。今度は、届きました」
彼女の目が少し大きくなり、それから、紙へ戻る。
俺は椅子へ座り、通路と、梁と、セシルさんの盾の位置を順に話した。
三歩ぶんの空は、もう、試すためだけの物ではない。
そこから何を見て、何をして、どこへ戻ったか。
その全部を、一緒に図へしてみたい相手の前へ、今日は、ちゃんと持って帰って来られた。




