署名した分だけ、前払いを受け取ります
【前回までの人物】
・アルト:神剣と守護環を持つ探索者。守護者を倒さず帰ったことで、攻撃禁止の境界調査を提案された。
・リゼ:地図と鑑定を担う同行者。左掌を休め、右手だけで使える貸台の条件を契約へ入れた。
・ミーナ:短期契約の魔術師。調査案を持ち帰り、明後日の朝に三人で読み直すことにした。
・管理担当:守護者を誘導せず、境界の外から測る仕事を一人銀貨一枚の前払いで提案している。
契約の日の朝、俺は神剣より先に財布を数えた。
銀貨九十七枚と銅貨八十三枚。前の宿と食事を払った後の額で、昨日は新しい銀貨を受け取っていない。
板獣の欠片も売っていない。ラウルさんが三銀と提示しただけだ。
「前払いを受ける前から、増えた顔をしない」
俺は自分へ言い、財布を閉じた。
中庭では、守護環を試さなかった。
前回の探索日に朝三秒、上道で八秒。残量は分からない。休ませた一日で回復したかも分からない。
光が同じに見えることを、満タンの証拠にしない。
神剣は鞘から指一本ぶんだけ抜き、刃の欠けがないことを見て戻した。斬れるか確かめるために庭の木を切らない。
宿の女主人が朝食を運んできた。
「今日は壁を出さないのかい」
「調査契約を読む日です。使うか分からない物を、朝の試験で減らしません」
「賢くなったね」
「前払いがあるので」
「まだ貰ってないだろう」
女主人は豆の皿を置き、笑った。
「肉は、硬貨が袋へ入ってからにしな」
「はい」
宿代と朝食の新しい金額はここで作らない。今朝の食事は前夜までの通常契約の範囲だ。
入口の管理窓口へ着くと、リゼさんが先に待っていた。
左掌の布は薄くなっている。だが、地図筒は右肩。左手には何も持っていない。
「腫れは?」
「昨日より引いています。施療所で、右手作業なら午前の鐘二つまで許可されました」
「痛みは?」
「握らなければ弱いです。貸台を使っても、左手で押さえません」
「受けられそうですか」
「契約を読んでからです」
昨日と同じ答えだった。
ミーナさんは少し遅れて来た。
濃紫の髪を高く結び、藍の短外套の留め具を片手で直している。
「午後の予定、変わってない。午前の鐘二つ。入口へ戻る時間込み」
「はい」
「アルト、顔がもう銀貨一枚持ってる」
「財布にはまだありません」
「顔の話」
リゼさんが小さく笑う。
「肉も、まだです」
「そこまで見える?」
「いつもです」
管理担当の女性は、三枚の契約案を机へ並べた。
前回の書面から、三つ変わっている。
境界から三歩、は入口側から床石三枚へ。欠けた石も一枚と数え、図へ残す。
守護者が動かなければ、動かなかった事実を報告すればよい。
貸台は危険時に放棄可。回収できなかった位置を記録し、代金は請求しない。
「追加があります」
女性は第四項を指した。
「観測点へ着く前に別の魔物が出た場合、排除は許可します。ただし、守護者への攻撃禁止は変わりません」
「神剣を抜いていい?」
「別の魔物へは。守護者へ刃が触れた時点で、境界調査は中止です」
「中止でも、前払いは返す?」
「故意に攻撃した場合は返還。退路確保で不可避だった場合は、記録を審査します」
「審査する人は?」
「管理責任者二名。私一人では決めません」
ミーナさんが、別の行を指で叩く。
「『自然に動く時だけ』が消えてる」
「床石三枚の観測点まで近づくことは契約内です。その位置で守護者が動けば、誘導違反にはしません。それ以上近づく、音を鳴らす、物を投げる行為は禁止」
「砂術は?」
「境界の外で退路確保に使うのは可。守護者の足元や境界内へ作用させれば誘導扱い」
「私は使わない前提。帰れない時だけ、外側の既存砂へ」
「その方針を契約の備考へ入れますか」
「入れて。使わない義務じゃなく、予定」
管理担当は、術者判断・原則不使用、と書いた。
リゼさんは貸台の絵を見る。
「脚は三本。床石の溝へ入りますか」
「脚先は平らです。溝へ固定する器具はありません」
「傾いた床で滑る可能性があります」
「入口で現物を選べます。合う物がなければ調査を延期してよい」
「延期で前払いは?」
「機材不適合が理由なら返還不要。三日以内に再設定。三日を過ぎて受けないと決めたら返還」
左手を隠して仕事を取らず、使える道具がなければ帰れる条件になった。
俺は報告項目を読む。
境界の幅。入口から観測点までの所要時間。守護者が動いたか、動かなかったか。槌が自然に動いた場合だけ、線の外へ届いた最遠点。
「三項目が揃えば、追加で一人一銀」
「槌の距離は、揃わなくてもいいです」
管理担当が答える。
「動かすための行動は禁止です」
「分かっています。でも、動いたら見たい」
「見て、帰ってください。倒さない」
「はい」
返事をした自分の声が少し残念で、ミーナさんに笑われた。
契約を一度読み終え、三人は窓口を離れた。
入口の休憩台で、自分たちだけの条件を確認する。
「リゼさんの手が痛んだら、観測点の前でも戻る」
俺が言う。
「私が言います。アルトさんが決めたことにしないでください」
「はい。言われたら戻ります」
「ミーナさんの午後へ間に合わない時も」
リゼさんが続ける。
「私が言う。鐘の半分前に、どこにいても戻り始める」
「守護者が目の前でも?」
「目の前だから」
ミーナさんは短く答えた。
「俺は、神剣を抜きたくなったら言います」
二人が同時にこちらを見る。
「言うだけです。抜く前に」
「それ、必要」
ミーナさんが頷く。
「強い剣を持ってる人が、黙って我慢して急に抜く方が怖い」
「私は、測りたい場所が増えたら言います」
リゼさんも言う。
「追加で測らず、次回候補にします」
「私は、術を使えば届くと思ったら言う。でも、使って結果を作らない」
三人の我慢を、無言の約束にしない。
窓口へ戻り、署名する。
アルト。リゼ。ミーナ。
管理担当が三人の名と時刻を読み、銀貨を一枚ずつ別の小袋へ入れた。
「前払い、一人銀貨一枚。共同財布ではありません」
「受け取ります」
俺は自分の袋を持ち上げた。
確かに一枚。財布へ入れる前に、現在額を言う。
「九十七銀八十三銅から、九十八銀八十三銅」
「私の額は言わない」
ミーナさんは自分の袋を外套へしまった。
「私も、自分の財布へ」
リゼさんも同じだ。
前払いを三人の食費へ自動で入れない。
そこで、板獣の欠片の話を出した。
「昨日、ラウルさんが三銀と提示しました。見本一片は残してあります。売るなら、三人の取り分をどうしますか」
「今日の提示額じゃない」
ミーナさんが先に言う。
「昨日の三銀。今日も同じか聞いてから」
「売ることには?」
「見本が残るなら賛成。上道は三人の仕事。一人一銀でいい」
リゼさんは少し考える。
「査定で削った分と、見本の所有は?」
「見本は三人の共同物として宿の保管箱へ。売る欠片はラウルさんが端を削っています」
「なら、値が下がっても三人で相談。アルトさんだけで決めない」
「はい」
契約を受けたから、すぐ迷宮へ入ることにはしなかった。
今日は入口で貸台の現物を選び、歩く手順を通すだけ。調査は次の午前、三人の体調が揃った時だ。
管理倉庫には、脚の違う台が四つあった。
一つ目は重い鉄製。安定するが、持運びに二人要る。
二つ目は木製で軽いが、脚が長く傾いた床で揺れる。
三つ目は脚を畳めるが、留め具を両手で押す必要がある。
四つ目は低い三脚で、右手だけでも板を置ける。
「四つ目を試します」
リゼさんが右手で地図板を載せた。
左掌は背中側へ回さず、胸の前で布に包んだまま。
「高さは?」
「膝より少し上。見下ろせます。鏡は置けません」
「鏡は使う契約じゃない」
「はい。境の線と石目だけなら、板で足ります」
俺が三脚を持つ。
重さは片手で運べる。だが神剣と同じ側に持つと、抜刀する時に落とす。
「台は左手。神剣は右」
「守護環を出す時は?」
ミーナさんが聞く。
「台を置いてから。持ったまま壁を出しません」
「危険なら台を捨てる」
「はい。位置を覚えて帰る」
「覚えるだけじゃなく、地図へ」
リゼさんが右手の鉛筆で、放棄位置の印を決めた。
入口から最初の角まで、実際には入らず、管理倉庫の通路で歩く順を試す。
俺が前。三脚を左手。リゼさんが中央、右手に板。ミーナさんが後ろ、退路を見る。
「アルト、止まる時に台を振らない」
「すみません」
「謝るより、置いて」
三脚を壁側へ置く。
「迷宮なら、壁が安全とは限りません」
リゼさんが言う。
「置く前に、床と上を見る。私は右側を見ます」
「私は後ろ。三人で同じ台を見ない」
二回目は、通路の途中でミーナさんが「戻る」と言った。
理由は午後の予定ではなく、練習で合図が通るかを見るためだ。
俺は三脚を持ち直そうとして、止められた。
「危険の合図なら、台は置いて」
「借り物です」
「置いて帰っていい契約」
「位置を記録して、帰る」
リゼさんが印を付ける動作だけ行う。
三人は台を残し、入口役の管理担当まで戻った。
「一分十二秒」
管理担当が砂時計を見る。
「台を持ち帰った時は?」
次の試行では二分近く掛かった。
借り物を守ることで、退路の時間が倍になる。
「本番では、危険なら置く」
俺は言った。
「神剣は置かないですけど」
「そこは聞いてない」
ミーナさんが笑う。
「でも、神剣を拾うために戻らない配置にして」
「神剣は最初から腰です」
「自慢はあと」
練習を終え、貸台の札へ三人と管理担当が印を付けた。
今日の持出しはない。次回、入口で受領する。
契約は署名済み。前払い受領済み。調査は未実施。追加報酬は未発生。
踏破依頼も未完のまま。守護者は倒していない。
町へ戻る途中、ラウルさんの店へ寄った。
板獣の欠片を出す前に、三人が揃っていることを伝える。
「昨日の三銀、今日も同じですか」
俺が聞く。
ラウルさんは削った端を見て、肩をすくめた。
「今日は二銀八十銅。朝、似た板が一枚入った」
「下がった」
「昨日売らなかった分だ。俺の都合も変わると言った」
ミーナさんは欠片を持ち上げず、三人を見る。
「一人へ割ると?」
「九十三銅ずつ、余り一銅」
リゼさんが右手で計算する。
「一銅は見本の保管料へ?」
「宿へ確認してから。勝手に料金を作らない」
俺は言った。
三人は売却を選んだ。
ラウルさんが二銀八十銅を数え、九十三銅ずつ三つへ分ける。余り一銅は、ラウルさんへ値引きとして残さず、共同の見本袋へ封と一緒に入れた。
「硬貨を見本と一緒に?」
ラウルさんが眉を上げる。
「宿の保管料が必要なら、三人で使う候補です。不要なら次に決めます」
「変な財布だな」
「共同財布ではありません。一銅の用途保留です」
俺の財布は、前払い後の九十八銀八十三銅に九十三銅を加え、九十九銀七十六銅になった。
銅百で銀一へ替える制度ではないため、勝手に繰り上げない。
宿の女主人は、見本一片なら小さな保管箱へ置けると言った。
「三日まで、宿代の範囲。危ない物じゃないって鑑定札を付ける。それ以上なら相談」
「一銅は?」
「いらない。勝手に棚代を作らないでおくれ」
余り一銅は、三人で次回会った時に決める封筒へ入れた。誰か一人の財布へは入れない。
昼前、三人は別れた。
ミーナさんは午後の仕事へ。リゼさんは左掌を休め、貸台の高さを図へ書く。俺は宿へ戻り、神剣と守護環を点検する。
「明日の朝、手が痛かったら?」
俺が聞く。
リゼさんは自分の左手を見た。
「延期を言います。前払いは機材や体調の条件を管理へ伝え、三日以内で再設定」
「俺一人では行きません」
「分かっています」
ミーナさんも短く頷く。
「私が遅れた時も、二人で入らない。契約は三人」
今日、俺は守護者を斬らなかった。
迷宮へさえ入っていない。
それでも、銀貨一枚の前払いを受け取り、売却の九十三銅を自分の財布へ入れた。三人の条件を契約へ書き、危険時に貸台を捨てる時間まで測った。
前払いは、未来の勝利を先に褒める金ではない。
署名した範囲へ責任を持ち、できない条件なら帰って報告するための金だ。
俺は宿の部屋で、神剣を一度だけ抜いた。
刃は窓の光を細く返す。
「明日は、抜かない仕事です」
少し残念で、かなり楽しみだった。
強い敵を倒す前に、倒さず測って帰れるか。
その答えまで、もう前払いを受け取っている。
寝る前、俺は契約の写しを神剣の隣ではなく、財布と同じ箱へ入れた。
剣を抜く条件より、銀貨を受け取った条件を先に読める場所だ。
攻撃禁止。床石三枚。午前の鐘二つ。三人契約。貸台は危険時放棄可。守護者が動かなければ、動かなかった事実を持ち帰る。
守護環の表面は、今日も同じ淡い色だった。
回復したようにも、空になったようにも見えない。
「明日、壁を出さなくても帰る」
声にすると、神剣の強さを疑っているようで少し悔しい。
けれど、契約書には環を使えとは書いていない。
財布には九十九銀七十六銅。
別封筒に、三人の用途未定一銅。保管箱には板獣の見本一片。調査前払い一銀は俺の財布。踏破の前受けは神剣と守護環のまま、依頼未完。
同じ回廊から来た物でも、箱を分ければ何の金かを忘れない。
俺は明日の携帯食を買い足さなかった。
宿に残る分で足りるか、朝に三人で確認する。前払いを受け取った夜に、成功後の肉まで予約しない。
「帰ってから、買います」
今度の独り言は、我慢ではなかった。
斬らずに帰る仕事を終えたあと、自分の銀貨で食べる肉の方が、きっとおいしい。




