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24/30

前払いで得た強さが、帰る机になりました

【前回までの人物】

・アルト:神剣ルクシアと守護環を保持する探索者。鉄牙回廊を踏破し、二件目の前受けを精算した。

・リゼ:鑑定と地図が得意な同行者。左掌を療養しながら、広く地図を開ける机を望んでいる。

 俺の財布は、神剣を振らない夜にも減る。

 昨日の昼は三十五銅、夕食は四十銅。それから、朝食を含む一泊に二銀。

 八十銀四十六銅から引いて、今朝は七十七銀七十一銅だった。

 共同の一銅は、別にしてある。鉄牙回廊を踏破したからといって、もう精算した守護環と同じ報酬が、もう一個、財布へ化けて入るわけではない。

 神剣ルクシアは腰にあり、環も腕にある。

 前受けの未精算は、いま、零件。

 その全部を持った俺が、今朝、宿の女主人へ訊いたのは、次の迷宮ではなく、部屋を貸す札の場所だった。


「寝る部屋も替えるの?」

 白混じりの黒髪をまとめた女主人が、食器を重ねながら言った。

「まず、地図と道具を広げられる所を見たくて。リゼさんの手も、まだなので、遠くない所で」

「作業部屋の方なら、二本向こうの通りに札がある。でも、あそこは寝泊まりできないよ」

「それも、見てきます」

「見てから、今夜の寝台をどうするか言って。部屋を見ただけで帰る所なくしたら、間が抜けるだろ」

 俺は頷いた。

 夢の拠点を得た日の夜に、鞄を抱えて外へ立つ自分が、かなりはっきり想像できてしまった。


 リゼさんは、右手で自分の鞄の留めを確かめた。

 左掌の布は、まだ外れていない。昨日、核碑まで来られなかった分を、今日の荷運びで取り戻そうとするつもりはないらしい。

「重い本は、置いていきます。机を見るだけなら、寸法の控えがあれば」

「俺が持ちますか」

「今日は、持っていく物を少なくしたいです。全部を運べると、全部開いて働き始めそうなので」

 彼女は少し笑った。

 俺は、自分の剣の柄へ目を落とした。強い装備を持っている時ほど、それを使う仕事を増やしたくなる。彼女にも、違う道具で似た気持ちがあるのかもしれなかった。

「じゃあ、見た部屋の大きさは、俺が書きます」

「はい。私が、先に机を欲しがりすぎたら、家賃も読んでください」

 お願いの中身が、楽しみなものになっていた。


     *


 札のある建物は、店の通りから少し奥へ入った所だった。

 下の窓には、紙の束が積んである。迷宮の入口のように光りはしない。扉の上の小さな金具が、風でかすかに鳴っていた。

 灰色の短い髪の女性が出てきた。茶の毛織の上着の腰へ、鍵を何本か束ねた紐が下がっている。

「部屋を見る人?」

「はい。札を見て来ました。アルト・レインです」

 名を言うと、彼女は俺の腰の剣へ一度目を向けた。

 すごい剣ですね、とも、置いていけ、とも言わない。

「上へ持っていくなら、鞘のまま。階段の曲がりが狭いから、壁へ当てないように」

「分かりました」

「私が貸してる作業部屋。前は、家族で本を綴じてた所。いま、下で紙の仕事をしてる人とは、別の部屋だよ」

 貸主は鍵を一本外した。

 リゼさんの鞄へ目を向け、手の布を見てから、階段を示す。

「荷物はあと。まず、自分が上がって使えるかを見て」

 俺たちは、その順で建物へ入った。


 階段は、一人ずつなら肩を縮めずに上がれた。

 曲がり角だけが狭い。俺は神剣の鞘を身体の近くへ寄せ、先へ向けないようにした。

 リゼさんは右手で手すりを使い、急がず一段ずつ上がった。俺が先に着いても、下から返事を急かさない。

 上の扉が開くと、紙と木の乾いた匂いが来た。

 窓は一つ。広い部屋ではない。

 けれど真ん中に、地図を折らずに置けそうな机があった。

 俺は、それを見た瞬間、値段をまだ聞いていなかったことを忘れた。


「アルトさん」

 横から呼ばれた。

「家賃、先にお願いします」

「リゼさんが、机を欲しがりすぎたら、じゃなかったですか」

「私も欲しい顔です。でも、今、そちらの方が速かったです」

 俺は笑い、貸主を見た。

「いくらですか」

「一か月、八銀。預りも八銀。預りは出る時に、未払いと、あんたが傷めた分を確かめて返す。家賃とは別に書く」

 彼女は紙の二つの欄を示した。

「机と椅子二脚は、そのまま使える。火を使って煮炊きはできない。寝台を入れて住む方でも貸してない。水は下の共同の所。夜は下の仕事が終わる時刻まで」

 俺は一つずつ、控えへ書いた。

 八銀なら、いつか手が届く金、ではない。今、俺が持っている金で選べる。

 そのことが、腹の底で小さく跳ねた。


     *


 リゼさんは、机の前へ椅子を引いた。

 座り、足の置場を確かめてから、右手を天板へ置く。

 左手を無理に広げることはしなかった。

「紙が、端へ引っ掛かっていないですね」

「前の持ち主が、仕事で何度も削ったから。傷はあるよ。最初に、一緒に見ておこう」

 貸主が机の角を指した。

 細い切り跡と、黒い染み。俺はそれを、自分がつけた物へ数えられないよう、紙へ描いた。

 疑うためだけではない。出る時、相手も同じ所から話を始められる。

 リゼさんは窓の光を見た。

「この向き、午後はどうなりますか」

「向こうの屋根へ日が移ると、少し暗くなる。灯りの油は借りる人が用意して。今日は、まだ使わなくていい」

「地図の線が見える間だけでも、ここで広げられる」

 彼女の声が弾んだ。

 俺は鞄から、昨日の核碑までの控えを出した。大きな本ではなく、俺が見た所を描いた紙だ。

 机へ置くと、端が二つとも乗った。

 その簡単なことが、昨日までより、ずっと広い暮らしに思えた。


「ここなら、向こう側へ回って見られます」

 リゼさんが立ち、机の反対へ歩いた。

 左掌を支えにしないで済むよう、俺は紙の端へ手を置いた。

 彼女は少し身をかがめ、核碑の線へ目を近づける。

「この先、まだ描いてないんですね」

「見てない所です。昨日のまま、空いてます」

「はい。それが広げたままにできるの、嬉しいです」

 俺は彼女を見た。

 大きい机があれば、早く働けるという話ばかり考えていた。彼女が今喜んでいるのは、急いで埋めなくていい空白を、畳まずに置けることだった。


 貸主は窓を一度開け、閉めた。

「湿った紙を壁へ貼りっぱなしにしない。机の下へ、濡れた外套も。乾かす場所は別に相談して」

 俺は頷いた。

 便利な部屋を借りたら、ここで何でもできるわけではない。それでも、できることは、確かに増えていた。


「一つ、相談してもいいですか」

 リゼさんが俺へ向き直った。

「私、毎日ここへ来る約束は、まだできないです。手が治るまでだけでなく、鑑定所の用事も、自分の仕事もあるので」

 俺はすぐ、もちろん、と答えかけた。

 それだけだと、自分が何を期待していたかを、隠してしまう気がした。

「俺、一緒に地図を開く日が増えたら、嬉しいと思ってました。でも、来る日をこっちで決めたいわけじゃないです」

「はい」

「借りるのは、俺の仕事場にします。リゼさんの席を、働く義務へ数えない。来たい時は、先に連絡してもらって」

 彼女は、少しだけ口元を緩めた。

「では、今日は、ここで一度、地図を見たいです」

「今日、借りられたら」

「はい。まず、そこから」

 俺たちは二人とも、机から貸主の方へ顔を向けた。


     *


 貸主は、話を途中で急かさなかった。

 だが、決める時は紙をもう一度、入口の明るい所へ持ってきた。

「名前は、借りる人の方。使う時間と、鍵の数。代金を渡す前に読んで」

 俺は字を追った。

 月の家賃八銀。預り八銀。机と椅子二脚。宿泊と火の使用は不可。下の通りへ荷を出す時は、扉の前へ積んだままにしない。

 説明された条件と、紙の条件が同じかを、リゼさんにも一緒に見てもらった。

 彼女は鑑定の仕事として全部を引き受けたわけではない。今、俺と同じ紙を読む人として、気づいた所を一つだけ指した。

「鍵は、一本ですね」

 貸主が頷く。

「まず一本。勝手に増やさない。なくした時は、言って」

 俺はその欄へ、自分で印を置いた。


 財布から十六銀を数える。

 一枚、二枚と台へ置くと、重さより音が先に減っていく。

 七十七銀七十一銅から、十六銀。

 残りは、六十一銀七十一銅。

 預りの八銀も、今の財布にはない。戻るかもしれないからといって、明日の宿代へ二重に数えるわけにはいかなかった。

「受け取ったよ。家賃と預りは、こちらにも分けて書く」

 貸主が控えを渡し、その上へ鍵を置いた。

 何の光も出なかった。

 踏破印も、報酬の名前も、浮かばない。

 それでも俺は、その小さな鉄を持つ手が、少し震えるのを止められなかった。


「重い?」

 リゼさんが訊いた。

「神剣よりは、ずっと軽いです」

「顔は、同じくらい嬉しそうです」

「たぶん、同じくらい嬉しいです」

 俺が答えると、貸主は初めて、少し大きく笑った。

「じゃあ、その嬉しい顔のまま、最初の戸締りをやってみて。鍵、引っ掛かる所があるから」

 俺は扉を閉め、鍵を差した。

 最後の所が固い。

 力で押せば回るかと思ったが、剣の切れ味と違って、これは強くすればいい道具ではない。

 貸主が戸の下を示した。

「扉を、手前へ少し。そう」

 引いて回すと、かちりと鳴った。

 開け、閉め、もう一度確かめる。

 自分の借りた場所へ戻る手つきを、今日、初めて覚えた。


     *


 貸主が下へ戻ってから、俺たちは少しの間、机の前で立っていた。

 何を運び込むかは決めていない。椅子二脚のほかに、ミーナさんが来たい時の椅子を買うかも、まだ相談していない。

 彼女の部屋を勝手に作ったことにはならないし、今どこで働いているかを、俺が知っているわけでもなかった。

 俺は昨日の控えを広げ、神剣を机ではなく、壁へ当たらない足元の側へ置いた。

 鞘を抜く必要はない。

 手に入れた強さがあるから、ここで振らずに済む時間もある。


 リゼさんは椅子へ座り、右手で紙の端を押さえた。

「昨日の板の所、もう一度、話してもらってもいいですか。模様より、帰る方の位置を」

「はい。ここから、環を前へ向けました。板そのものの下じゃなくて、跳ねた物の来る方へ」

 彼女は線を足さず、先に顔を上げて聞いた。

 俺は、守護環を見せた。昨日、三秒ほど使ったものだ。今日、その力をここで再現するつもりはなかった。

 光刃も使っていない。魔力は八十のまま。新しい前受けも、まだない。

 それでも、地図を広げた机は、今、目の前にある。


「前払いを終えたら、次を急がないと損かと思ってました」

 俺が言うと、リゼさんは少し首をかしげた。

「アルトさんが、ですか」

「空いてる枠を、そのままにしてるのが、もったいなくて」

「私は、広い机を、全部の紙で埋めない方が嬉しいです」

 彼女は天板の空いている側を見た。

「次の物が置けるので」

 俺もそちらを見た。

 今までの強さを捨てず、次の物へ手を伸ばせる。枠が空いたということは、今日中に全部を埋める義務を負ったのではなかった。

 自分で次を選ぶ場所が増えたのだ。


 それでも、次を見たい気持ちはなくならなかった。

 俺は鞄から、組合で見るつもりの資料の名前を書いた紙を出した。

 階塔。

 今の剣では届かない高さへ、道が続く場所。入口の候補を見て、費用と帰る時間を聞く。そのあとで、前受けを選ぶ。

 まだ、空を歩く力を手に入れたわけではない。

「今度は、高い所ですか」

 リゼさんが紙を読む。

「資料を、見たいです。今日ここを借りたから、すぐ行ける顔をせずに」

「階段で、もう、一度つかえましたし」

 彼女の目が、足元の神剣へ向いた。

「剣が、です」

 俺が答えると、彼女は肩を揺らして笑った。

 彼女の笑い声が、まだ何も貼っていない壁へ柔らかく返った。

 その声が次にここへ来た時も聞けたらと思い、俺も、笑ったまま紙を畳んだ。


     *


 昼前、宿へ戻る前に、もう一度だけ部屋を見た。

 何も運び込まなければ、借りる前とほとんど同じだ。机と椅子があり、窓があり、床へ古い傷がある。

 けれど扉を閉める人が、今は俺だった。

 鍵を回し、手前へ引く向きを間違えずに確かめる。

 貸主へ下で声を掛け、俺たちは通りへ出た。

 リゼさんは、左手を庇いながらも、自分の足で歩いている。

「手、疲れてないですか」

「左は使ってないです。でも、今日は、帰ったら休みます。広げたい図が増えたので」

「治ったら全部、すぐ仕事、じゃなくて?」

「治ったら、何をしたいかも、私が決めたいです」

 彼女は少し照れたように笑った。

「机で、お菓子を食べていいか、聞き忘れました」

 俺は貸主の紙を思い出した。

 火は使えない。泊まれない。水は下。

 食べ物の屑をどうするかは、まだ聞いていない。

「次に、聞きます。勝手に机へ砂糖を撒く前に」

「私、撒く方に数えられてます?」

「俺も、同じ方です」

 彼女が笑い、俺も笑った。


 宿の女主人へ、作業部屋を借りたと伝えた。

「寝台の方は、今夜もお願いします。そっちは、泊まる所ではないので」

「了解。家賃を払って帰る場所をなくす方じゃ、なかったね」

 俺は鍵を見せた。

 女主人はそれを持って振り回さず、俺の手の中で見て頷いた。

「おめでとう。今夜の代金は、今夜ね」

「はい」

 成功したから、宿が無料になったわけではない。俺も、そうなるのを期待して見せたのではなかった。


 部屋へ戻り、控えの二つの欄を帳面へ写した。

 家賃八銀、預り八銀。現金残高、六十一銀七十一銅。共同の一銅は、その隣とは別。

 新しい傷はなく、装備は神剣と守護環。まだ次の前受けは選んでいない。

 俺は鍵を、剣と違う小さな袋へしまった。

 最深部の報酬を、入口から使ってきた。

 その強さで二つの迷宮を越えた今、得た物は、刃の光や腕を守る面だけではなかった。

 帰って話す机と、自分で開けられる扉。

 そこへ、次の地図を置きたいと一緒に笑ってくれる人。

 俺は昼を食べたら、階塔の資料を見に行こうと思った。

 次の報酬は、まだ知らない。

 知らない物を選びに行くのが、怖いより先に楽しみになっていた。

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