三歩ぶんの空を、先にいただきます
【人物のおさらい】
・アルト:迷宮の踏破報酬を前払いで受け取れる探索者。神剣ルクシアと守護環を使う。
・リゼ:鑑定と地図を仕事にする同行者。左掌を療養しながら、自分の地図帳を作りたいと願う。
作業部屋の鍵は、昼飯を食べている間も、袋の中で俺の膝へ当たった。
邪魔なら外せばいい。分かっていても、位置を変えたくなかった。
今朝、借りた机と、二脚の椅子がある。そこへ何を持って帰るかを考えるだけで、いつもの三十五銅の昼が、少し違う味になった。
向かいのリゼさんは、右手で匙を持っている。
栗色の髪の細い編み込みが、頬へ落ちかけ、彼女は首を少し傾けて避けた。左掌の布は、まだ外れていなかった。
「鍵、もう落としてないか確かめました?」
「さっき、二回」
「では、三回目は、食後に」
彼女が笑い、俺も肉を口へ入れた。
神剣を手に入れた時より、何度も袋を触っている気がする。剣は腰へあるのが見える。小さな鍵は、見えない所へ持つ強さだった。
自分の三十五銅を払い、店を出た。
家賃と預りを払ったあとの六十一銀七十一銅から、三十五銅。残り六十一銀三十六銅。
共同の一銅は別だ。リゼさんの昼代も、俺の帳面へ一緒にはしない。
「俺、このあと、階塔の資料を見てきます」
言うと、彼女の目が、一度だけ通りの先へ向いた。
同行したい顔だ、と思った。だが、俺が彼女の身体の予定まで決めていい顔ではなかった。
「私、今日は宿へ戻ります」
リゼさんは自分で言った。
「机を見ただけでも、帰って広げたい物が増えました。今から遠くまで歩いたら、夜、紙を持つのも嫌になりそう」
「分かりました。見るなら、報酬と、入口までの道。今日、奥へ入る予定にはしません」
「はい。靴が手に入ったら、道も飛ばして戻れる、とは思わないでください」
俺は思わず笑った。
まだ候補さえ見ていないのに、もう帰りの心配をされている。
「三歩の靴なら、宿までは、全然足りませんね」
「階段で使って、天井へぶつかる方も、なしです」
彼女の右手が、小さく上を示した。
借りたばかりの部屋の天井を思い浮かべ、俺は素直に頷いた。
*
組合の町窓口では、階塔の案内を、写しにしてもらった。
袖口を留めた係が、代金の欄を示す。
「この紙の写しが八銅です。入口での報酬確認の料金ではありません」
「はい。お願いします」
俺は八銅を払い、紙を受け取った。
残り六十一銀二十八銅。迷宮へ行く前の金は、今日はそこで止めておく。
紙には、町を出てから徒歩でおよそ一時間の道と、入口側の既知の通路が描かれていた。
奥へ続く階段の図は、途中から線が細い。全部が調べ終わった塔へ、観光に行くわけではない。
「王国の調査班が、入口にいます」
係が言った。
「探索者の出入りを一律に止める方ではありませんが、作業している場所があります。着いたら入口係へ確認してください」
「護衛の方も?」
「はい。派遣されています。現地の責任と、あなたの個人探索の責任は別です」
俺は頷いた。
神剣を持っていけば、全員が俺のために道を空ける町ではない。その方が、俺も、自分が見ていない仕事へ突然巻き込まれずに済む。
リゼさんへ伝えるため、派遣されているという一行だけ、紙の端へ残した。
町を出ると、道は緩く上がり始めた。
腰の神剣ルクシアの鞘が、外套の裾へ触れる。守護環は腕にある。
神剣は白鐘の迷宮で、守護環は昨日の鉄牙回廊で、すでに前受けの精算を終えている。次を受け取っても、取り上げられる物ではない。
今、未精算は零件。
空いている枠へ、何を入れるかを選びに行く。
俺はその気持ちを、できるだけ長く味わおうと思った。
それなのに、道の曲がりへ塔の上の方が見えた瞬間、足が、少し速くなった。
*
蒼天の階塔は、思っていたより、空の中へ薄く立っていた。
石の塔が一本、真っ直ぐ生えているだけではない。外へ張り出す足場と、隣へ渡る橋が、高い所で重なって見える。
下から見上げると、途中の一枚が、雲の影へ隠れた。
俺は首の後ろが痛くなるまで見てしまい、入口の人へ呼ばれて、ようやく前へ向き直った。
「見上げる方は、通路の脇へお願いします」
紺の袖留めをした係が、木札を持っている。
「すみません。報酬候補を見に来ました。アルト・レインです」
名と、未精算がないことを確認する。
係は記録へ目を通し、俺の腰へ一度、目を向けた。驚いたように眉が上がったが、そのまま剣の買取の話を始めることはなかった。
「核碑までは、こちら。奥の階段へ進む時は、別に申告してください。右の場所は調査班が荷を出しています」
俺は示された道へ歩いた。
その横で、盾の革帯を締め直している騎士がいた。
淡い金髪を低く結び、紺の上衣へ白銀の軽鎧を重ねている。青灰色の目が、運ぶ箱と、入口の人の流れを交互に見ていた。
「そちらの箱、先に下へ。上へ積むと、次の人が抜けません」
短い声が出る。
指示を受けた人は箱を動かし、彼女も反対側へ手を掛けた。
その仕事を待ってから、俺は会釈した。
「組合で、派遣の方がいると聞きました」
「セシル・グランです。王国の遠征班から、階塔調査の護衛と連絡に来ています。報酬確認ですか?」
「はい。今日、奥へ入るつもりはありません」
彼女は頷いた。
「では、核碑の前を使ってください。私は通路を見ています。困ったことがあれば、入口係か、私へ」
名を言われたので、俺も名乗った。
彼女の視線が、神剣の柄へ一度止まる。
けれど返ってきたのは、噂の確認ではなく、鞘を箱へ当てないようにという、今の場所に必要な言葉だった。
*
核碑へ触れると、冷たさより先に、文字が立った。
俺の名。未踏破の塔。選べる報酬。
風渡りの長靴。
その名を見た瞬間、肩の袋へ入れた紙を、もう一度確かめたくなった。
資料にあった物が、俺の候補にもある。
ほかには、蒼い額当てと、雨を通しにくい短外套。どちらも欲しくなる物だった。額当てで何を防げるか、外套がどこまで水を弾くかは、表示を読む前に勝手に決めない。
けれど、今、目が離れないのは、長靴の方だった。
空中へ、三歩の足場を作る。
そのあとは滑空し、着地する。地面へ戻れば、次の三歩を使える。
ずっと飛び続ける力ではない。
仲間を全員、腕へ抱えて運ぶという説明もない。
俺は入口の高い梁を見上げ、それから、石の床を見た。
剣が届く所へ敵を呼ぶのではなく、自分が、届く場所を増やせる。
その想像だけで、足の裏が少し熱くなった。
前受けの選択を出すと、核碑の文字が変わった。
先取りした一品を、蒼天の階塔の踏破で精算する。その間、次の迷宮の報酬を受け取る枠は開かない。
同じ約束だ。
白鐘の迷宮でも、鉄牙回廊でも、知らずに別の物へ変わってはいなかった。
俺は表示を最後まで読み、風渡りの長靴を選んだ。
足元へ、細い風が集まった。
砂埃を巻き上げる強さではなく、草の裏を返すくらいの軽さだった。光がほどけたあと、青灰色の長靴が、石の上へ揃っていた。
膝より下へ収まる丈。縁に、翼にも見える細い模様がある。
手へ取ると、重い鎧の靴ほど固くはない。だが、ただの柔らかな革靴とも違い、足首を受ける所に、しっかりした形があった。
俺は、笑っていた。
報酬が先にある。
頭で何度知っていても、新しい一品を手に取る時には、また、初めてみたいに嬉しくなる。
*
「今、受け取ったのですか」
入口係の声に、俺は顔を上げた。
頷き、核碑の前受け表示を示す。係は自分の記録と照らし、もう一度、俺の足元を見た。
「踏破印の登録ではなく、前受け一件。こちらも、その通りに記します」
驚きを飲み込んだ声だった。
俺のために、塔をすでに越えた人へしてくれるわけではない。
セシルさんも少し離れて見ていた。
「靴を、試しますか」
尋ねられ、俺は正直に頷いた。
「ただ、高い所からは、始めたくないです。三歩を、足で覚えたい」
「それなら、外の平場を。今、荷を出している方とは分けましょう。私も、見たことのない装備なので、最初から支えられるとは約束できません」
俺は頷いた。
知らない力を見たい人がいても、その人の腕へ、自分の身体を全部預けて飛ぶつもりはなかった。
入口の外に、低い石縁と、広く踏み固められた場所があった。
奥の崖へ向けて立たず、平らな地面が続く方を選ぶ。
俺は荷を下ろし、履いてきた革靴を脱いだ。母が作った外套と同じで、これまでの物を、強い装備が来たから捨てるわけではない。
古い靴は包み、持ち帰る袋へ入れる。
長靴を履くと、足首の形が、思ったより早く馴染んだ。
「痛い所は?」
セシルさんが訊く。
「今の所、ありません。でも、歩いてみます」
地面を十歩ほど歩き、戻った。
石の端へ踵が当たる感じも、土へ足が沈む感じも、ちゃんとあった。履いた瞬間から、自分が空へ引かれてしまう靴ではない。
*
最初の一歩は、ほとんど跳ねるほどの高さだった。
石縁へ乗り、平場へ向かって足を出す。
何もない所へ、足裏が触れた。
触れた、としか言えなかった。
硬い板が目の前へ生えたのではない。青い模様が一度だけ淡く光り、落ちるはずの身体が、そこで受けられた。
「お」
声が出た。
俺はそのまま二歩目を出しかけ、足を止めた。足場を得た嬉しさへ身体の方が追い越す。
「前、見て」
セシルさんの短い声が来た。
俺は足元だけから、視線を上げた。
土の平場が続き、人は入って来ていない。彼女は、俺の真下ではなく、横の通路の方へ立っていた。
俺を受け止めるより、他の人が入らない場所を作ってくれている。
二歩目。
身体が、ほんの少し前へ出た。
三歩目。
もう一度、空が、足を受ける。
四つ目の足場は、ない。
俺は先に読んだ通り、足を踏み込むのではなく、着地する方へ身体を向けた。
風が、外套の裾を下から押した。
落ちる、より、運ばれる、に近い。
低い高さから、地面へすうっと降りる。踵が土へ触れ、膝が、自分で重さを受けた。
俺は、その場で、少し笑った。
「三歩でした」
「ええ。四歩目、踏みに行くかと思いました」
「行きたかったです」
正直に言うと、セシルさんも笑った。
「四歩目がないの、見てる方も驚きますね」
俺は足元を見た。
地面へ戻った靴の模様が、また静かになっている。
同じ低い縁から、もう一度試す。接地したあとの一歩が、また受けられた。
連続して空に留まれる数は増えていない。地面に戻ったから、新しい三歩を使えたのだ。
今度は二歩で身体の向きを変え、三歩目を少し横へ置いた。
剣を振れば、届く所が変わる。
だが今日は鞘を抜かなかった。
強く斬れる自分と、空を渡れる自分を、いきなり一度で同じ手順へしてしまいたくなかった。
風へ乗って降り、地面の硬さを足で確かめた。
*
「上へ進める道具ですね」
セシルさんが、塔の橋を見上げた。
「剣だけなら、足場まで切ってしまいそうな所へ」
俺が言うと、彼女は頷いた。
「ただ、私たちの荷は三歩では上がれません。階段の点検は、続きます」
「俺が先に着いても、皆の道ができたわけじゃない」
「はい。そこを分けて話していただけるなら、こちらも助かります」
彼女は盾の革帯を指で確かめた。
「調査班の護衛も、上へ行く日があります。あなたが入る時、同じ作業場所なら、先に予定を合わせましょう。今日は、顔と道具を覚えました」
俺は礼を言った。
もう正式な仲間になったわけではない。次の探索の護衛を無料で頼んだわけでもない。
それでも、自分の力を見たうえで、次に声を掛けられる相手ができた。
入口で、今日は奥へ入らず帰ると伝えた。
前受けは一件。蒼天の階塔は未踏破。
神剣と守護環に、風渡りの長靴が加わった。
光刃は使わず、魔力は八十のまま。環も起動していない。靴の三歩は、地面から離れた間の歩数として、別に覚えておく。
俺は荷を背負い、来た道へ向いた。
帰り道を、三歩ずつ飛び跳ねて全部駆け抜けたい欲は、かなりあった。
だが、知らない力で歩いたあと、足首がどう疲れるかも、俺はまだ知らない。
普通に歩く一時間まで、今日の試しになった。
*
町へ戻る頃には、日の光が建物の片側へ寄っていた。
俺は先に、宿へ帰った。
リゼさんへ靴を見せると、彼女は目を丸くし、すぐには触らなかった。
「本当に、先にもらえたんですね」
「はい。今度も」
「歩いて、帰って来た?」
「歩いて。空の方は、低い場所で、三歩ずつ二回だけです」
彼女の息が、少し緩んだ。
それから、見たい顔へ変わる。
「明日、図へ描いてもいいですか。足場の所を」
「俺も、今日のうちに控えを描きたいです。明日、そこから一緒に」
彼女は左手を膝へ置いたまま、右手で紙を一枚出した。
新しい靴があっても、彼女の手が急に治ったわけではない。けれど、その手を休ませている間にも、一緒に見たい物は増やせた。
俺は鍵の袋を、机へそっと置いた。
今朝得た、地面の上の部屋の鍵。
午後に得た、空へ足を出すための長靴。
同じ日で、欲しかった暮らしが、こんなふうに別の方向へ広がるとは思わなかった。
「お菓子の相談、貸主さんへ、まだしてません」
俺が言うと、リゼさんは小さく笑った。
「じゃあ、明日は、空より先に、そちらも」
「はい。空の三歩は、砂糖の屑を片付けてくれないので」
彼女が笑い、俺も、まだ足裏に残っている感覚を思い出した。
何もない所へ、一歩。
その先に、二歩。
三歩ぶんの空を、俺は攻略より先に手に入れた。
今度は、その三歩を使って、塔の奥へ、ちゃんと自分の足で届きたい。




