守護者の前でも、帰る道を選びます
【前回までの人物】
・アルト:神剣と守護環を持つ探索者。上道の獣を倒し、次の広間まで戻れる道を作った。
・リゼ:地図と鑑定を担う同行者。左掌を使わず、右手の鏡と記録で未見の道を測った。
・ミーナ:午前限定で同行する魔術師。砂術を一度使い、帰る時刻と仕事の範囲を守っている。
広間の手前には、三人ぶんの足跡がなかった。
あるのは、床の中央へ集まる太い擦れ跡と、奥の境を囲む鉄色の溝だけだ。
俺は神剣の柄から手を離し、先に足元を見た。さっき倒した板獣の包みは背中にある。守護環は今朝の三秒と、上道の八秒で二回使った。もう一度使える、と決めつける光は、腕に出ていない。
「ここから、戻れる所まで測ります」
リゼさんは右手の測鏡を上げた。栗色の編み込みが肩から前へ落ちる。左掌は布の中に置いたままだ。
「見える二点だけです。境の向こうは、鏡でも見えません」
「俺は、戸へ近づきすぎない位置を見ます」
「私は、下りる方」
ミーナさんが振り返る。高く結んだ濃紫の髪が、薄い迷宮灯を受けた。
「さっき使った砂は、もう当てにしないよ。戻る道は、普通の床として見る」
「はい」
成功した術を、次も床に残っていることにしない。
三人は広間へ入らず、境の一歩手前を横へ測った。
幅は、俺の壁一枚より少し広い。壁を出せても、広間全体を塞げるとは限らない。右には低い柱、左には欠けた段。柱の裏へ二人が入れば、俺から見えなくなる。
「隠れる場所はあります。でも、見えなくなりますね」
「私の鏡も、柱を透かしません」
リゼさんが、右手だけで板へ線を引く。
ミーナさんは段の縁を靴で軽く触れた。
「左は砂じゃない。固い粉。術で同じように粘るかは、試してない」
「では、使える場所には数えません」
俺は答え、地図板を持つ方へ一歩寄った。
その時、奥から低い響きが返った。
前に聞いた一度きりの音より近い。鉄の内側を、大きなものが指で叩いたような音だった。
境を囲む溝に、赤い光が一本走る。
「戻る?」
ミーナさんが短く聞く。
俺は広間と、二人の足と、来た道を見た。
「線がどこまで来るかだけ、ここから見たいです。広間には入りません。二人は戻る側へ」
「私は地図板を閉じます」
リゼさんが鉛筆を留める。
赤い光は境の下から左右へ分かれ、床の擦れ跡へ沿って止まった。
戸に見えたものが、ゆっくり奥へ沈む。
空気が変わった。
金属の匂いが強くなり、冷たい風が広間から押し出される。俺は神剣を抜いた。刃はいつもと同じ重さで手にある。光刃は出していない。魔力は八十のままだ。
境の向こうで、巨大な足が一つ床へ下りた。
鉄色の外殻。膝の位置だけで俺の胸より高い。全身は暗がりにあり、形はまだ分からない。
「守護者、でしょうか」
リゼさんの声が速くなる。
「そうかもしれません。まだ、名前も仕組みも分かりません」
俺が答えると、暗がりの足がもう一つ出た。
床の擦れ跡へ、ぴたりと重なる。
「歩く道が、先に残ってたんだ」
ミーナさんが、下りる方を見たまま言う。
守護者らしいものは、すぐには襲ってこなかった。広間の中央へ、重い体を一歩ずつ運ぶ。
肩の高さに、横長の板が見えた。盾か、体の一部かは分からない。右側には、床へ届く長い鉄の塊がある。
俺の神剣なら、斬れるかもしれない。
そう思った瞬間、足が前へ出そうになった。
「アルト」
ミーナさんの声が飛ぶ。
「正午に町へ戻る。いま、どこまで?」
聞かれて、俺は止まった。
守護者を倒せるか、ではない。今日、どこまで行くと決めたか。
「戸の手前を測ったら、戻ります」
「うん」
「でも、あれが追ってくるなら、逃げながら戦います」
「それは仕事」
彼女は杖を構えたが、まだ術を出さない。
リゼさんが右手の鏡を下げる。
「ここから入口までの角は、地図にあります。私が先に戻って、二つ目の角で待ちます。左手は壁につきません」
「俺が最後尾です」
「守護環を使うなら、出す前に言ってください。私は、見えない壁を勝手に数えません」
「はい」
俺たちは一歩ずつ下がった。
守護者らしいものが、広間の中央へ出る。
三メートルほどの高さ。石と鉄を重ねた体に、大きな盾のような左腕。右手の長い塊は、槌に見えた。顔に目はなく、胸の中央へ赤い線が一本ある。
最終迷宮の守護者でも、世界のすべてを知る存在でもない。ここは鉄牙回廊だ。目の前にいるのは、この広間を守る機構らしい。それ以上は、まだ知らない。
赤い線が明るくなった。
「動きます」
リゼさんが言う。
「二人、角へ」
俺は神剣を両手で構えた。
守護者が槌を上げる。腕の環へ意識を向けるより先に、床の擦れ跡を見る。槌は俺たちではなく、境の手前へ振り下ろされた。
轟音が回廊を揺らした。
床の溝から赤い光が走り、広間の入口へ薄い線を作る。砕けた石が飛び、俺の頬を一つかすめた。血が出るほどではない。
「線を越えて来ません!」
リゼさんの声が角から届く。
守護者は槌を戻し、赤い線の内側で止まった。
俺はさらに下がる。
「追わないなら、戦いません。戻ります」
声にすると、神剣を持つ腕の力が少し抜けた。
勝てないから逃げるのではない。勝てるかもしれなくても、今日の契約と帰る時刻を守る。
俺が線から離れると、守護者の胸の光が弱くなった。機構は槌を下ろし、広間の中央へ戻る。
戸は閉じない。こちらを追わないことも、次回同じとは限らない。
「見えた範囲だけ、覚えました」
リゼさんが言う。
「盾みたいな左腕、右の槌、胸の赤い線。床の線より外へは、今回は出ませんでした」
「今回は、です」
「はい。仕組みを決めるのは、入口で報告してから」
彼女の声に、怖さと楽しさが同時にあった。
二つ目の角まで戻り、三人で止まった。
俺は神剣を鞘へ入れる前に、刃へ欠けがないか見た。攻撃はしていない。光刃も出していない。魔力八十。守護環の三回目も使っていない。
「頬、見せて」
ミーナさんが言う。
「石が当たっただけです」
「それを、見てから決める」
彼女は指で触らず、明かりの下で確かめた。薄く赤いだけで、皮膚は切れていない。
「血なし。腫れたら宿で冷やす。いまは歩ける?」
「はい」
「返事と足」
前にも誰かに同じことを言われた気がして、俺は右、左と体重を掛けた。
「歩けます」
リゼさんは左掌を布の中へ置いたまま、右手で地図を開く。
「ここから境までの線、書いてもいいですか。休む時間は、まだあります」
「俺が板を持ちます」
「お願いします。左へ寄せすぎないでください」
俺は板の下だけを持った。
彼女は右手で、広間の手前に赤い線を引く。守護者の姿は、見えた形だけ。盾、と断定せず、板状の左腕。槌、と断定せず、長い鉄塊。余白に、追跡なし・一回、と記す。
「一回しか見てないから?」
「はい。次に同じとは限りません。それから、アルトさんが線を越えなかった時に戻ったように見えます。でも、因果はまだ」
「俺が逃げたから帰った、とは書かないんですね」
「逃げた、でもないです。予定どおり戻りました」
鉛筆の先を止めずに言われ、胸が少し温かくなる。
ミーナさんは来た道を見たまま笑った。
「本人が一番、戦いたそうな顔してたけどね」
「はい。それは、そうです」
「そこは否定しないんだ」
「神剣で斬れるか、見たかったので」
「次の仕事に残して」
彼女の声は軽いが、午前だけという約束を薄くしない。
「次も頼むなら、今日の分を終えてから相談。私が毎日空いてる前提にしないでね」
「はい。入口で今日の対価を確認してから、別に頼みます」
「よし」
帰り道で、さっき倒した板獣の跡を通った。
ミーナさんの砂術が残っていた場所は、もう普通の粉へ戻っている。俺の壁もない。三人は、行きに決めた足場だけで段を下りた。
途中、リゼさんが一度止まった。
「左手、痛みが増えましたか」
「いいえ。右で板を持つ時間が長くて、肩が疲れました。少し置きたいです」
「ここで休みましょう」
俺は荷物を下ろし、携帯食を三人へ出した。宿で四十銅を払って買った分だ。無料で増えた食事にはしない。
固いパンを噛むと、塩味が口へ広がる。
「守護者を見たあとに食べると、勝った後みたいです」
俺が言うと、ミーナさんが眉を上げた。
「まだ勝ってないよ」
「だから、勝った後に何を食べるかも、残っています」
「それならいい」
リゼさんはパンを小さく割り、右手で食べた。
「私は、戻ってから昨日の見本と今日の包みを並べたいです。そのあと、広間の図を清書します」
「守護者の形も?」
「見えた所だけ。盾と槌に見えましたが、図には形を書きます」
「俺は、斬る場所を考えていいですか」
「考えるのは、いいです。ただ、左腕が盾なら、正面から全部受けられるかもしれません」
「なら、右へ回る」
「右へ回れる床か、まだ測っていません」
「……次に見ます」
俺の答えに、二人が笑った。
強い剣を持っていても、床のない所へは回れない。前払いで守護環をもらっていても、残り回数は分からない。仲間がいても、本人の時間を勝手に次の一日へ足せない。
それでも、次に試したいことは増えていた。
入口へ戻った時、正午にはまだ少し余裕があった。
係は三人の顔を見てから、戻った人数を記す。
「上の道から、広間まで。踏破は?」
「まだです」
俺ははっきり答えた。
「広間に大型の機構らしいものを一体確認。境の線の内側で槌のような物を一度振り下ろしました。今回は追ってきませんでした。俺たちは戦わず戻りました」
「前受けの精算は、踏破後です。今日の素材は、別に持ち帰りですね」
「はい。守護環の前受けを、もう一度もらう話にはしません」
係は昨日からの記録へ続きを書いた。
ミーナさんの今日の仕事は、ここまでの同行分として区切る。入口で新しい報酬や前受けは発生しない。午前契約の対価と清算は既存の控えに従い、ここで金額を作り足さない。新しい恒久契約にも変えない。
リゼさんの左掌に追加の出血はない。図録と見本は本人が持つ。俺の新しい包みは未換金のまま。
係が回廊の古い見取図を出した。記されているのは入口から最初の分岐までで、今日の上道も広間も白い。俺たちの地図を取り上げて写すのではなく、報告した範囲だけを控えへ足す。
「赤い線は、通行禁止の印ですか」
リゼさんが尋ねる。
「この控えにはありません。前の探索者が広間まで届いた記録も、私の手元にはないです」
「では、私の図にも、境界らしい線、とだけ残します」
係は頷いた。
「守護機構なら、倒したあとに踏破印が出る可能性はあります。ただ、見ただけで、あれが最終の機構だとは扱いません」
俺は少し肩を落とした。
「倒したら、すぐ踏破だと思ってました」
「そうであれば楽ですが、回廊の奥が閉じているかもしれません。報告は、倒してから先を見てください」
強そうな敵を倒せば、全部の答えと報酬が同時に出るわけではない。
それでも、俺は嫌にはならなかった。斬る相手の先にも、開ける道がある。
組合の休憩台で、リゼさんは今日の地図を昨日の見本の横へ置いた。板獣から取った新しい包みは、まだ開けず、紐の色と重さだけを比べる。値段を知らないまま高価な戦利品とは呼ばない。
「昨日の薄い端より、少し重いです。でも、同じ材質かは、包みを開けて鑑定できる場所へ移ってから」
「売れるかは?」
「それもあとです」
「肉には、まだならない」
「アルト、全部を夕食へ換算しない」
ミーナさんが笑った。
俺は包みを持ち上げ、すぐに戻した。
「でも、次の携帯食の分にはしたいです」
「次も行くなら、食べる分を先に買う。それは正しいよ」
彼女は午前の契約を終えた人として、自分の午後の予定を確認した。
「明日は空いてない。次に頼むなら、明後日の午前を聞いて。今日の続きで、そのまま午後まで連れていくのはなし」
「分かりました。リゼさんは?」
「左手を休めて、今日の図を清書します。明後日なら、傷を見てもらってから決めたいです」
二人の返事は、剣の勢いだけでは変わらない。
「では、明後日の午前を候補にします。二人が無理なら、俺も一人では広間へ入りません」
神剣があれば敵は斬れる。だが、境の線を測り、帰る時刻を見てくれる人まで、剣からは出てこない。
俺たちは次の広間について、三つだけ決めた。
赤い線の外から左右の床を測る。守護環を使う場合は、二人の位置を声で確かめる。槌が線の外へ来るかを最初の一撃で見て、違えばその場で戻る。
倒す方法は、まだ一つに決めない。
俺は光刃を使うなら一回、と書きかけ、紙をリゼさんへ向けた。
「一回で足りますか」
「神剣なら、足らせたいです」
「希望と、計画を分けます」
「では、最初は通常の斬撃。通らない時に、射線と魔力を見て光刃を一回」
「それなら書けます」
紙の上に、俺の強さを疑う言葉ではなく、使う順番が残った。
鉄牙回廊は、まだ未踏破だ。
それを口にしても、悔しさだけではなかった。
「次は、守護者を倒しに行く?」
入口の外で、ミーナさんが聞く。
「はい。でも、二人が次も行けるかを聞いて、右へ回れる床と、戻る線を先に決めます」
「神剣は?」
「斬ります」
即答すると、リゼさんが笑った。
「そこは、変えないんですね」
「変える理由がないです。俺の剣は強いので」
朝の光の中で、神剣の柄を一度握る。
今日は抜いて、斬らずに戻した。
その一回も、負けではない。
前払いでもらった力を、急いで使い切るためではなく、自分たちで踏破を選ぶために持って帰る。
守護者の形が描かれた地図と、まだ使えるか断定しない環と、何でも斬れると信じられる神剣。
三つを別々に確かめながら、俺たちは町へ戻った。




