上の道も、一太刀で開きます
【前回までの人物】
・アルト:神剣と守護環を持つ探索者。持ち帰った板を売り、三人の次の午前の探索を相談した。
・リゼ:地図と鑑定が得意な同行者。左掌は療養中で、売らなかった薄い端を見本として預かっている。
・ミーナ:短期契約の魔術師。翌朝から正午の町への帰還を目安に、再び二人と鉄牙回廊へ行くことを選んだ。
翌朝、守護環は、窓のそばでも静かなままだった。
四月十四日。宿の中庭には、昨日と同じ所に洗濯物の影が落ちている。俺は袖を上げ、リゼさんが右手で持つ控えと、環の内側の光を見比べた。
明るく戻ったと言い切れるほどの違いは、俺には分からなかった。
それでも、腰には、昨日と同じ神剣がある。
「眠ったら全部元通り、とは、書いてありませんでしたね」
「はい。私の目が、朝の光に慣れただけかもしれません。昨日より明るい、とするなら、もう少し同じ所で見たいです」
栗色の髪の編み込みが、紙を覗く頬の横へ落ちた。彼女は右手の鉛筆を一度鞄へ戻し、髪を留め直してから、また紙を持った。左掌に物を挟んではいない。
俺は腕を下げた。
前の日に使った四回を、消えていないことにはしない。残りが分からないからといって、剣まで使えなくなった顔をする必要もなかった。
「試すなら、一回。今日、奥で使いたい分まで、ここで見せないでね」
濃紫の髪を高く結んだミーナさんが、庭の端を示す。
昨日とは別の、今日の午前の仕事で来てくれた人だ。夕方まで一緒にいるつもりで、俺たちの時間へ足してはいない。
「三秒、前へ出します。二人は、こちら側に」
「いる。桶の道も、空いてる」
青白い面が立ち、庭の端を隔てた。
俺は神剣を抜かず、出した位置と二人の足を見る。三秒で閉じると、光が細くなって腕へ戻った。
使えた。それを、これから何度でも使える、と言い換えなかった。
「今日、一回目ですね」
「はい。次は、回廊で必要になった時に」
彼女が、昨日の四つとは別の行に一本の線を引く。
まだ試していない帰り道まで守るために、今日はここでやめた。
宿の女主人が、桶を持って庭へ出てきた。
「朝ごはん、冷めるよ。壁が食べる分は、焼いてないからね」
「俺の分だけで、足ります」
ミーナさんが、俺のパンの皿を見た。
「足りるかな」
即座に言われ、俺は二人を見た。リゼさんまで、口元を隠している。
昨夜、俺は次の一泊を朝食付きで頼み、二銀を払った。夕食の肉と野菜で六十銅。今日の携帯食を一日分、四十銅で買って、包みは鞄へ入れてある。
百銀八十三銅から、合わせて三銀。
九十七銀八十三銅。
百を少し下回っても、減った分が全部、俺を今日へ連れてきている。寝台と、夕食と、途中で食べられる物。財布の数字だけを残して、腹を空かせて来る方が、今はもったいなかった。
女主人が今日の朝食を卓へ置く。昨夜払った分のパンと温かい汁を、俺はもう一度財布を開けずに受け取った。
「朝から、嬉しそうですね」
「今日は、食べてから神剣を抜くので」
「いつも、逆みたいに言わないで」
俺は笑い、パンの端を割った。
湯気の向こうで、今日も一緒に行く二人の顔が見えた。
鉄牙回廊の入口で、係が昨日の戻りの控えを開いた。
「三人で再入場ですね。上の道は、まだ見ていない所からと」
「はい。正午に町へ戻る目安です。全部を今日中に回るとは、決めていません」
「前受けの記録は、昨日の守護環のままです。戻った範囲だけ、また聞かせてください」
俺は頷いた。
核碑からもう一つ受け取るために、来たのではない。先にもらった一つを、持ったまま進むためだ。
入口の明るさを背にすると、空気が一段冷たくなった。靴底に、細かな石の粉がつく。昨日の地図にある角を一つ、二つと、三人で辿った。
リゼさんの地図板は、今日は最初から右脇へ寄っている。ミーナさんも、俺の肘の真横へ来ない。
中庭で揃えた足の場所は、石の床へそのまま描かれているわけではない。それでも、声を掛けるより前に、空けたい所が見えた。
上へ続く石の段で、俺は立ち止まった。
昨日、残した背板の一体は、その場にいなかった。だから消えたと決めることも、どこかで倒されたと数えることもできない。
金属を擦るような音が、段の上から細く届いている。
「上へ回ったのかもしれないね。別のがいるかも、だけど」
「いま見える角まで、測ります。向こうは、鏡でも見えません」
リゼさんは俺へ地図板を一度持ってほしいと頼み、右手で測距の鏡を出した。
目で捉えられる二つの端へ向ける。示されたのは、曲がり角までの、短い直線の長さだった。壁の向こうの獣の数が、数字になって出たわけではない。
俺は鏡を持つ彼女の前へ、頭を出さずに待った。
「ここから、あの角まで。三十メートルより内側です。段の右は、幅が急に狭くなっています」
「壁を出せても、右へ回る場所は、少ないですね」
「左の足元、見て。ここ、砂が溜まってる」
ミーナさんが、靴先で触れない距離を示した。
段の継ぎ目へ、細かな砂が寄っていた。広い砂地ではない。だが、彼女は回廊全部を止めるような顔をしていなかった。
「こっちを踏む時だけ、遅らせられる。大きいのを丸ごと固める、とは言わないよ」
「一歩、遅れれば、俺は前へ出られます」
「出る前に、壁をどうするか言って」
俺は環へ触れかけた手を止め、二人の後ろの床を見る。
下へ戻る石の段。剣を抜く時、肘の外へ誰も立たない位置。
そこを指すと、リゼさんが鏡をしまい、板を受け取った。
「私は、ここへ戻ります。左手では、壁に手をつきません」
「俺は前へ壁を出して、一度止めます。二人がこの段へ戻ってから、消して斬ります」
ミーナさんが、短く頷いた。
神剣が通る所まで、壁が代わりに考えてくれるわけではない。
その間を、今日の俺たちは、先に言葉にできた。
段を上がった所で、背板が動いた。
獣は、角の内側へ体を寄せていた。昨日と同じ一体かどうかは、まだ分からない。だが、あの板を丸める動きと、前脚の太さは見覚えがあった。
こちらへ向いた鼻先から、短い息が噴き出す。
「いた。左を空けるよ」
ミーナさんがリゼさんの方へ下がった。俺も一歩止まり、前方の床へ出す位置を指す。
「壁、出します」
腕の内側から、青白い光が前へ立った。
幅のある一枚。俺たちの前を塞ぎ、獣との間を隔てる。背中も、横も、勝手に守ってくれる壁ではない。
獣の前脚が、面へ当たった。
低い衝撃が回廊へ響く。俺の体を押し返す力にはならなかったが、爪の先がずれる音は、腹の下へ重く来た。
硬い面へ鼻先を押しつけ続けるのでなく、獣は端へ向きを変えた。
そちらには、さっきミーナさんが見た砂がある。
「そこ、一歩だけ」
彼女の手が床へ向いた。
砂のある狭い一帯が、濡れた土のように重くなる。踏み込んだ前脚が、思ったより深く沈んだ。獣はすぐに脚を引こうとし、肩を捩った。
動かなくなったわけではない。
それでも、剣の前へ出る一歩には、足りた。
「二人、段へ」
「戻りました。後ろ、空いています」
「私も。壁、閉じていい」
八秒目で、俺は壁を閉じ、神剣を抜いた。
光の面が消えた所へ、足を入れる。獣の肩はまだ、遅れた前脚へ戻ろうとしていた。
ルクシアの白い刃が、その背の板へ届く。
止まらない。
硬い物へ当たったはずなのに、腕へ来るのは、道が開く手応えだった。
一太刀で、獣の体が崩れた。
大きく横へ振り回して追わず、俺は前に置いた足を戻す。刃の向こうに二人はいない。光刃も飛ばしていない。
石へ板が当たる音が、回廊の奥へ転がった。
俺は、それが止むまで、神剣を下ろさなかった。
次の爪の音は、増えなかった。
ミーナさんは、角の上から下までを見て、ようやく手を下ろした。足元の砂は、もう普通に崩れている。
「……間に合った。固めすぎる前に、使ってくれたね」
「あの一歩、はっきり見えました」
答えると、息が少し速いのが、自分でも分かった。
剣が弱くなったので、誰かに埋めてもらったのではない。強いままの神剣を、さっきより迷わず振るために、二人がいた。
リゼさんが俺の靴の先を見た。
「昨日より、こちらへ戻る場所が、残ってました」
「はい。俺も、見えました。斬ったあとの方まで」
嬉しくなって顔を上げると、ミーナさんが笑った。
「その顔、帰るまで取っとく?」
「これは、いま、しておきたいです」
「いいよ。私も、今日は術を使った顔する」
彼女は少し胸を張ってから、壁際の乾いた石へ腰を下ろした。
短い術でも、疲れないわけではなかった。俺はすぐに次の角へ目をやらず、リゼさんと一緒に、戻る側と奥を分けて見た。
環へ手を触れる。
宿からここへ来て、三十秒よりはるかに長い時間が経っていた。今日は、朝の三秒と、いまの八秒。二回の間隔を詰めてはいない。
内側の光は薄くなっている。そこから残りの回数を勝手に読み取らず、リゼさんへ使った分を伝えた。
俺の魔力は八十のまま。
息は弾んでいても、光刃を飛ばしたあとの、体の内側が空く感じはなかった。
ミーナさんの息が落ち着くのを待ち、三人で先の音を聞いた。
静かな所にいると、服の擦れる音や、自分の水筒の蓋までよく響く。ここで音がしないから、その先も空だとは言えない。
リゼさんは、倒れた獣から、使えそうな背板の端を選んだ。
「今日は、ここを見本と比べたいです。全部を抱えて、段を下りるより」
「売れそうな所だけ、でいいですか」
「値段は、まだ分かりません。ただ、昨日と違う所を、持って帰れます」
彼女が見ている端は、俺の刃が通った所と、古く擦れた所が隣り合っていた。拾って帰る物が、財布の中身だけに繋がるわけではない。
周りを見る役を残してから、俺は選んだ板を布へ包んだ。
新しい一包み。昨日売った分も、昨日からリゼさんが持つ見本も、その中へ混ぜない。
「いま、それを宝箱みたいな顔で見てる」
「昨日、これが肉になるって分かったので」
「先に、調べる時間もくださいね」
「はい。冷める前に、とは、言いません」
リゼさんが、少し肩を揺らして笑った。
俺は包みの角を、二人へ向けない側へ直した。持ち上げた物が、今度もちゃんと帰り道を通れるように。
包みを留め終えると、リゼさんが、自分の鞄の小さい方の口を見た。
「昨日の見本、今日は、一緒に持ってきてよかったです」
「その場で、比べられましたね」
「はい。でも、いま全部を書こうとしたら、歩く時間がなくなります。帰ってから並べる分も、残したいです」
その言い方に、俺は少し驚いた。
気になる物があると、図録と現物を何度も見比べる人だった。今日は、分からない所をその場に残しても、楽しみが減る顔をしていなかった。
「帰ったら、俺も見ていいですか。俺が切った所だけじゃなくて」
リゼさんは顔を上げ、右手の鉛筆を握り直した。
「はい。こっちが好き、だけで選んでくれても、聞きたいです」
「私も、午前の分が終わってから、少しなら。でも、晩まで机に捕まえる話にはしないでね」
「二人とも、逃げる時刻は、先に教えてください」
「逃げるんじゃなくて、帰るんです」
笑った声を聞き、俺も頷いた。
今日の成果が、奥へ進んだ長さだけでなくなっていく。
帰って同じ机へ置きたい物があることも、俺が一緒に歩きたい理由になっていた。
上の道は、昨日、地図の白かった場所へ繋がっていた。
先にリゼさんが見える二点の距離を測り、ミーナさんが床の端を見た。俺は神剣をしまってから、誰が止まった時にも戻れる距離を保って歩いた。
腕の環を、次の角の答えとして先に出さない。
薄い灯りが床へ落ちる所で、リゼさんの声が弾んだ。
「ここ、下の角と繋がります。上から見える縁が、さっきの図のこっち側です」
彼女は右手で板を持ち、膝に預けられる場所へ座ってから、鉛筆へ持ち替えた。
俺は、紙へ近づきすぎない所で待つ。
書き足した線が、昨日の白い欄へ入っていく。
神剣の一太刀で開いたのは、獣の前だけではなかった。彼女が自分で見て、知っている道へ変えた場所も、その先へ残った。
「線、急に真っ直ぐになったね」
「嬉しくて、角を少し大きく描きました。ここは、直します」
「大きいままなら、俺たちも通りやすそうです」
「紙の中だけ、太って歩かないでください」
真面目な声で返され、俺もミーナさんも笑った。
彼女の鉛筆が、実際に見た幅へ線を戻す。
上手くいった顔のまま、間違えた所を直してよかった。
もう一つ曲がると、先に広い空間が見えた。
床の高さが揃い、その中央へ向かって、擦れた筋がいくつも寄っている。奥には、大きな戸のような境があった。
低い響きが、一度、そこから返ってきた。
俺の手が神剣の柄へ動く。
その動きを、リゼさんは止めなかった。ミーナさんも、勝ったから行こうと背中を押さなかった。
「いま、どこまで見たい?」
俺は、先の広さと、自分の腕を見る。
もう一度、壁を使えるかもしれない。使えたとしても、見えない奥の全部へ、今日の二人を連れていくと決まるわけではない。
正午に町へ戻る。その目安は、まだ俺たちの言葉の中にあった。
「戸の手前の、戻れる所まで。今日は、そこを測ったら引き返したいです。次は、ここから始められるように」
リゼさんが、境の手前に見える印を指した。
「私も、戸の前を描きたいです。開くかどうかは、近づく前に、周りの印を見てから」
ミーナさんは、今来た段へ体の向きを変えた。
「私は、その間、下りる方を見る。さっきの砂、ずっと残ってるつもりでは戻らないでね」
「はい。俺の壁も、もう出たままにはしてません」
俺は神剣の柄から手を離し、包みの留めを確かめた。
敵を一体倒したことと、鉄牙回廊を踏破したことは、まだ違う。守護環の前受け一枠も、そのままだ。
けれど、昨日、見えなかった上の道は、いま俺たちの足の下にある。
俺は、前を向くだけでなく、二人の足元も見てから一歩進んだ。
次に神剣を振る場所を、自分たちで選ぶために。




