切った欠片が、次の一日に変わる
【前回までの人物】
・アルト:神剣と守護環を持つ探索者。鉄牙回廊から三人で戻り、二体分の欠片を持ち帰った。
・リゼ:地図と鑑定を仕事にする同行者。左掌は療養中で、地図板や鏡は右手で扱う。
・ミーナ:短期契約で同行した魔術師。足元と退路を確かめ、次の同行日時はまだ決めていない。
銀貨が六枚、俺の前へ滑ってきた。
欠片を持って帰った時より、ずっと小さな音だった。
それなのに、その六つが一緒に光ると、朝の回廊まで明るくなった気がした。
昼食を終えて、三人で組合の買取窓口へ来ていた。
四月十三日。食堂の熱い皿はもう片づけてもらい、俺たちの手元には、油の染みていない地図と、二つの包みがある。
組合に場所を借りている素材商のラウルさんは、灰の混じった顎髭を撫で、空いている台を指した。
「そっちで広げていい。欠けた所を布へ引っ掛けるなよ」
爪に白い粉が残る手で、台の上の小石を払い落とす。
俺は一つずつ包みを下ろした。リゼさんは、左掌を使わずに済む台の高さを見てから、板を鞄の脇へ置く。
「食べ終わってから見たかったんです。欠片の方へ、肉の汁を付けそうだったので」
「俺は、肉を冷ましそうでした」
「そっちは困るね。大事な順番がある」
ミーナさんが笑い、壁の時計へ一度だけ目を向けた。
「私は、これを分けたら午後の用事に行く。まだ少しあるけど、奥の物まで全部調べ始めないでね」
「はい。今日持ってきた二つだけです」
リゼさんは、図録を置く場所を自分で空けた。
栗色の髪の左に編み込まれた細い束が、覗き込む頬の横へ落ちる。彼女は髪を耳へ戻し、俺に一つ目の布を開いてほしいと頼んだ。
薄い板が何枚か、重なっていた。
鉄牙回廊の獣の背にあった時は、もっと暗く見えた。窓から来た光で縁を透かすと、真っ黒ではない。鈍い茶色の層が、ほんの少し重なっている。
「これ、剣で切った端ですね」
リゼさんが、右手の鉛筆の先を、触れない距離で止めた。
「はい。一体目の、角へ行く手前で倒した方です」
「では、こっちは二体目。混ぜずに持ってきてくれて、助かりました」
彼女はもう一つの布を指した。
俺は両方を開く。回廊ではひとまず包んだ物が、明るい机の上で、別々の形を持った。
上の一体を倒した分はない。奥へ行かなかった分の宝もない。
それでも、空の布を埋めるために引き返さなくてよかった、と、いまは思えた。
ラウルさんは、俺たちが並べ終えるまで待っていた。
リゼさんが図録の縁へ指を置くと、向こうから、薄い板を一つ取り出す。
「比較するなら、これも見とけ。こいつは、運ぶ途中で割れた分だ」
店の見本だった。
縁に白く筋が入り、そこから小さなひびが枝分かれしている。俺たちの持ち帰った板は、一方の端だけが不思議なくらい滑らかだった。
「切ったから、全部駄目だと思ってました」
俺が言うと、ラウルさんは鼻で笑った。
「何に使うつもりで駄目なんだ。獣の背に戻すのか?」
「それは、戻したくないです」
「なら、買う方の使い道も聞け。あんたの剣の使い道だけで、こっちの台を決めるな」
怒った声ではなかった。
俺は、もう一度、板の切り口を見た。
荷運びの時には、箱を開けずに運べればいい荷物もあった。中身を傷めずに開けてほしい荷物もあった。同じ箱だから、全部閉じたままが正しいわけではない。
リゼさんが、見本と持ち帰った物を交互に見る。
「割れて層が剥がれた所より、使える面を取りやすいんですね」
「そういうことだ。こいつらは、小さな保護板の材料へ回せる。ただし、薄すぎる端まで同じ値じゃない」
ラウルさんは、一つ目の包みから、二枚を横へ分けた。
神剣で斬れば何でも高くなる、ではなかった。欠けた端は欠けた端だし、土を噛んだ所もある。大きな切り口が綺麗でも、全部を一つの値にしては売れない。
その分け方を、リゼさんは自分の図にも残した。
「買わない分は、こちらで持ち帰れますか」
「いいぞ。引き取る分と混ぜなけりゃな」
彼女は頷き、薄い端を示す小さな線を引いた。
「見本にしたいです。値段の付いた所だけ持っていると、次に、どこで違ったか分からなくなるので」
「見本まで全部売らねえのは、いいことだ」
ラウルさんの顎髭が、少し動いた。
褒められて、リゼさんの返事が一拍だけ遅れる。
「……はい。これは、持っておきます」
俺は、自分が斬った面ばかり見ていたことに気づいた。
リゼさんが欲しかったのは、売る物の名前を当てることだけではない。次に同じ物へ会った時、自分で比べられる物を、今日の中から選んでいた。
値を出す時、ラウルさんは、二つの包みをまた別々に寄せた。
「こっちが五銀。こっちが七銀。両方買うなら、十二銀だ。いま見せた分を除いて、ここに載せた板だけ」
俺は、銀貨より先に、台へ指された範囲を見た。
「この二つで、十二銀」
「ああ。次に持って来た物まで、その値になるとは言ってないぞ」
「はい。でも、今日の分が、ちゃんとあるんですね」
自分で言って、少し変な言い方だと思った。
倒せたのが二体だけだった、と、戻る時には思っていた。いま、俺の前には、宿へ何日も帰れる分の値段が付いている。
ミーナさんが、台の横から俺を覗き込んだ。
「なくなると思ってたの?」
「剣が強すぎて、売れる所まで壊したかと」
「一振りで済ませたのは、よかったね」
「それ、褒めてます?」
「今のは、ちゃんと」
彼女は笑ってから、ラウルさんへ向き直る。
「私は、その値なら売っていい。二人は?」
「私も。残す端は、この小さい包みへ入れました」
リゼさんが、図録の横へ布を寄せた。
俺も売ると答えた。ラウルさんは板を買い取る側の台へ移し、銭箱を開ける。
薄い金属の音が、十二回した。
神剣を売ったのでも、守護環を預けたのでもない。
あの剣で倒して、三人で拾って、持って戻った物の値段だった。
そこで、銀貨六枚が、俺の前へ来た。
ミーナさんは自分の三枚を、指で一枚ずつ裏返して受け取る。
「術を一回も使わない日にも、三銀ある」
嬉しそうな声だった。
俺は顔を上げる。
「ミーナさん、使ってない所ばかり言いますね」
「私の稼ぎ方だからね。何を使うと、どれだけ疲れるかは知っておきたい。今日は、使わないで戻った分も、悪くない」
彼女は銀貨を財布へ落とした。
見張ったことも、床の欠けを見つけたことも、敵の数へ入れるより分かりにくい。それを俺が代わりに長く褒めなくても、彼女自身が、今日の仕事へ値段を付けて受け取れた。
リゼさんも、右手で三枚を確かめた。
俺は布の端が台から落ちそうになるのを押さえ、彼女がしまうのを待つ。
「今日、共通の買い物はありませんでしたから、十二銀を、そのまま二対一対一ですね」
「はい。飯は、別で払った分のまま」
俺は答えた。
食堂で払った七十銅を、もう一度皆の報酬から引かなかった。リゼさんの昼食も、ミーナさんの汁の皿も、それぞれが選んで払った物だ。
俺の九十四銀八十三銅に、六銀が加わる。
百銀八十三銅。
百の所で、指が止まった。
「どうしたの、数え直す?」
ミーナさんに聞かれ、俺は首を振った。
「百銀、超えました。装備を買って、泊まって、食べても」
いま持っている金だけを言った。先に数えた銀貨を、もう一度足したのでも、まだ手に入れていない奥の宝を数えたのでもない。
リゼさんが、少し笑う。
「今日は、食べた後に超えましたね」
「そこが、かなり嬉しいです」
「うん。次は、肉を我慢しなくても歩ける」
ミーナさんの声に、俺も笑った。
札や勘定だけで生活が変わるとは、前は思っていなかった。けれど、次の食事のために今日の角を無理に越えなくてもいいことは、確かに、俺の足を軽くした。
窓口を離れる前、リゼさんは残した板の端をもう一度見た。
「これ、私が預かってもいいですか。地図に、見本の番号も付けたいので」
「はい。あの二つを持って歩くより、小さくなりましたね」
「でも、見本は増えました」
弾んだ声だった。
全部を知ってからでないと人へ渡せない、という顔ではなかった。知らなかった物を、次に調べるために持って帰る顔だった。
小さな見本は、リゼさんの鞄へ入った。売った板はラウルさんの台に残る。白鐘から持つ刻印板は、俺の荷の中だ。
値が付いたからといって、持っている物を全部売ったわけではない。
宿へ戻る道で、俺は腕を見た。
守護環の内側は、朝より薄い光のままだった。明るい通りで見ると、回廊の中で見た時とまた違う。
食事をして、買取を待った。時間は過ぎたが、それだけで満タンへ戻ったと言える印は見つからなかった。
俺は、ミーナさんへ声をかける。
「行く前に、壁の位置だけ、もう一回見てもらえますか。敵のいない所で」
「いまから鉄牙へ戻る、じゃなくて?」
「戻りません。足を置く所を、俺も横から見たいです。前を向いたままだと、二人の足が見えないので」
ミーナさんの歩みが、少し緩んだ。
「それなら、短く。場所を借りられたらね」
リゼさんも、右手で鞄の帯を直した。
「私も、紙を動かす時にどこへ寄ったか、見てほしいです。剣の幅まで、後ろからは見えなかったので」
誰か一人が正しい位置を全部教えるのではない。
朝、三人で帰った時の、三人に違って見えていた所を合わせたかった。
宿の女主人は、中庭の桶を二つ重ねながら、俺たちの頼みを聞いた。
白の混じった黒髪を押さえ、乾いた洗濯物と、土の端を見比べる。
「剣を振るなら、洗濯物は相手にしないでおくれよ」
「今日は、抜く前に止めます。壁を一回だけ、出したいんです」
「なら、あの端。戸から井戸までの間は空けといて。最後に、そこへ置いた物を戻す。それでいいなら」
女主人が指した端へ、俺は鞄を運んだ。
通り道へ何も置かず、三人で場所を見る。踏んで滑る土も、背中の壁も、朝の回廊とは違う。ここでできたから、向こうの角まで同じように歩けるとは思わなかった。
ミーナさんは地面へ枝を一本、置いた。
「これは壁の場所。まだ、光は出さないで」
俺は腕を上げかけて、下ろした。
「はい。先に、立ちます」
リゼさんが、枝の手前から横へ一歩ずれた。
俺も二人の側へ立つ。そうすると、朝は広いと思った自分の肘の脇が、思ったほど空いていなかった。
「俺がここで抜くと、リゼさんの板へ、柄が当たりそうです」
「私は、こちらの足から動いた方がいいですね。左側を、急に空けようとしていました」
リゼさんは地図板を右脇へ抱え直す。左掌では何も押さえない。
ミーナさんが、枝の端の外へ回った。
「私なら、ここまで来る。でも、壁の外に出たら守ってもらえない。いまのは、近くへ寄った方が見やすいだけ」
俺は彼女を見て頷いた。
守護環を出せることと、みんなを守れることの間に、こんなに足の置き方があった。
それでも、朝より面倒になったとは思わなかった。
どこへ立てば一緒に使えるかを、今度は、三人で選べている。
枝を片づけ、二人がこちら側へ揃ってから、俺は環へ意識を向けた。
「前へ出します。四秒で消します」
「いるよ。リゼも、こっち」
ミーナさんが答える。
青白い一枚が、中庭の端へ立った。
向こうの景色が、薄い光を一枚隔てて見える。リゼさんが右へ板を寄せ、ミーナさんは、俺の靴の横を空けた。
俺は、神剣の柄へ手を置く。
抜かない。
柄を持った肘が、誰の持ち物にも触れていないことを見て、手を離す。
四秒で、壁を消した。
何も斬らなかったのに、今度あの獣へ向かう時の自分の姿が、少し変わった気がした。
「いま、私、先にアルトへ寄りすぎた」
ミーナさんが自分の足を見下ろした。
「避けてくれたから、気づきました。次は、こっちを空けます」
俺は土を靴で軽く指す。
「壁が消える前に、二人がもう一歩、戻れる方ですね」
リゼさんが言った。
彼女の声を聞き、俺は、朝、前ばかり見た自分の目を思い出す。
次に見たい物が、いまは前だけでなかった。
輪の光は、試す前よりわずかに薄くなった。残りの回数は、まだ言えない。四度目を使えたことだけを、リゼさんに書いてもらった。
朝の三秒、四秒、五秒に、いまの四秒。一回ずつの間は、三十秒よりずっと長い。俺の魔力は八十のまま、光刃も使っていない。
今日は、ここで終わりにした。
同じことを何度も繰り返して輪を空にするより、いま見えた足の位置を、次の回廊へ持っていきたかった。
枝と鞄を戻すと、女主人が、井戸への道を歩いて通った。
「うん。桶の通る所は、前より広いね」
「最後だけ、上手くなりました」
俺が答えると、彼女は短く笑って、桶を持っていった。
ミーナさんは、外套の紐を結び直した。
「じゃあ、私は行く。今日の三銀、全部食べないようにはする」
「それ、俺へ言ってます?」
「半分、自分。半分は、顔に書いてある人」
俺は財布へ触れかけ、やめた。
「次は、明日の朝から、正午に町へ戻る目安で考えています。ミーナさん、空いていますか」
初めて、その形で頼めた。
彼女は、少しだけ考えてから頷いた。
「明日の午前なら、取れる。今日見た二つ目の角から先を、いきなり全部回る話にはしないでね」
「はい。上の道と、残った一体は、位置もまだ分かりません。輪も、朝、同じ場所で見てからにします」
「私は、今日の地図と見本を持っていきます。左手は、まだ休ませたままで」
リゼさんが自分の希望を足した。
俺は二人を見る。
「取り分は、今日と同じ二対一対一。共通に買う物があれば、買う前に決めたいです」
「うん。その午前の依頼なら、私は受ける」
ミーナさんが、はっきりと答えた。
明日の全てでも、この先ずっとでもない。
それでも、次の一回が、自分たちの言葉で決まった。
彼女を送り、俺たちは中庭の荷を持ち上げた。
リゼさんの鞄の中で、小さな板の見本が、布越しにかすかに触れ合った。
「明日は、もう少し先が描けるといいですね」
「はい。今日、帰ってきた所から」
俺の財布には、百銀八十三銅がある。
腰には神剣があり、腕には、まだ使い方を覚えている途中の守護環がある。
切った欠片を、ただの欠片で終わらせなかった人たちと、明日も同じ入口へ行く。
次に何を見たいかを考える時間まで、今日の報酬に入っている気がした。




