前払いの神剣で、守護者の槌を断ちます
【前回までの人物】
・アルト:最深部の神剣と、鉄牙回廊の守護環を前受けした探索者。鉄牙回廊は未踏破。
・リゼ:鑑定と地図が得意な同行者。左掌を療養しながら、引き受ける作業を自分で選んでいる。
・ミーナ:短期契約の魔術師。砂の術と地形の確認で、仲間の進む道を支える。
翌朝、リゼさんは左手の布を外さずに食堂へ来た。
椅子へ腰を下ろす前に、俺の鞄と、ミーナさんの小さな袋を見る。
「今日は、行けません」
彼女は残念そうに言った。俺たちが何か尋ねるより先だった。
「昨夜より痛みは落ちました。でも、昨日の朝より楽とは、まだ言えないので」
「分かりました」
俺は椅子を引いた。地図を置く場所を空けるためではない。朝ご飯を三人で食べるためだ。
ミーナさんは袋を床へ置き、パン籠を真ん中へ寄せた。
「私は今日、昼過ぎまで空けた。午後に戻る条件なら、引受ける。リゼは、帰った話を聞く方」
「はい。でも、上手くいったところだけでは困ります」
「それなら、アルトの顔を見れば分かる」
俺が顔へ手を当てると、二人とも笑った。
昨日の昼は三十五銅、夕食は四十銅。夜に払った朝食込みの宿代が二銀で、財布には九十五銀二十一銅が残っている。
朝の食事へ、同じ四十銅をもう一度足さなかった。共同の一銅も、別の封筒のままだ。
今日のミーナさんとの短期同行料は、銀貨六枚。以前の討伐で受けた取り分を、そのまま当然の相場にはしない。
戦闘へ進むこと、入口までの往復、戻る時刻。昨日の午後、俺から書いて渡した条件へ、彼女が今朝返事をくれた。
「倒せなかったら、返すお金じゃないよ」
ミーナさんは銀貨を確かめ、自分の袋へ入れた。
「はい。戻る判断も、頼みます」
「それなら、受け取る」
財布は八十九銀二十一銅になった。
守護者から何が得られるかは分からない。今日の依頼へ勝手に追加報酬を見込み、財布の先へ足すのはやめた。
リゼさんが、俺の手元へ目を向けた。
「昨日決めた、右へ、の合図は?」
「使います。返事がなければ、俺が止まる」
「帰る時の道は、昨日までの写しを。今日は新しい地図は描けません」
「今ある線から先へは、広間を越えても進みません」
彼女はゆっくり頷いた。頼まれれば働けたかどうかを、試す必要はなかった。
俺は神剣の鞘へ触れ、そのまま手を下ろした。
「帰ったら、槌がどう動いたかから話します。切れた所は、そのあと」
「逆でも、聞きますよ。ちゃんと戻ってくるなら」
リゼさんはそう言って、右手でジャムを取った。
俺は固い蓋だけを開け、瓶を彼女へ返した。
*
組合の管理担当は、俺たちの計画用紙へ日付を入れた。
攻撃禁止で行った境界調査とは、別の紙だ。今日は前受け済みの鉄牙回廊の攻略を進める。守護者のいる広間で攻撃してよい範囲と、ほかの探索者を近づけない連絡が先に確認された。
「広間から先へ進む予定は、ないのですね」
「はい。守護者を倒せても、奥の道は調べません。戻る時刻を変えないためです」
ミーナさんも用紙へ指を置く。
「途中の道が変わっていたら、広間へ着かなくても戻る。ここも入れて」
担当は書き足した。
以前の図があるからといって、今日の床まで保証はできない。だから俺たちは、進んだことのある道を、もう一度見ながら歩く。
「新たな前払いはありません。踏破の完了にも、まだ印は付けません」
「守護環は、もう受け取っています」
俺は腕を見せた。環の内側は静かで、光っていない。
残りの力を、見た目だけで何回と決めはしなかった。
ミーナさんは、自分の砂の袋を開いて担当へ見せる。
「術に使う砂は持参分。持ち帰りの分も含めて、私の物。床の砂が何でも同じに使えるとは考えない」
「分かりました。帰着時は、人数と道の変化、守護者の状態を先に報告してください。持ち帰る物があれば、その後です」
俺たちは頷いた。
用紙の上で守護者が倒れたことにはならない。でも、倒しに行くための、今日の二人の仕事は始まった。
入口へ着くまで、ミーナさんは歩く速さを上げなかった。
俺の方が、二度、先へ出た。
「早い」
二度目に言われ、俺は足を止めた。
「すみません。戦いたくて」
「分かる。でも、帰りはこの道を逆に歩くんだよ。息、今から使い切らない」
「はい」
「その返事、今日は何回聞くかな」
彼女がからかうので、俺も笑ってしまった。
楽しみにしていることまで隠す必要はない。ただ、隣の人の歩幅より先へ、それを置かないようにした。
*
鉄牙回廊の空気は、町より冷たかった。
壁に残る湿り気と、古い鉄の匂い。自分の足音が返ってくる向きまで、前に来た時と比べたくなる。
進んだ道の角を一つずつ確かめ、持ってきた写しへ目を落とす。リゼさんの筆跡を見ても、彼女が今、肩の後ろにいるつもりにはならなかった。
今日、出口側を見るのはミーナさんだ。
俺は、彼女のいる位置を振り返って確かめた。
広間の手前で、二人は立ち止まった。
守護者は、前と同じ側にいた。鉄の槌を低く下げている。動いていない今でさえ、肩の高さが俺の胸へ重く来た。
俺が神剣で切った平板も鉄棒も、向こうから動いては来なかった。
今日は、違う。
「背中側、今は空いてる」
ミーナさんが小さく告げた。
「右の線、分かりますか」
「分かる。柱の陰へ入る前に返事する。でも、こっちを使えなくなったら、戻るって言う」
「はい」
彼女は笑わなかった。俺も鞘の留めを外し、息を吐いた。
神剣の刃が、薄い光を拾う。
もっと強い装備を待つ必要はない。最深部で手に入るはずだった力は、もう俺の手にある。
守護者が動いた。
境の内へ入った俺へ、鉄の足が一つ向く。昨日まで見ていた槌の打痕が、足元で急に近くなった。
肩が上がる。
俺は振り下ろす前に横へ走りかけ、止めた。
試験場なら、それで袋を避けられた。でも相手は、俺が先に動けば、槌の向きも変えられる。
正面の鉄面が、まだこちらを見ていた。
「戻る?」
後ろから、ミーナさんの声。
「一歩、下がります」
俺は境へ戻る側へ足を引いた。守護者の肩が止まり、槌が、低い所へ戻りかける。
完全に振ったあとの動きではない。今の一回を、攻撃が届く距離の証明には使えない。
心臓だけが、無駄に速かった。
「今、早く出ようとした」
俺が言うと、ミーナさんが頷いた。
「うん。見てた。こっちへ刃は来てない」
それを聞いて、ようやく肩を下ろせた。
「次、違ったら戻ります」
「同じでも、無理なら戻る」
「……はい。それも」
彼女が一度だけ笑った。
俺は自分の足を見た。逃げられたかどうかだけではない。切りたい気持ちに、次の動きを全部決めさせなかった。
今の一歩は、今日、ここで作ったものだ。
*
二度目、俺は槌が高く上がるのを見た。
鉄の肩が軋み、広間の空気が細く鳴る。動き出す前の静けさと、もう戻れない重さの違いが、目より先に足裏へ来た。
「右へ」
「空いた」
ミーナさんの返事。
俺は左へ出た。
すぐ横で、槌が床を叩く。
石の震えが靴底を通り、膝まで上がった。欠片が頬の脇を飛ぶ。顔を引いてから、神剣の柄を握り直す。
守護者はもう槌を引き戻そうとしていた。
待ってくれる相手ではない。
俺は、硬い胴を最初に狙わなかった。
伸びた槌の柄へ、神剣を通す。
刃が鉄を捉えた。
平板を斬った時より、腕へ重さが返る。それでも止まらない。白い線が柄を横切り、槌の頭が、床の上へ傾いた。
切れた。
嬉しさを声へ出すより先に、俺は下がった。
鉄の頭が、石を削って転がる。今、そこへ足を出していたら、神剣が強くても避けきれなかった。
「切った!」
俺が叫ぶ。
「まだ動く!」
ミーナさんの声が重なった。
守護者の右腕が、短くなった柄を振り抜いた。
切ったから止まる、と俺の方が思いかけた。その先を、ミーナさんは見ていた。
俺は剣を下げたまま、もう一歩だけ後ろへ退く。鉄が空を裂き、体の前を通った。
反撃するなら、今。
けれど出口の方で、別の石音がした。
ミーナさんの目が、そちらを向く。
「待って。横」
俺は踏み込まなかった。
通路の曲がり角から、小さな石蜥蜴が顔を出した。
俺が守護者へ近づけば、ミーナさんの退く道へ入る。
彼女は俺を呼ばず、自分の袋を開いた。
乾いた砂が、床の一点へ低く落ちる。杖先の動きに合わせて、狭い範囲の砂がまとまり、蜥蜴の足が一瞬沈んだ。
止まったのではない。前足を抜こうと、石の体が揺れている。
「こっちは私。広げない。戻る線は空ける!」
彼女の声へ、俺は頷いた。
守護者を止める術ではない。でも今、その小さな足が俺たちの間へ入らない数秒を、彼女が選んで作っていた。
俺は守護者から距離を取った。
敵を二つ同時に切ろうとはしない。槌の短い柄が届く側を避け、通路の前へ戻る。
砂から抜けかけた石蜥蜴へ、通常の一太刀。
石の背が割れ、動きが止まった。
ミーナさんが術を解く。砂が崩れ、床へ薄く広がった。
「息、大丈夫ですか」
「短いの一回。大丈夫。でも、次がいるなら戻る」
俺は通路を見た。新しい影はない。
その奥の道を、ここで調べに行くわけにもいかない。
俺たちは、守護者のいる方と出口の方を、もう一度見分け直した。
*
守護者は、切れた槌を拾わなかった。
残った柄を構え、腕を振る。同じ武器の長さではない。同じ避け方でいいと考えたら、今度はそちらが罠になる。
俺は境の手前で、少し長く見た。
右の腕だけでなく、左も動く。胴の向きが変われば、広間の入口へ、二つの腕が並ぶ。
真正面から飛び込まない。
後ろのミーナさんへ向ける剣でもない。
神剣を両手で持ち、相手の振り終わった腕の外へ出る。
今度の合図は、返事までよく聞こえた。
右の腕へ、一太刀。
鉄の継ぎ目を、刃が切り分ける。
落ちた腕を追わず、俺は足を戻した。守護者の左手が、顔のあった所を通り過ぎた。
速い。けれど、届くものが一つ減ったことは変わらない。
俺の剣は、鈍っていない。
息を吸う。床へ散った欠片を踏まず、次の足を置く。
相手の左肩が上がった時、俺はその外へ回った。
「空いてる!」
ミーナさんの声がした。
俺は振り返らず、今いる側へ神剣を走らせる。
鉄の胴を、斜めに。
白い刃が肩の下から抜け、広間の冷たい空気へ戻った。
手応えのあとに、重い音が来た。
守護者の体が崩れる。膝をつく音ではない。中で支えていたものまで切られ、二つの部分が別々の重さで床へ倒れた。
俺はさらに下がった。
鉄が止まるまで、勝ったとは言わなかった。
音が消える。
しばらく、何も動かなかった。
刃先を下げたまま、俺は自分の肩が上下しているのを感じた。汗が冷え、背中の服が皮膚へ付く。
神剣を初めて振った時と、同じ強さだった。
だけど今は、切れた物の向こうに、ミーナさんの足が見えた。出口の線も見える。
「……倒した、と思います」
「うん。動かない。でも、触るのは後」
彼女も息を整えながら言った。
俺は笑った。
「今の、すごく気持ちよかったです」
「そこ、ちゃんと覚えて帰ろう。危なかった所だけだと、リゼが不満そう」
笑いが、ようやく二人の間へ戻った。
*
広間の奥には、まだ道が続いていた。
俺はそれを見た。見ただけで、剣を鞘へ戻す。
鉄牙回廊を踏破したわけではない。守護環の前払いが清算された表示も、ここでは出なかった。
倒した守護者の破片も、その場へ残した。持ち帰りの安全と所有を確認せず、報酬のつもりで袋へ詰めない。
今日の印は、写しの広間の所へ、動かなくなった位置を記すだけだ。
記号の書き方を勝手に変えず、余白へ言葉で付け足す。リゼさんへ説明する時、俺の絵だけで強さを伝えようとして、分からなくしてはいけなかった。
帰り道、ミーナさんは短い休憩を一度取った。
術を使ったのは一回。大丈夫と言ったから、ずっと大丈夫なままとは限らない。
俺も一緒に水を飲んだ。
守護環は使わなかった。光刃も使わず、MPは八十のまま。通常の神剣は、石蜥蜴へ一回、守護者へ三回。
頬を触ると、石粉が付いたが血はなかった。袖も、脇腹も、新しい傷は見つからない。
「帰ったら、最初に何を言います?」
俺が訊くと、ミーナさんは水筒の栓を締めた。
「帰った、でしょ」
「その次」
「アルトが、やっと槌の横へ出た」
「やっと、が付きますか」
「付く。見てたから」
俺は口を尖らせ、それから頷いた。
やっと出来た所まで含めて、見ていた人の言葉だった。
入口へ戻り、人数と道の変化、守護者の状態を報告した。
確認のための再調査は管理側が手配する。俺の話だけで、次の探索者へ広間は絶対安全だとは案内しない。
新しい金銭の受領はなく、追加前払いもない。
財布は八十九銀二十一銅。共同の一銅は動かしていない。
それでも、帰りの鞄が軽いことを、損をしたとは思わなかった。
宿では、リゼさんが窓際の席にいた。
俺の顔と、ミーナさんの姿を順番に見る。左手は、朝と同じように膝の上だ。
「戻りました」
俺が言うと、彼女は肩を下ろした。
「はい。おかえりなさい」
椅子へ座り、俺はまず、守護者が槌を戻しかけた最初の一歩から話した。
待ってくれなかった鉄の腕。切れた槌の頭。ミーナさんが選んだ砂の場所。最後の一太刀。
リゼさんは途中で地図を取り出さず、俺たちの声を聞いていた。
「強かったですか」
「守護者も。でも、神剣はちゃんと強かったです」
「アルトさんは?」
俺は答えに詰まった。
ミーナさんが、先に笑う。
「強くなってたよ。切るのを、一回待てた」
俺は照れて、鞄の留めを触った。
前払いでもらった剣の強さだけではない。今日の俺が作れたものを、二人が見ていた。
「次は、私もその広間を見たいです」
リゼさんは言ってから、自分の左手へ目を落とした。
「行ける時に。ちゃんと、その時の手で」
「はい。道は、今日より先へ進めてません」
まだ向こうに続く道がある。
もう槌の音に立ち止まるだけではない道だ。
俺は神剣の柄から手を離し、二人の座る卓へ置いた自分の両手を見た。
次の前払いを選ぶ前に、今持っている力で、自分たちの一歩を進められた。




