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19/26

署名した分だけ、前払いを受け取ります

【前回までの人物】

・アルト:神剣と守護環を持つ探索者。守護者を倒さず帰ったことで、攻撃禁止の境界調査を提案された。

・リゼ:地図と鑑定を担う同行者。左掌を休め、右手だけで使える貸台の条件を契約へ入れた。

・ミーナ:短期契約の魔術師。調査案を持ち帰り、明後日の朝に三人で読み直すことにした。

・管理担当:守護者を誘導せず、境界の外から測る仕事を一人銀貨一枚の前払いで提案している。

 契約の日の朝、俺は神剣より先に財布を数えた。

 銀貨九十七枚と銅貨八十三枚。前の宿と食事を払った後の額で、昨日は新しい銀貨を受け取っていない。

 板獣の欠片も売っていない。ラウルさんが三銀と提示しただけだ。

「前払いを受ける前から、増えた顔をしない」

 俺は自分へ言い、財布を閉じた。


 中庭では、守護環を試さなかった。

 前回の探索日に朝三秒、上道で八秒。残量は分からない。休ませた一日で回復したかも分からない。

 光が同じに見えることを、満タンの証拠にしない。

 神剣は鞘から指一本ぶんだけ抜き、刃の欠けがないことを見て戻した。斬れるか確かめるために庭の木を切らない。


 宿の女主人が朝食を運んできた。

「今日は壁を出さないのかい」

「調査契約を読む日です。使うか分からない物を、朝の試験で減らしません」

「賢くなったね」

「前払いがあるので」

「まだ貰ってないだろう」

 女主人は豆の皿を置き、笑った。

「肉は、硬貨が袋へ入ってからにしな」

「はい」

 宿代と朝食の新しい金額はここで作らない。今朝の食事は前夜までの通常契約の範囲だ。


 入口の管理窓口へ着くと、リゼさんが先に待っていた。

 左掌の布は薄くなっている。だが、地図筒は右肩。左手には何も持っていない。

「腫れは?」

「昨日より引いています。施療所で、右手作業なら午前の鐘二つまで許可されました」

「痛みは?」

「握らなければ弱いです。貸台を使っても、左手で押さえません」

「受けられそうですか」

「契約を読んでからです」

 昨日と同じ答えだった。


 ミーナさんは少し遅れて来た。

 濃紫の髪を高く結び、藍の短外套の留め具を片手で直している。

「午後の予定、変わってない。午前の鐘二つ。入口へ戻る時間込み」

「はい」

「アルト、顔がもう銀貨一枚持ってる」

「財布にはまだありません」

「顔の話」

 リゼさんが小さく笑う。

「肉も、まだです」

「そこまで見える?」

「いつもです」


 管理担当の女性は、三枚の契約案を机へ並べた。

 前回の書面から、三つ変わっている。

 境界から三歩、は入口側から床石三枚へ。欠けた石も一枚と数え、図へ残す。

 守護者が動かなければ、動かなかった事実を報告すればよい。

 貸台は危険時に放棄可。回収できなかった位置を記録し、代金は請求しない。

「追加があります」

 女性は第四項を指した。

「観測点へ着く前に別の魔物が出た場合、排除は許可します。ただし、守護者への攻撃禁止は変わりません」

「神剣を抜いていい?」

「別の魔物へは。守護者へ刃が触れた時点で、境界調査は中止です」

「中止でも、前払いは返す?」

「故意に攻撃した場合は返還。退路確保で不可避だった場合は、記録を審査します」

「審査する人は?」

「管理責任者二名。私一人では決めません」


 ミーナさんが、別の行を指で叩く。

「『自然に動く時だけ』が消えてる」

「床石三枚の観測点まで近づくことは契約内です。その位置で守護者が動けば、誘導違反にはしません。それ以上近づく、音を鳴らす、物を投げる行為は禁止」

「砂術は?」

「境界の外で退路確保に使うのは可。守護者の足元や境界内へ作用させれば誘導扱い」

「私は使わない前提。帰れない時だけ、外側の既存砂へ」

「その方針を契約の備考へ入れますか」

「入れて。使わない義務じゃなく、予定」

 管理担当は、術者判断・原則不使用、と書いた。


 リゼさんは貸台の絵を見る。

「脚は三本。床石の溝へ入りますか」

「脚先は平らです。溝へ固定する器具はありません」

「傾いた床で滑る可能性があります」

「入口で現物を選べます。合う物がなければ調査を延期してよい」

「延期で前払いは?」

「機材不適合が理由なら返還不要。三日以内に再設定。三日を過ぎて受けないと決めたら返還」

 左手を隠して仕事を取らず、使える道具がなければ帰れる条件になった。


 俺は報告項目を読む。

 境界の幅。入口から観測点までの所要時間。守護者が動いたか、動かなかったか。槌が自然に動いた場合だけ、線の外へ届いた最遠点。

「三項目が揃えば、追加で一人一銀」

「槌の距離は、揃わなくてもいいです」

 管理担当が答える。

「動かすための行動は禁止です」

「分かっています。でも、動いたら見たい」

「見て、帰ってください。倒さない」

「はい」

 返事をした自分の声が少し残念で、ミーナさんに笑われた。


 契約を一度読み終え、三人は窓口を離れた。

 入口の休憩台で、自分たちだけの条件を確認する。

「リゼさんの手が痛んだら、観測点の前でも戻る」

 俺が言う。

「私が言います。アルトさんが決めたことにしないでください」

「はい。言われたら戻ります」

「ミーナさんの午後へ間に合わない時も」

 リゼさんが続ける。

「私が言う。鐘の半分前に、どこにいても戻り始める」

「守護者が目の前でも?」

「目の前だから」

 ミーナさんは短く答えた。


「俺は、神剣を抜きたくなったら言います」

 二人が同時にこちらを見る。

「言うだけです。抜く前に」

「それ、必要」

 ミーナさんが頷く。

「強い剣を持ってる人が、黙って我慢して急に抜く方が怖い」

「私は、測りたい場所が増えたら言います」

 リゼさんも言う。

「追加で測らず、次回候補にします」

「私は、術を使えば届くと思ったら言う。でも、使って結果を作らない」

 三人の我慢を、無言の約束にしない。


 窓口へ戻り、署名する。

 アルト。リゼ。ミーナ。

 管理担当が三人の名と時刻を読み、銀貨を一枚ずつ別の小袋へ入れた。

「前払い、一人銀貨一枚。共同財布ではありません」

「受け取ります」

 俺は自分の袋を持ち上げた。

 確かに一枚。財布へ入れる前に、現在額を言う。

「九十七銀八十三銅から、九十八銀八十三銅」

「私の額は言わない」

 ミーナさんは自分の袋を外套へしまった。

「私も、自分の財布へ」

 リゼさんも同じだ。

 前払いを三人の食費へ自動で入れない。


 そこで、板獣の欠片の話を出した。

「昨日、ラウルさんが三銀と提示しました。見本一片は残してあります。売るなら、三人の取り分をどうしますか」

「今日の提示額じゃない」

 ミーナさんが先に言う。

「昨日の三銀。今日も同じか聞いてから」

「売ることには?」

「見本が残るなら賛成。上道は三人の仕事。一人一銀でいい」

 リゼさんは少し考える。

「査定で削った分と、見本の所有は?」

「見本は三人の共同物として宿の保管箱へ。売る欠片はラウルさんが端を削っています」

「なら、値が下がっても三人で相談。アルトさんだけで決めない」

「はい」


 契約を受けたから、すぐ迷宮へ入ることにはしなかった。

 今日は入口で貸台の現物を選び、歩く手順を通すだけ。調査は次の午前、三人の体調が揃った時だ。

 管理倉庫には、脚の違う台が四つあった。

 一つ目は重い鉄製。安定するが、持運びに二人要る。

 二つ目は木製で軽いが、脚が長く傾いた床で揺れる。

 三つ目は脚を畳めるが、留め具を両手で押す必要がある。

 四つ目は低い三脚で、右手だけでも板を置ける。

「四つ目を試します」

 リゼさんが右手で地図板を載せた。

 左掌は背中側へ回さず、胸の前で布に包んだまま。

「高さは?」

「膝より少し上。見下ろせます。鏡は置けません」

「鏡は使う契約じゃない」

「はい。境の線と石目だけなら、板で足ります」


 俺が三脚を持つ。

 重さは片手で運べる。だが神剣と同じ側に持つと、抜刀する時に落とす。

「台は左手。神剣は右」

「守護環を出す時は?」

 ミーナさんが聞く。

「台を置いてから。持ったまま壁を出しません」

「危険なら台を捨てる」

「はい。位置を覚えて帰る」

「覚えるだけじゃなく、地図へ」

 リゼさんが右手の鉛筆で、放棄位置の印を決めた。


 入口から最初の角まで、実際には入らず、管理倉庫の通路で歩く順を試す。

 俺が前。三脚を左手。リゼさんが中央、右手に板。ミーナさんが後ろ、退路を見る。

「アルト、止まる時に台を振らない」

「すみません」

「謝るより、置いて」

 三脚を壁側へ置く。

「迷宮なら、壁が安全とは限りません」

 リゼさんが言う。

「置く前に、床と上を見る。私は右側を見ます」

「私は後ろ。三人で同じ台を見ない」


 二回目は、通路の途中でミーナさんが「戻る」と言った。

 理由は午後の予定ではなく、練習で合図が通るかを見るためだ。

 俺は三脚を持ち直そうとして、止められた。

「危険の合図なら、台は置いて」

「借り物です」

「置いて帰っていい契約」

「位置を記録して、帰る」

 リゼさんが印を付ける動作だけ行う。

 三人は台を残し、入口役の管理担当まで戻った。

「一分十二秒」

 管理担当が砂時計を見る。

「台を持ち帰った時は?」

 次の試行では二分近く掛かった。

 借り物を守ることで、退路の時間が倍になる。


「本番では、危険なら置く」

 俺は言った。

「神剣は置かないですけど」

「そこは聞いてない」

 ミーナさんが笑う。

「でも、神剣を拾うために戻らない配置にして」

「神剣は最初から腰です」

「自慢はあと」


 練習を終え、貸台の札へ三人と管理担当が印を付けた。

 今日の持出しはない。次回、入口で受領する。

 契約は署名済み。前払い受領済み。調査は未実施。追加報酬は未発生。

 踏破依頼も未完のまま。守護者は倒していない。


 町へ戻る途中、ラウルさんの店へ寄った。

 板獣の欠片を出す前に、三人が揃っていることを伝える。

「昨日の三銀、今日も同じですか」

 俺が聞く。

 ラウルさんは削った端を見て、肩をすくめた。

「今日は二銀八十銅。朝、似た板が一枚入った」

「下がった」

「昨日売らなかった分だ。俺の都合も変わると言った」

 ミーナさんは欠片を持ち上げず、三人を見る。

「一人へ割ると?」

「九十三銅ずつ、余り一銅」

 リゼさんが右手で計算する。

「一銅は見本の保管料へ?」

「宿へ確認してから。勝手に料金を作らない」

 俺は言った。


 三人は売却を選んだ。

 ラウルさんが二銀八十銅を数え、九十三銅ずつ三つへ分ける。余り一銅は、ラウルさんへ値引きとして残さず、共同の見本袋へ封と一緒に入れた。

「硬貨を見本と一緒に?」

 ラウルさんが眉を上げる。

「宿の保管料が必要なら、三人で使う候補です。不要なら次に決めます」

「変な財布だな」

「共同財布ではありません。一銅の用途保留です」

 俺の財布は、前払い後の九十八銀八十三銅に九十三銅を加え、九十九銀七十六銅になった。

 銅百で銀一へ替える制度ではないため、勝手に繰り上げない。


 宿の女主人は、見本一片なら小さな保管箱へ置けると言った。

「三日まで、宿代の範囲。危ない物じゃないって鑑定札を付ける。それ以上なら相談」

「一銅は?」

「いらない。勝手に棚代を作らないでおくれ」

 余り一銅は、三人で次回会った時に決める封筒へ入れた。誰か一人の財布へは入れない。


 昼前、三人は別れた。

 ミーナさんは午後の仕事へ。リゼさんは左掌を休め、貸台の高さを図へ書く。俺は宿へ戻り、神剣と守護環を点検する。

「明日の朝、手が痛かったら?」

 俺が聞く。

 リゼさんは自分の左手を見た。

「延期を言います。前払いは機材や体調の条件を管理へ伝え、三日以内で再設定」

「俺一人では行きません」

「分かっています」

 ミーナさんも短く頷く。

「私が遅れた時も、二人で入らない。契約は三人」


 今日、俺は守護者を斬らなかった。

 迷宮へさえ入っていない。

 それでも、銀貨一枚の前払いを受け取り、売却の九十三銅を自分の財布へ入れた。三人の条件を契約へ書き、危険時に貸台を捨てる時間まで測った。


 前払いは、未来の勝利を先に褒める金ではない。

 署名した範囲へ責任を持ち、できない条件なら帰って報告するための金だ。


 俺は宿の部屋で、神剣を一度だけ抜いた。

 刃は窓の光を細く返す。

「明日は、抜かない仕事です」

 少し残念で、かなり楽しみだった。

 強い敵を倒す前に、倒さず測って帰れるか。

 その答えまで、もう前払いを受け取っている。


 寝る前、俺は契約の写しを神剣の隣ではなく、財布と同じ箱へ入れた。

 剣を抜く条件より、銀貨を受け取った条件を先に読める場所だ。

 攻撃禁止。床石三枚。午前の鐘二つ。三人契約。貸台は危険時放棄可。守護者が動かなければ、動かなかった事実を持ち帰る。


 守護環の表面は、今日も同じ淡い色だった。

 回復したようにも、空になったようにも見えない。

「明日、壁を出さなくても帰る」

 声にすると、神剣の強さを疑っているようで少し悔しい。

 けれど、契約書には環を使えとは書いていない。


 財布には九十九銀七十六銅。

 別封筒に、三人の用途未定一銅。保管箱には板獣の見本一片。調査前払い一銀は俺の財布。踏破の前受けは神剣と守護環のまま、依頼未完。

 同じ回廊から来た物でも、箱を分ければ何の金かを忘れない。


 俺は明日の携帯食を買い足さなかった。

 宿に残る分で足りるか、朝に三人で確認する。前払いを受け取った夜に、成功後の肉まで予約しない。

「帰ってから、買います」

 今度の独り言は、我慢ではなかった。

 斬らずに帰る仕事を終えたあと、自分の銀貨で食べる肉の方が、きっとおいしい。

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