二つ目の前払いを、今日の帰還で精算します
【前回までの人物】
・アルト:神剣ルクシアと鉄牙回廊の守護環を前受けした探索者。前受けの精算を目指す。
・リゼ:鑑定と地図が得意な同行者。左掌を療養し、自分の引き受ける仕事を選んでいる。
・ミーナ:短期契約で同行する魔術師。砂の術と地形の判断で、仲間の進む道を助ける。
組合の机に置かれた図には、昨日の広間の奥が、まだ白く残っていた。
管理担当が、守護者の倒れていた位置へ確認の印を付ける。
「停止は、こちらの確認でも認められました。切れた槌と胴は現場へ残っています。奥の通路は、踏破済みにはしていません」
俺はその白い所を見た。
昨日は、あそこへ入らずに帰った。その判断を取り消すためでなく、今日の二人で入るために、ここへ来ている。
「今日は、その先の核碑を目指します。入口の記録で、見てよい範囲をもう一度」
隣のミーナさんが、自分の砂の袋を持ち直した。
「帰りの時刻は、昨日の紙じゃなくて今日のね。道の確認も、昨日と同じだと決めない」
「はい」
俺が頷くと、彼女は担当へ用紙を渡した。
新しい朝の、新しい契約だった。
昨日、宿へ戻ったあとの昼食は三十五銅、夕食は四十銅だった。
朝食を含む一泊二銀を払い、今朝ミーナさんへ、改めて同行料の六銀を渡した。
八十九銀二十一銅から、それぞれを引く。財布には八十銀四十六銅。共同の一銅は、別のままだ。
倒した守護者の追加報酬も、まだ見ていない奥の財宝も、財布へ先に入れない。
それでも今日、俺は、稼ぐ前のお金が減ったことを悔しいと思わなかった。
ミーナさんが、自分の予定を空けて一緒に行くと答えた。その仕事へ、俺が対価を払えたからだ。
「大物を倒した翌日って、もう少し派手な顔すると思ってた」
組合を出ると、彼女が横から言った。
「今、地味ですか」
「財布を見る顔が、すごく真剣」
「六銀、安くないので」
「私も、安く扱われに来てないしね」
ミーナさんが笑う。俺も笑った。
お金の話をしたら仲間ではなくなる、というものではなかった。昨日も今日も、その人の選んだ時間がここにある。
リゼさんは、今朝も宿で休むことを選んだ。
左掌はまだ布に包まれている。良くなっているかを俺が握って確かめるのではなく、本人が日常の痛みと、できる動きで判断した。
『帰ったら、核碑の模様も教えてください。見ていない所の線は、空けたままで』
朝に聞いた言葉を、俺は鞄の中の控えへ書いてある。
地図を描けない朝にも、彼女自身が知りたいものはある。
それを持ち帰るのは、留守を埋めるために全部を覚える試験ではなかった。
今日、俺が見た所を、見たと言える形へする仕事だった。
*
鉄牙回廊の広間は、昨日より静かだった。
床へ残る鉄の槌の頭。その隣に、切り離された柄が横たわっている。
守護者は、もうこちらを向かなかった。
俺は一度だけ立ち止まり、自分の剣の柄を見た。
神剣ルクシア。
これから手に入る強さを借りたまま震えていた最初の日に、俺は本当に、この鉄を斬れるようになるとは思っていなかった。
正確には、剣なら斬れると知っていても、振る自分の足が、そこまで付いてくるか分からなかった。
「ちょっと嬉しそう」
ミーナさんが言った。
「かなり、嬉しいです」
「なら、見て帰ろう。今は、跨ぐ所を先に」
彼女が指した場所には、細い鉄片が散っていた。
勝った記念の景色と、今日踏めば困る床が、同じ所に残っている。
俺は剣を抜かず、片の少ない側から回った。
奥の通路は、広間より狭かった。
壁の継ぎ目から、乾いた風が来る。湿った鉄の匂いが薄れ、足音が一度、近い所へ返った。
まだ、リゼさんの線はない。
俺は昨日の写しを鞄へ戻した。見えていない場所で、紙の方へ歩幅を合わせない。
「昨日の、右へ、を今日も使いますか」
立ち止まって訊くと、ミーナさんは首を振った。
「昨日は私が右へ退く、アルトが左へ出る、で決めた。でも、ここは横が狭い。短くしすぎると、どっちの足か分からなくなる」
「今日は、名前を先に」
「うん。私が戻る時は、私が戻る。アルトへ動いてほしい時は、アルトって呼ぶ」
俺たちは空いている床で一度だけ、互いの言い方を確かめた。
強くなったから、短い合図だけで何でも通じる。そういう顔をして間違える方が、俺にはまだずっと似合っていた。
最初の曲がり角で、壁の下が光った。
鉄を薄く貼ったような背が、石の間から動く。
昨日、広間へ入り込んだのと似た石蜥蜴だった。だが、見える一頭が同じ一頭だとは限らない。
「右の壁に、一頭」
俺は声を落とした。
「見えた。後ろは、今、空いてる」
ミーナさんが返す。
そいつが顔を上げ、短い脚で床を引っ掻いた。
俺は神剣を抜いた。
飛び出してきた石の背は、昨日より小さかった。
だから楽だと思った瞬間、低い位置へ足が行きすぎかける。
俺は膝を止め、相手のいる床を見た。
神剣の切れ味は、相手を追って転ぶ分まで補ってはくれない。
石蜥蜴が頭を振り、壁へ身体を寄せる。こちらの刃から、ただ離れようとしているのかもしれない。
俺は足を前へ出し直した。
横から、乾いた砂が低く広がる。
「一回だけ、ここ。私が戻る」
ミーナさんの声と一緒に、魔物の脚がわずかに沈んだ。
動けなくなったのではない。足を抜こうとした一瞬、向きが止まった。
俺はその先へ、普通の斬撃を置いた。
刃が硬い背へ入り、石の体が二つに分かれる。壁を削る音は、剣が擦れた音ではなく、切れた半分が落ちた音だった。
俺は刃を下げたまま、もう一頭がいないかを見た。
ミーナさんが砂を戻し、短く息を吐く。
「止まった。次に進む前、水」
「はい」
俺も水を飲んだ。
短い戦いだった。だが、短かったことを、何も使わなかったことにはしない。
ミーナさんの術は一回。俺は通常の一太刀。光刃も、守護環もまだ使っていない。
息が戻るまで、二人とも先を歩かなかった。
「今の、最初に小さいって思いました」
俺が言うと、彼女は水筒の口を拭いた。
「で、待った。見てたよ」
「言わなくても、分かってました?」
「全部じゃない。今、教えてもらった所もある」
ミーナさんの返事を、俺はもう一口の水と一緒に受け取った。
自分のことを、何でも見抜かれる相手ではない。だから、自分から話す場所も残っている。
*
次の通路の先に、低い台が見えた。
青白い筋を持つ石が、その上へ立っている。
核碑だと思った。だが、形を見てすぐ、床の全てがそこまで続いているとは考えなかった。
入口寄りには、剝がれた石片が幾つもある。高い所へ目を上げると、壁から張り出した古い金属板が、片側だけで支えられていた。
ミーナさんも見た。
「あれの下は、歩かない」
「板から離れる道を、先に見ます」
俺は神剣を構えたまま、壁へ寄りすぎない位置へ動いた。
足元の石が、かすかに鳴った。
次の瞬間、金属が軋む音が来た。
板の端が動いた。
俺は下へ走らず、腕の環を前へ向けた。
「ミーナさん、俺の後ろへ!」
守護環が光った。
近い前方へ、薄い面が立つ。全ての方向を囲うものではない。俺が見た板の落ちる側へ、二人の前だけを塞ぐ。
ミーナさんが返事をした。
「戻った!」
外れた端から細い部材が落ちた。石へ当たり、こちらへ跳ねた物が障壁にぶつかる。重い音が足元へ響いた。
板が全部、こちらへ倒れたのではなかった。板自身は壁に沿って下へ傾き、そこで止まった。
俺の腕へ冷たい震えが来る。
剣を持つ手と、環を向けた腕を、逆に動かしそうになった。
俺は剣先を低くし、二人で立つ場所を先に保った。
障壁を長く出せば、古い壁まで直るわけではない。
「下がります。道が空いている方へ」
声を掛け、ミーナさんと一緒に元の角へ戻った。
短く保った面を消す。
その向こうで、小さな石が二つ落ちた。
角の内側で、俺は腕を下ろした。
守護環を使ったのは、三秒ほどだった。再びすぐ出せるつもりで、次の動きを決めない。
光刃の魔力とは、別の力だ。環の残りを、昨日と同じ色だから何回と決めることもしなかった。
「手、痛めてない?」
ミーナさんが訊いた。
俺は指を開き、腕を曲げてから答えた。
「今のところ、ありません。そちらは」
「私も。さっきの板、下へ行って受けなくて良かった」
俺は角の先を見た。
自分の頭の上を守れる力をもらっていても、仲間ごと危ない所へ立つ理由にはならなかった。
それでも、力があったから、落ち始めた物の前で帰る場所を一つ作れた。
「環、ちゃんと強いですね」
「うん。アルトが向けた方も、今日は良かった」
褒められた所が、ようやく装備の外にある気がして、俺は少し照れた。
*
板が動かなくなってからも、すぐには角を出なかった。
新しく落ちた物の位置を二人で見て、そこへ入らずに残る道を確かめる。
核碑は、奥へ立ったままだった。
その手前に残る、壁から離れた通り道。板へ触れなければ進めるのか、まだ別の部材も動きそうなのか。
俺は剣で板の支えを切りたくなった。
切れば落とせる。だが、どこまでつながっているか分からない物へ、神剣の強さで答えを付けることはできない。
「こっちは、通れる幅がある」
ミーナさんが床の継ぎ目を指した。
「ただし、私たちが通ったから次の人も安全、じゃない。帰りに、ここを報告」
「はい。今日は、核碑へ行って戻る分だけ」
俺たちは道を選び、板から離れて進んだ。
石の台は、肩の高さより低かった。
表には、入口でも見た古い紋様がある。俺はその形を、勝手に王の名や歴史へ変えなかった。
リゼさんへ持ち帰るために、見えている線を控える。
読める文字が、ゆっくり浮かんだ。
前受け済みの報酬。
守護環。
その二つを見た時、喉の奥が熱くなった。
借りた物を返しに来たのではない。先に受け取った強さで、ここまで来ると決めた約束を、自分の足で果たしに来たのだ。
俺は神剣を鞘へ戻し、台へ手を置いた。
掌の下で、石の冷たさが変わった。
熱く燃えるのではない。手の形へ沿うように、淡い光が広がる。
守護環が、腕で短く鳴った。
核碑に、鉄牙回廊の踏破を示す印が現れる。その下へ、前受け一件の精算が終わったと、読める文字が残った。
次に受け取れる枠は、空きへ変わっている。
「終わった」
俺が言うと、ミーナさんが横へ来た。
「見えた。環は?」
俺は腕を上げた。
そこにあった。神剣も、腰の鞘にある。
約束を果たしたから、使ってきた強さが消えるわけではない。
「まだ、俺の所にあります」
「それなら、帰りも使えるね」
彼女は石の向こうを覗かなかった。
「次の前払いを、ここで決めなくてもいいんでしょ」
「はい。まず、この二つを持って帰ります」
俺はその場でもう一度、表示を読んだ。
嬉しくて、早く次を見たかった。空を歩く物や、遠くへ行ける道具が、次の選択肢にあるかもしれない。
けれど今日、俺の荷はもう十分あった。
鉄牙へ入った時に受け取った物と、その力で作れた道。ミーナさんが選んだ術の場所。リゼさんへ話したい、まだ見たばかりの紋様。
次の迷宮を選ぶ前に、この成功を、ちゃんと一日ぶん喜びたかった。
*
戻る時、傾いた板は同じ所にあった。
俺たちは離れた道を通り、角の手前で一度休んだ。
守護者の広間へ出ると、昨日の鉄の塊が、行きよりも小さく見えた。
実際に小さくなったわけではない。核碑まで歩いて戻った道が、その奥へ増えたからかもしれない。
ミーナさんは最後まで、出口側を見ていた。
今日の同行料は、核碑の前で笑ってくれた分だけではない。帰りも仕事として持ってくれる人へ払った金だった。
入口で、二人の帰着と道の変化を報告した。
傾いた板のある通路、残した魔物の位置、核碑の印。
管理担当は印を確認し、前受けの記録を精算済みへ移した。
「二件目の完了です。次の申請はできますが、今日このまま次の迷宮へ入る必要はありません」
「今日は、入りません」
俺が答えると、ミーナさんが笑った。
「言えた。じゃあ、私の午後も守られた」
「守りました」
「その顔、最初の財布より派手」
俺は、笑いを止められなかった。
追加の現金報酬はない。持ち帰って売る破片も、今日は取っていない。
それでも腕の守護環と、腰の神剣と、空いた前受け枠がある。
俺の成功は、財布の数字へ足したものだけではなかった。
宿まで歩く間に、十分以上は静かに過ごせた。
光刃は一度も使っていない。魔力は八十のまま。通常の神剣を一回、守護環を短く一回。ミーナさんの砂術も一回。
新しい傷はなく、肩に残っているのは、力を入れた疲れだった。
その疲れまで、嬉しかった。
リゼさんは、窓際から俺たちの姿を見つけた。
立ち上がりかけず、右手を小さく上げる。
「おかえりなさい」
「戻りました。二件目、精算できました」
俺が腕を見せると、彼女は環を見てから、顔を上げた。
「今度は、強かった所からでも、聞きます」
「じゃあ、守護環で二人の帰り道を守った所から」
「向きをちゃんと選んだ所も、入れて」
ミーナさんが横から言った。
俺は頷き、椅子へ座った。
机へ広げるのは、見た所までの控えだけ。リゼさんの左手を、清書の仕事へ引っ張り戻さない。
話し終わる頃、彼女が窓の外を見た。
「道具を置ける机が、もう少し広い所へ行きたいですね。私、地図を畳むたび、まだ見たい所を折ってる気がするので」
俺も同じ窓を見た。
今日、帰って休めるこの宿がある。それとは別に、自分たちで選んだ場所へ、次の荷を置いてみたい。
「明日、貸す部屋の札を見に行きませんか。見に行く所まで。決めるのは、手と、家賃と、机を見てから」
「はい。それなら、私も行きたいです」
リゼさんが笑った。
ミーナさんは、自分の袋を持ち上げる。
「私は午後の仕事。それ、私の部屋も勝手に数に入れないでね」
「入れません。来たい時に来られる椅子は、あったらいいなと思います」
「それは、机の次に見てきて」
彼女も笑った。
二つ目の前払いを終えた日、俺たちの次の望みは、まだ受け取っていない強さだけではなくなった。
今ある物を広げ、帰った話を、一緒にできる場所。
腕の環はそこに残り、神剣もまだ腰にある。
俺は両手を机へ置いて、ようやく、今日の昼に何を食べたいか考えた。




