一枚の壁で、帰り道まで
【前回までの人物】
・アルト:鉄牙回廊で守護環を前受けした探索者。神剣を保持し、入口側の角で一体の獣を倒した。
・リゼ:地図と鑑定が得意な同行者。左掌は療養中で、右手で地図板を扱う。
・ミーナ:当日の昼過ぎまで同行する魔術師。三人は次の角を確認して、一度戻ると決めた。
次の角の先には、背中が二つあった。
一つは、床へ伏せている。もう一つは、石の段の上で、金属みたいな板をゆっくり持ち上げた。
俺は、神剣の柄へ手を置いたまま、そこで止まった。
四月十三日の午前。鉄牙回廊へ初めて入って、二つ目の角だった。
先ほど一体を倒した所から、まだ遠くない。腰の神剣も、腕の守護環もある。もっと行けると思う気持ちは、目の前の背板を見ても消えなかった。
ミーナさんの声が、横から来た。
「二体。右の段、もう一つ奥へ繋がってる」
濃紫の髪が、彼女が顔を少し傾けた拍子に揺れる。剣の先ではなく、足を置く所を見ていた。
リゼさんは、地図板へ右手の鉛筆を当てた。
「見える所だけ、描きます。奥の上は、まだ測れません」
鏡で測れるのは、目で捉えた二点の間、三十メートル以内。角の向こうや、石の裏を透かして読む道具ではなかった。
俺は二人の位置を見てから、正面へ戻った。
「今日は、ここから戻ります」
言うと、胸の奥が少し、むずむずした。
弱いから戻る、と言われるのが嫌だったのではない。強い剣を持っている自分が、一度も試さずに角を離れることへ、まだ慣れていなかった。
ミーナさんは、俺の手元へ目をやった。
「いまの、私に言われる前だったね」
「次の角を見たら戻るって、話したので。見たら、思ったより、先を見たくなりましたけど」
「それは、帰ってから言ってもいいやつ」
彼女は短く笑い、後ろへ目を向けた。
「いまは、帰る道、空いてる」
俺は頷いた。
守護環を選んだ日に、守られる人を連れて、どこまでも進むと決めたわけではなかった。
背を向ける前に、リゼさんが小さく声を出した。
「一体、起きます」
下にいた獣の脚が伸びた。
鼻先が床をなぞり、こちらへ向く。俺たちの足音か、さっきから微かに鳴る金属の擦れる音か。どれへ反応したのかは分からなかった。
上の一体は、動かなかった。
俺は神剣を抜かず、二人へ先に言う。
「一つ前の広い所まで、下がれますか」
「私は、板を持って歩けます。急に、左へは寄りません」
リゼさんが答えた。
包帯の巻かれた左掌は、今日も荷を支えていない。さっき作ってもらった地図の白い続きより、その手がまだ治っていないことの方を、俺は先に見た。
「私が足元を見る。アルト、追いつかれそうなら、壁を出す前に言って」
ミーナさんが、石の継ぎ目を一つ跨いだ。
俺は、三人の距離を広げすぎない速さで下がる。
最初に壁を出して、ミーナさんを外へ置いた時の顔が、頭をよぎった。
今度は、嬉しいだけの顔で出せなかった。それは、嬉しくなくなったという意味ではなかった。
角を一つ戻る前に、爪の音が速くなった。
追ってきたのは、下の一体だけだった。
上の一体が来ない理由を考えるより先に、俺は、壁を出す位置を指す。
「前へ、壁を出します。二人は、こちら側に」
「いる。後ろの荷も、引っ掛かってない」
ミーナさんの短い返事を聞いた。
リゼさんの靴が、床の欠けより手前へ揃う。
青白い面が、獣と俺たちの間へ立った。
爪が当たる音は、思っていたより近かった。
獣の肩が光の面へ押し返され、滑る。先ほどの一体と同じように、正面から何度も飛び込むのでなく、端へ回ろうとした。
だから、俺は、壁の向こうへ勝った顔をしなかった。
「リゼ、そこの一歩は、まだ」
ミーナさんが言い、後ろで靴の動きが止まる。
「はい。床が欠けている方ですね」
リゼさんの声を聞いてから、俺も自分の足を見直した。
獣より先に、退路の細い所へ自分が立ってはいけない。
俺は半歩だけ、平らな方へ寄る。剣を振る幅と、二人が戻る幅を、同じ場所へ取らないようにした。
壁の向こうの獣が、左へ回った。
俺は、声を出してから障壁を閉じる。
「消します。そちらへは、追いません」
光がなくなった瞬間、獣の脚が床を蹴った。
端へ回るつもりだった身体が、正面の空いた所へ向きを変える。
俺は神剣を抜いた。
硬い板に、刃が触れる。
白鐘の最深部で振った時の、止まらない感触が、今日も腕へ返ってきた。
一度だけ。
光刃は使わない。横へ大きく追って斬るのでなく、近づいた身体を、足の前の短い線で断った。
獣が倒れ、回廊へ硬い音が二つ返る。
最後の音が止まるまで、俺は剣をしまわなかった。
上に残っていたもう一体は、角の向こうだった。見えていない相手まで倒した数へ入れず、俺は二人へ、まだ来ていない方を見てもらった。
「こっちへ来る音は、増えてない」
ミーナさんが答えた。
「でも、今日は、ここまで。今のを倒したから奥まで安全、にはしない」
「はい。帰ります」
今度は、声がすぐに出た。
壁を出していたのは、五秒ほどだった。
前の三秒と、四秒。その後、角まで歩き、止まって見て、帰り始めるまでに、再使用までの三十秒は過ぎていた。
今日、三度目の短い展開。
俺の魔力は八十のまま。神剣の光刃へ使った分は零だった。輪の内側の光は、さっきより薄くなっている。
ただ、どれだけ残っているかを、回数だけでは言えなかった。
三回使えたから、次も同じように使えると約束するのは違う。
俺は、輪を二人へ向けた。
「今日は、これ以上、使える前提で進みません」
リゼさんが、最初に描いた輪の図と見比べた。
「帰って、同じ明るさの所で見たいです。ここ、灯りの向きも違うので」
「薄くなった気がする、までですね」
「はい。でも、使ったことと、残りが分からないことは、ちゃんと書けます」
彼女は、白い頁の端に三つの短い線を残した。
壁で道が開いた時間と、足で戻る時間。
その両方が、今日の地図に入っていた。
倒した獣のそばへ、俺だけで手を出さなかった。
リゼさんが右手で見える欠片を示し、ミーナさんが通路を見たまま、持つなら短く、と言う。
俺は包みを増やした。前の一体から取った物と、今回の物は、混ぜずに別へ留める。
角の手前と、戻り道の広い所。
どこで取ったか分かるだけで、まだ値段は分からなかった。
「俺、切った物を持って帰るの、早くなった気がします」
小さく言うと、ミーナさんが口元だけで笑った。
「切る方は、最初から早い。包みの角を人へ向けないのは、今日の方が上手い」
「褒める所が、細かいですね」
「当たったら、私にも細かくないから」
俺は包みの向きを、もう一度見た。
リゼさんも笑って、鞄を開ける所は自分で選んだ。
左手を使わず、俺へ持ってほしい所だけを伝える。
「これを留めたら、私は歩く方へ戻ります」
「はい。俺が、こっちを持ちます」
強い剣があるから、荷まで勝手に全部引き受ける必要はなかった。
誰が何を持っているかを、声にした方が、帰る足は揃った。
入口の光が見えた時、俺は、思った以上にほっとした。
白鐘を踏破して帰った時と、同じ明るさではない。
今日は、奥の怪物を倒し、全てを分かった顔で戻るのではなかった。
入口から角二つ。まだ、その先へ続く石の段。見た一体と、残した一体。床の欠け。
小さな範囲が、今度来る時には、ただの白紙ではなくなっていた。
袖を留めた入口係が、三人を見る。
「お戻りですね。人数は、三人で」
「はい。三人です。けがは増えていません。ただ、二つ目の角の先で、板のある獣を二体見ました。一体が追ってきたので、戻る途中で倒しました」
係は、入口の名簿とは別の紙へ書いた。
「もう一体は、倒していないのですね」
「はい。角の向こうへ残しています。いまも同じ場所にいるとまでは、言えません」
「分かりました。地図を見せていただける範囲は、ありますか」
俺は、リゼさんを見た。
地図を描いた人より先に、全部どうぞ、と返事はしなかった。
彼女は入口から二つ目の角までを示した。
「通路の欠けと、見た位置は、こちらへ写せます。ただ、私が見ていない上の道は、空いたままです」
係は頷き、写すための紙を寄せた。
神剣の値段も、守護環を譲る話も、そこには出なかった。
戻った人数と、帰りに残した道。
それを伝える仕事が、今日の出口にあった。
確認区画の明るい所で、リゼさんは輪をもう一度見た。
俺は腕を彼女の目の高さへ寄せ、ぐっと近づきすぎたことに気づいて止める。
「ここで、見えますか」
「はい。そんなに固まらなくても、大丈夫です。腕を、外しませんから」
彼女が笑うので、俺は余計に照れた。
「ずっと動かさない方がいいかと思って」
「少しだけなら。私が測るのは、アルトさんの我慢の長さではないので」
ミーナさんが横で吹き出した。
「そっちなら、食べ物の前で測った方が早い」
「まだ、昼の話、してませんよね」
「顔は、もうしてる」
否定しようとして、腹が小さく鳴った。
リゼさんの鉛筆まで止まった。
俺は空を見た。鉄牙の入口の外へ出ても、腹は、強い装備へ遠慮しなかった。
輪の蓄えが減っていることは、同じ光の下で見ても分かった。
それ以上、今日は使わなかった。待てばいつ、どれだけ戻るのかは、まだ確認していない。
核碑へ勝手に触れて、もう一つの前受けを得ようともしなかった。
鉄牙回廊は、未踏破。守護環の前受け一枠が、精算前のまま残る。白鐘で得た神剣は、それとは別に、俺の腰にある。
俺はその違いを、刻印板でも確かめた。
「次に来る前に、この光をまた見る。今日は、使わないで変わるか、そこからですね」
俺が言うと、リゼさんは頷いた。
「はい。残りの数を、勝手に作らないでおきたいです」
「私も、次は砂がある所を見たい。石の床で私が何もできない、とは言わないけど、術を使う場所は選びたいから」
ミーナさんは、自分の靴底を軽く打ち合わせた。
今日、彼女の砂の術は、一度も使っていない。
それでも、俺が剣を振る幅へ、リゼさんの戻る足を入れずに済んだ。使った術の数だけで仕事を数えるなら、その時間は見えなくなった。
「助かりました。二人が見てくれなかったら、俺は、壁を出す所だけ見てたと思います」
「じゃあ、次も、そっちだけ見ないでね」
彼女は、気安く言った。
永久に一緒の隊になる、という返事ではない。
次の相談をしてもよいくらいの声が、いま、そこにあった。
昼には少し早かったが、三人で町の食堂へ入った。
店の前では、焼いた肉と玉葱の匂いがしていた。前掛けの店員が、空いた卓を指す。
「お食事なら、こちらへどうぞ。焼き皿は、いま少しお待ちいただきます」
町の食堂で、昼の客を回す声だった。
俺はすぐに、肉を、と言いかけ、卓へ座る前に値段を見た。
「俺、七十銅の焼き皿にします。二人は、何を」
「私は、汁のある方。午後も、自分の用事があるから、食べすぎない」
ミーナさんが答えた。
リゼさんは、焼き皿の量を見てから、別の小さな皿を選ぶ。
食事は、それぞれ自分の財布から払った。
俺の九十五銀五十三銅は、七十銅を引いて、九十四銀八十三銅。
持ち帰った欠片は、まだ売っていない。包みを持っているだけで、食事代がそこから出たことにはならなかった。
皿が来るまでに、地図を一度だけ広げた。
油を飛ばさないよう、食事が来たら閉じると先に決める。
リゼさんは左掌を卓の端へ無理に置かず、右で紙を留めた。
「ここで止まったの、地図にも残ります」
彼女が、二つ目の角へ指を置く。
「行けなかった印ですか」
俺が訊くと、彼女は首を少し傾けた。
「今日、見て帰った端です。次に来たら、この線の先を、私も見たい」
嬉しくなって、俺はすぐ、明日、と言いそうになった。
ミーナさんが、まだ箸も持っていない手を上げる。
「私の明日は、まだ空いたって言ってないよ」
「はい。いま、早く言いそうになりました」
「分かりやすかった。次は、日時と、帰る目安を持ってきて。今日の午後みたいに、私にも、私の用事があるから」
「分かりました。俺も、輪の状態と、売れる物があるかを見てからにします」
リゼさんが頷く。
「鑑定も、食べ終わってから。今日は、ここで全部終わらせるより、一度、明るい机へ持ち帰りたいです」
俺は包みを、椅子の下で靴に当たらない位置へ寄せた。
二対一対一の取り分は、合意した共通経費を引いた換金後の残りに掛かる。まだ金額はない。
今日の役割を終えたことと、財布の精算が終わったことも、別だった。
焼き皿が来た時、俺は約束通り、地図を閉じた。
熱い鉄の上で、玉葱が小さく鳴る。
ミーナさんが、最初の一口を切る俺の手を見た。
「そっちは、神剣じゃなくていい?」
「神剣だと、皿まで切りそうなので」
「今日は、先に言えたね」
リゼさんが笑い、俺も笑った。
普通の食事用の刃は、肉を切る時に少し抵抗した。その重さが、妙に嬉しかった。
強い剣で切れる物が増えても、何にでも使わなくてよい暮らしが、ここにあった。
俺は、窓の外を見た。
鉄牙の最深部は、まだ知らない。
守護環を得た一日で、その全てを自分の物にしたのでもない。
それでも、二人と戻った道があり、次に見たい角があり、熱い物を食べながら相談できる卓があった。
入口で前払いされた報酬は、敵の前だけで役に立つ力ではなかった。
俺たちが、次も一緒に行くかを選べる、今日の帰りを作ってくれた。
肉を一口食べ、俺は、次の一口を急がずに切った。




