前払いで得た強さが、帰る机になりました
【前回までの人物】
・アルト:神剣ルクシアと守護環を保持する探索者。鉄牙回廊を踏破し、二件目の前受けを精算した。
・リゼ:鑑定と地図が得意な同行者。左掌を療養しながら、広く地図を開ける机を望んでいる。
俺の財布は、神剣を振らない夜にも減る。
昨日の昼は三十五銅、夕食は四十銅。それから、朝食を含む一泊に二銀。
八十銀四十六銅から引いて、今朝は七十七銀七十一銅だった。
共同の一銅は、別にしてある。鉄牙回廊を踏破したからといって、もう精算した守護環と同じ報酬が、もう一個、財布へ化けて入るわけではない。
神剣ルクシアは腰にあり、環も腕にある。
前受けの未精算は、いま、零件。
その全部を持った俺が、今朝、宿の女主人へ訊いたのは、次の迷宮ではなく、部屋を貸す札の場所だった。
「寝る部屋も替えるの?」
白混じりの黒髪をまとめた女主人が、食器を重ねながら言った。
「まず、地図と道具を広げられる所を見たくて。リゼさんの手も、まだなので、遠くない所で」
「作業部屋の方なら、二本向こうの通りに札がある。でも、あそこは寝泊まりできないよ」
「それも、見てきます」
「見てから、今夜の寝台をどうするか言って。部屋を見ただけで帰る所なくしたら、間が抜けるだろ」
俺は頷いた。
夢の拠点を得た日の夜に、鞄を抱えて外へ立つ自分が、かなりはっきり想像できてしまった。
リゼさんは、右手で自分の鞄の留めを確かめた。
左掌の布は、まだ外れていない。昨日、核碑まで来られなかった分を、今日の荷運びで取り戻そうとするつもりはないらしい。
「重い本は、置いていきます。机を見るだけなら、寸法の控えがあれば」
「俺が持ちますか」
「今日は、持っていく物を少なくしたいです。全部を運べると、全部開いて働き始めそうなので」
彼女は少し笑った。
俺は、自分の剣の柄へ目を落とした。強い装備を持っている時ほど、それを使う仕事を増やしたくなる。彼女にも、違う道具で似た気持ちがあるのかもしれなかった。
「じゃあ、見た部屋の大きさは、俺が書きます」
「はい。私が、先に机を欲しがりすぎたら、家賃も読んでください」
お願いの中身が、楽しみなものになっていた。
*
札のある建物は、店の通りから少し奥へ入った所だった。
下の窓には、紙の束が積んである。迷宮の入口のように光りはしない。扉の上の小さな金具が、風でかすかに鳴っていた。
灰色の短い髪の女性が出てきた。茶の毛織の上着の腰へ、鍵を何本か束ねた紐が下がっている。
「部屋を見る人?」
「はい。札を見て来ました。アルト・レインです」
名を言うと、彼女は俺の腰の剣へ一度目を向けた。
すごい剣ですね、とも、置いていけ、とも言わない。
「上へ持っていくなら、鞘のまま。階段の曲がりが狭いから、壁へ当てないように」
「分かりました」
「私が貸してる作業部屋。前は、家族で本を綴じてた所。いま、下で紙の仕事をしてる人とは、別の部屋だよ」
貸主は鍵を一本外した。
リゼさんの鞄へ目を向け、手の布を見てから、階段を示す。
「荷物はあと。まず、自分が上がって使えるかを見て」
俺たちは、その順で建物へ入った。
階段は、一人ずつなら肩を縮めずに上がれた。
曲がり角だけが狭い。俺は神剣の鞘を身体の近くへ寄せ、先へ向けないようにした。
リゼさんは右手で手すりを使い、急がず一段ずつ上がった。俺が先に着いても、下から返事を急かさない。
上の扉が開くと、紙と木の乾いた匂いが来た。
窓は一つ。広い部屋ではない。
けれど真ん中に、地図を折らずに置けそうな机があった。
俺は、それを見た瞬間、値段をまだ聞いていなかったことを忘れた。
「アルトさん」
横から呼ばれた。
「家賃、先にお願いします」
「リゼさんが、机を欲しがりすぎたら、じゃなかったですか」
「私も欲しい顔です。でも、今、そちらの方が速かったです」
俺は笑い、貸主を見た。
「いくらですか」
「一か月、八銀。預りも八銀。預りは出る時に、未払いと、あんたが傷めた分を確かめて返す。家賃とは別に書く」
彼女は紙の二つの欄を示した。
「机と椅子二脚は、そのまま使える。火を使って煮炊きはできない。寝台を入れて住む方でも貸してない。水は下の共同の所。夜は下の仕事が終わる時刻まで」
俺は一つずつ、控えへ書いた。
八銀なら、いつか手が届く金、ではない。今、俺が持っている金で選べる。
そのことが、腹の底で小さく跳ねた。
*
リゼさんは、机の前へ椅子を引いた。
座り、足の置場を確かめてから、右手を天板へ置く。
左手を無理に広げることはしなかった。
「紙が、端へ引っ掛かっていないですね」
「前の持ち主が、仕事で何度も削ったから。傷はあるよ。最初に、一緒に見ておこう」
貸主が机の角を指した。
細い切り跡と、黒い染み。俺はそれを、自分がつけた物へ数えられないよう、紙へ描いた。
疑うためだけではない。出る時、相手も同じ所から話を始められる。
リゼさんは窓の光を見た。
「この向き、午後はどうなりますか」
「向こうの屋根へ日が移ると、少し暗くなる。灯りの油は借りる人が用意して。今日は、まだ使わなくていい」
「地図の線が見える間だけでも、ここで広げられる」
彼女の声が弾んだ。
俺は鞄から、昨日の核碑までの控えを出した。大きな本ではなく、俺が見た所を描いた紙だ。
机へ置くと、端が二つとも乗った。
その簡単なことが、昨日までより、ずっと広い暮らしに思えた。
「ここなら、向こう側へ回って見られます」
リゼさんが立ち、机の反対へ歩いた。
左掌を支えにしないで済むよう、俺は紙の端へ手を置いた。
彼女は少し身をかがめ、核碑の線へ目を近づける。
「この先、まだ描いてないんですね」
「見てない所です。昨日のまま、空いてます」
「はい。それが広げたままにできるの、嬉しいです」
俺は彼女を見た。
大きい机があれば、早く働けるという話ばかり考えていた。彼女が今喜んでいるのは、急いで埋めなくていい空白を、畳まずに置けることだった。
貸主は窓を一度開け、閉めた。
「湿った紙を壁へ貼りっぱなしにしない。机の下へ、濡れた外套も。乾かす場所は別に相談して」
俺は頷いた。
便利な部屋を借りたら、ここで何でもできるわけではない。それでも、できることは、確かに増えていた。
「一つ、相談してもいいですか」
リゼさんが俺へ向き直った。
「私、毎日ここへ来る約束は、まだできないです。手が治るまでだけでなく、鑑定所の用事も、自分の仕事もあるので」
俺はすぐ、もちろん、と答えかけた。
それだけだと、自分が何を期待していたかを、隠してしまう気がした。
「俺、一緒に地図を開く日が増えたら、嬉しいと思ってました。でも、来る日をこっちで決めたいわけじゃないです」
「はい」
「借りるのは、俺の仕事場にします。リゼさんの席を、働く義務へ数えない。来たい時は、先に連絡してもらって」
彼女は、少しだけ口元を緩めた。
「では、今日は、ここで一度、地図を見たいです」
「今日、借りられたら」
「はい。まず、そこから」
俺たちは二人とも、机から貸主の方へ顔を向けた。
*
貸主は、話を途中で急かさなかった。
だが、決める時は紙をもう一度、入口の明るい所へ持ってきた。
「名前は、借りる人の方。使う時間と、鍵の数。代金を渡す前に読んで」
俺は字を追った。
月の家賃八銀。預り八銀。机と椅子二脚。宿泊と火の使用は不可。下の通りへ荷を出す時は、扉の前へ積んだままにしない。
説明された条件と、紙の条件が同じかを、リゼさんにも一緒に見てもらった。
彼女は鑑定の仕事として全部を引き受けたわけではない。今、俺と同じ紙を読む人として、気づいた所を一つだけ指した。
「鍵は、一本ですね」
貸主が頷く。
「まず一本。勝手に増やさない。なくした時は、言って」
俺はその欄へ、自分で印を置いた。
財布から十六銀を数える。
一枚、二枚と台へ置くと、重さより音が先に減っていく。
七十七銀七十一銅から、十六銀。
残りは、六十一銀七十一銅。
預りの八銀も、今の財布にはない。戻るかもしれないからといって、明日の宿代へ二重に数えるわけにはいかなかった。
「受け取ったよ。家賃と預りは、こちらにも分けて書く」
貸主が控えを渡し、その上へ鍵を置いた。
何の光も出なかった。
踏破印も、報酬の名前も、浮かばない。
それでも俺は、その小さな鉄を持つ手が、少し震えるのを止められなかった。
「重い?」
リゼさんが訊いた。
「神剣よりは、ずっと軽いです」
「顔は、同じくらい嬉しそうです」
「たぶん、同じくらい嬉しいです」
俺が答えると、貸主は初めて、少し大きく笑った。
「じゃあ、その嬉しい顔のまま、最初の戸締りをやってみて。鍵、引っ掛かる所があるから」
俺は扉を閉め、鍵を差した。
最後の所が固い。
力で押せば回るかと思ったが、剣の切れ味と違って、これは強くすればいい道具ではない。
貸主が戸の下を示した。
「扉を、手前へ少し。そう」
引いて回すと、かちりと鳴った。
開け、閉め、もう一度確かめる。
自分の借りた場所へ戻る手つきを、今日、初めて覚えた。
*
貸主が下へ戻ってから、俺たちは少しの間、机の前で立っていた。
何を運び込むかは決めていない。椅子二脚のほかに、ミーナさんが来たい時の椅子を買うかも、まだ相談していない。
彼女の部屋を勝手に作ったことにはならないし、今どこで働いているかを、俺が知っているわけでもなかった。
俺は昨日の控えを広げ、神剣を机ではなく、壁へ当たらない足元の側へ置いた。
鞘を抜く必要はない。
手に入れた強さがあるから、ここで振らずに済む時間もある。
リゼさんは椅子へ座り、右手で紙の端を押さえた。
「昨日の板の所、もう一度、話してもらってもいいですか。模様より、帰る方の位置を」
「はい。ここから、環を前へ向けました。板そのものの下じゃなくて、跳ねた物の来る方へ」
彼女は線を足さず、先に顔を上げて聞いた。
俺は、守護環を見せた。昨日、三秒ほど使ったものだ。今日、その力をここで再現するつもりはなかった。
光刃も使っていない。魔力は八十のまま。新しい前受けも、まだない。
それでも、地図を広げた机は、今、目の前にある。
「前払いを終えたら、次を急がないと損かと思ってました」
俺が言うと、リゼさんは少し首をかしげた。
「アルトさんが、ですか」
「空いてる枠を、そのままにしてるのが、もったいなくて」
「私は、広い机を、全部の紙で埋めない方が嬉しいです」
彼女は天板の空いている側を見た。
「次の物が置けるので」
俺もそちらを見た。
今までの強さを捨てず、次の物へ手を伸ばせる。枠が空いたということは、今日中に全部を埋める義務を負ったのではなかった。
自分で次を選ぶ場所が増えたのだ。
それでも、次を見たい気持ちはなくならなかった。
俺は鞄から、組合で見るつもりの資料の名前を書いた紙を出した。
階塔。
今の剣では届かない高さへ、道が続く場所。入口の候補を見て、費用と帰る時間を聞く。そのあとで、前受けを選ぶ。
まだ、空を歩く力を手に入れたわけではない。
「今度は、高い所ですか」
リゼさんが紙を読む。
「資料を、見たいです。今日ここを借りたから、すぐ行ける顔をせずに」
「階段で、もう、一度つかえましたし」
彼女の目が、足元の神剣へ向いた。
「剣が、です」
俺が答えると、彼女は肩を揺らして笑った。
彼女の笑い声が、まだ何も貼っていない壁へ柔らかく返った。
その声が次にここへ来た時も聞けたらと思い、俺も、笑ったまま紙を畳んだ。
*
昼前、宿へ戻る前に、もう一度だけ部屋を見た。
何も運び込まなければ、借りる前とほとんど同じだ。机と椅子があり、窓があり、床へ古い傷がある。
けれど扉を閉める人が、今は俺だった。
鍵を回し、手前へ引く向きを間違えずに確かめる。
貸主へ下で声を掛け、俺たちは通りへ出た。
リゼさんは、左手を庇いながらも、自分の足で歩いている。
「手、疲れてないですか」
「左は使ってないです。でも、今日は、帰ったら休みます。広げたい図が増えたので」
「治ったら全部、すぐ仕事、じゃなくて?」
「治ったら、何をしたいかも、私が決めたいです」
彼女は少し照れたように笑った。
「机で、お菓子を食べていいか、聞き忘れました」
俺は貸主の紙を思い出した。
火は使えない。泊まれない。水は下。
食べ物の屑をどうするかは、まだ聞いていない。
「次に、聞きます。勝手に机へ砂糖を撒く前に」
「私、撒く方に数えられてます?」
「俺も、同じ方です」
彼女が笑い、俺も笑った。
宿の女主人へ、作業部屋を借りたと伝えた。
「寝台の方は、今夜もお願いします。そっちは、泊まる所ではないので」
「了解。家賃を払って帰る場所をなくす方じゃ、なかったね」
俺は鍵を見せた。
女主人はそれを持って振り回さず、俺の手の中で見て頷いた。
「おめでとう。今夜の代金は、今夜ね」
「はい」
成功したから、宿が無料になったわけではない。俺も、そうなるのを期待して見せたのではなかった。
部屋へ戻り、控えの二つの欄を帳面へ写した。
家賃八銀、預り八銀。現金残高、六十一銀七十一銅。共同の一銅は、その隣とは別。
新しい傷はなく、装備は神剣と守護環。まだ次の前受けは選んでいない。
俺は鍵を、剣と違う小さな袋へしまった。
最深部の報酬を、入口から使ってきた。
その強さで二つの迷宮を越えた今、得た物は、刃の光や腕を守る面だけではなかった。
帰って話す机と、自分で開けられる扉。
そこへ、次の地図を置きたいと一緒に笑ってくれる人。
俺は昼を食べたら、階塔の資料を見に行こうと思った。
次の報酬は、まだ知らない。
知らない物を選びに行くのが、怖いより先に楽しみになっていた。




