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12/28

神剣は、旅の支度にもよく切れます

【前回までの人物】

・アルト:白鐘の迷宮を踏破し、神剣を使って町でも稼ぐ探索者。次の迷宮へ向けた準備を始めようとしている。

・リゼ:鑑定と地図が得意な同行者。見える二点間を測る鏡を持つ。左の掌はまだ療養中。

・ミーナ:短期の仕事で二人と組んだ魔術師。次も依頼ごとに相談し、十二日の午前に準備の話をする約束をした。

 神剣より先に、卵を取り落としかけた。

 四月十二日の朝。焼いたパンへ半分に切った卵を載せようとしたら、黄身の方が皿を逃げた。

 指を伸ばす前に、向かいのミーナさんが匙で止める。

「迷宮の主より、朝ご飯の方が手強い?」

「今のは、油断しました」

「油断してない顔で、卵と戦わないで。私まで笑う」

 彼女は言いながら、もう笑っていた。

 宿代は昨夜払ってある。朝食もその中に入っているので、今朝、同じ分をもう一度払う必要はなかった。

 腹に温かいものが入ると、昨日の石板の重さが、少し遠い出来事になる。

 神剣を抜いたのは五回。光刃は使わずに、通路が開いた。

 稼いだ十八銀は、確かに財布へ入った。

 それを宿と夕食に使っても、いま、九十九銀六十三銅が残っている。

 卵をちゃんと口へ運んでから、俺はその数字を、もう一度嬉しく思った。

「リゼ、手はどう?」

 ミーナさんが、自分の皿を脇へ寄せた。

 リゼさんは包帯を巻いた左手を、卓の上へ持ち上げすぎずに見た。

「今朝、先に診てもらいました。まだ、重い物を持たないようにと。昨日より、すぐ使ってよくなったわけではないです」

「じゃあ、今日は、紙の方だね」

「はい。地図を、片手で押さえられる板を見たいんです。昨日、通路で記録する時に、紙が動いてしまって」

 右手で測距鏡を持つと、左で紙を押さえたくなる。

 使う手が一つ増えれば解決する話ではなく、今ある一つを、何に使うかだった。

「俺も一緒に見ていいですか。予備の灯りを買いたいので」

「もちろんです。アルトさんの灯りの方も、見たいです」

 リゼさんは、道具を見に行く返事をする時の顔になった。

 ミーナさんが、卓へ二本の指を立てる。

「私は、昼前まで。そのあと、別の仕事に行くから。買物で町じゅう回るのは、二人でお願い」

「分かりました。今日は準備の相談と、必要な物を二つくらいで」

「二つくらいって言った人が、五つ増やすの、よくあるんだよね」

 俺は口を閉じた。

 実際、干し肉の店が頭に浮かんでいた。

 ミーナさんの緑の目が細くなる。

「食べ物は、また別の日にして」

「まだ言ってないです」

「言う前の顔だった」

 リゼさんまで笑ったので、俺は最後のパンを食べて、いったん、干し肉を頭の外へ出した。


 組合の町窓口では、昨日見た候補を、改めて確かめた。

 鉄牙回廊。

 掲示の名前を読むと、腰の神剣の重みが、少し違って感じられる。

 白鐘を踏破する前は、入口の先へ行くこと自体が大きかった。今は、戻ってきた後の暮らしを知っている。

 食べられる肉が増えた。道具を選ぶ金もある。

 次も、もっと選びたい。

 けれど、刻印板の前受け枠は、いまは空のままだった。

 俺は腰の板を取り出さず、公開されている入口の案内と、帰ってきた探索者向けの注意を読むだけにした。

「今日、ここで全部決めなくていいんだよね」

 ミーナさんが、掲示から俺へ目を向ける。

「はい。次の前受けを選ぶのは、持っていく物と、誰がどこまで行けるかを話してからにします」

「なら、私は、いま受けてる仕事の予定も出す。それを見て、鉄牙で組む分は別に決めよう」

「俺の方からも、条件を持ってきます」

 ミーナさんは頷き、藍の外套の裾を直した。

 強い剣があるから、この人の午後まで自分のものになるわけではない。

 その代わり、条件を出して、また一緒に行こうと頼むことはできる。

 掲示を見上げる時間が、昨日より少し楽しかった。


 道具屋の入口には、灯りが何種類も吊ってあった。

 火を使うもの。小さな石の光を籠へ入れたもの。持ち手だけ、新しい革で巻いた中古品。

 店主は、布の上で金具を拭いていた。細い粉のついた指を払ってから、俺たちを迎える。

「お使いの物の代わりですか。予備ですか」

「予備です。いまの灯りが使えなくなった時に、手で持てるものを」

 店主が二つ、卓へ置く。

 片方は小さくて、片方は縁が厚かった。値段は大きさだけでは決まっていない。

「こちらは一銀二十銅。持ち運ぶ時に覆いを閉じられます。強くぶつければ、もちろん傷みますが」

「入れておくだけで、ずっと明るいわけじゃないですね」

「ええ。使う前に確かめてください。予備が壊れていると、持っていたのを忘れているより、腹が立ちますから」

 前の人生の倉庫にも、似た腹立たしさはあった。

 あると思っていた道具が、使う時だけ動かない。棚へ戻した時点で、仕事を終えた気になっていたのだ。

 俺は持ち手を握り、腰の神剣へ当たらない位置を見た。

 剣は明るく光ることがある。でも、それは道を見るために、いつでも好きなように灯しておける道具ではない。

「こちらにします。それと、拭く布を一枚」

「布は三十銅です。この厚さでよろしいですか」

 指で押すと、思ったより柔らかかった。昨日の石粉を払う布と分けて、灯りや手元の道具に使いたかった。

 俺は一銀五十銅を渡す。

 財布へ戻る音を聞き、残りを確かめた。

 九十八銀十三銅。

 買っても、まだ九十八銀ある。

 その余裕が嬉しくて、つい灯りを持ち上げたら、ミーナさんに目で止められた。

「まだ店の中。試すのは、置いてから」

「……はい」

 光る物を買った子どもみたいだった。十八歳なので、そんなに遠くないのかもしれない。


 リゼさんは、隣の棚で板を選んでいた。

 紙の束を留める物はあったが、留め金が固い。

 右で開けば紙を持つ手が足りなくなり、左で押さえると掌に力が掛かる。

「これは、私には、いまは少し」

 店主は、すぐに違う品を勧めなかった。

 彼女が紙を当てる様子を見てから、薄い板を一枚出した。

「紙を留める物は別ですが、下にするなら、こちらも。角が残っているので、そのまま鞄へ入れるには向きません」

 リゼさんが右手で板を持つ。幅を確かめるよう、膝へ少し載せた。

「大きさは、このくらいがいいです。紙と合わせて、見せてもらえますか」

 俺は、自分の灯りを卓へ戻した。

 これなら、神剣で角を落とせる。

 言いかけて、リゼさんがまだ、別の厚さを比べているのを見た。

 俺が切れるかどうかより、まず、その人が何を使いたいかだった。

 やがて彼女は、自分の財布から板と紙の代を出した。俺の一銀五十銅とは別の買物だ。

 店を出てから、リゼさんが板の角を指で示した。

「アルトさん。これを、少し丸くしてもらえませんか」

「はい。俺も、そう言いかけてました」

「言う前に、私が選び終わるまで待ってくれましたね」

 褒められたようで、少し困った。

「角を落とした後で、大きすぎたって言われたら、戻せないので」

「じゃあ、切る前に、もう一度見ます」

 リゼさんは笑い、板を自分の鞄へ入れた。


 宿の中庭には、洗い終えた桶が並んでいた。

 女主人は俺の腰へ目をやり、すぐに通路の先を指す。

「それを使うなら、こっちを空けるまで待ちな。洗濯物へ刃が届かなくても、私の気分には届く」

「場所をお借りしたいです。板を、ほんの少しだけ」

「ほんの少し、は、切ってから言う言葉じゃないよ」

 白の混じる黒髪を布で押さえ、彼女は桶を一つ移した。

「ここだけ。壁も卓も切らないで。欲しければ、下にする古い端材ならある」

「端材を買うなら、おいくらですか」

「捨てる前に、薪へする分だよ。使ったあと、片づけてくれればいい。宿代をまけたわけじゃないからね」

 俺は礼を言い、出してもらった板を見た。

 端は固く、古い節の辺りが盛り上がっている。普通の小刀で角を削るなら、何度も刃を入れる所だろう。

 リゼさんの新しい板へ触る前に、俺はその端材の切ってよい場所を訊いた。

 女主人が、ここの短い所なら、と指す。

 神剣を抜くと、朝の光が刃の縁をなぞった。

 ミーナさんが、少し離れた所で腕を組む。

「昨日も思ったけど。抜くと、やっぱり、目が行くね」

「俺もです」

「自分の剣なのに?」

「自分のだから、余計に」

 刃を通す。

 木の節が、抵抗らしい抵抗を返さずに離れた。

 光刃は出していない。魔力も、使っていない。

 ただの一振りで、固い所まで、真っ直ぐな面へ変わった。

 落ちた欠片が端材の上で跳ね、乾いた音がする。

「……やっぱり、すごい」

 俺の独り言へ、ミーナさんが笑った。

「そこ、本人が一番感心するんだ」

 リゼさんは切り口を見て、少し身を屈める。

「木目の途中で、逃げていませんね。ここも、同じ面です」

 女主人は、落ちた方を摘まみ上げた。

「大した剣だね。でも、こっちの箒は、その剣じゃ増えないよ」

「片づけます」

 俺は即答した。

 神剣で増える嬉しい仕事と、神剣では終わらない仕事が、同じ中庭にあった。


 新しい板を切る前に、リゼさんが紙を載せる。

 端をどのくらい残すか、自分の右手で確かめてから、角に小さく印をつけた。

 俺は、その印の外を少しずつ落とした。

 細かい形を、剣が勝手に考えてくれるわけではない。切る力が強くても、どこへ刃を置くかは自分の目と手だった。

 急いで、一枚まるごと細くしてしまう必要はない。

 間を置いて、リゼさんへ向ける。

「ここ、まだ当たりますか」

「少しだけ。……いえ、紙を載せた時には、この幅が欲しいです。そのままで」

 俺は次の一振りをやめた。

 切れるのを確かめることと、使えるものを作ることは、少し違った。

 ミーナさんが布の端を丸め、留め具を直接握らなくても紙を押さえられる置き方を試す。

「こんなのは? 板を膝にして、右で一回だけ押せば」

「やってみます」

 リゼさんは椅子へ座り、板を膝へ置いた。

 紙を右手だけで留め、それから、測距鏡を持ち上げる。

 左の包帯を、押さえるために使わなかった。

「……両方、置けます」

 声が、少し高くなった。

 鏡で見ているのは、庭の柱と戸口の、見える二点だ。壁の向こうでも、まだ知らない迷宮の奥でもない。

 リゼさんは鏡を置き、右手で距離を書いた。

 紙が動かなかった。

「書けました」

 その一言へ、俺まで嬉しくなる。

 昨日、通路の図を描いていた時より、彼女の肩が少し下がっていた。

「よかった。これなら、次の地図にも」

「はい。でも、左の手が治ったことにはしません。便利だから、先に使いたくなりそうなので」

「じゃあ、俺が重い箱を持とうとしたら、止めてください。右が空いてるからって、剣と灯りを全部持ちたくなるので」

 言うと、彼女は、まず俺の買った灯りを見た。

「置いて、見せるのはできますよ」

 ミーナさんが、その横で肩を揺らした。

「朝から二回、同じこと言われてる」

 俺は灯りを卓へ置いたまま、笑った。


 リゼさんは、出来た板を鞄へ入れようとして、入口で止まった。

「少し、向きを変えますね」

 俺は、切れば入る、と言いそうになった。

 さっき残した紙の余白を見て、口を閉じる。

 彼女が板を横へ向け直すと、角を落とした所から、布へ引っ掛からずに入った。

「入りました。ここを残してよかったです」

「俺、また切る方で解決しかけました」

「今日は、もう十分切ってもらいました」

 笑いながら言われて、俺は鞘の口を見た。

 剣が強いのは、やっぱり嬉しい。

 固い節でも止まらず、望んだ所で木が分かれる。昨日は大きな石板を、人の通れる道へ変えた。

 でも、鞄の中へ物を収める時には、刃より先に、向きを変える手がいる。

 前の人生なら当たり前だったことを、強い物を手に入れた途端に、少し忘れかけていた。

 ミーナさんが、新しい灯りの覆いを外から指した。

「そっちは、どこへ入る?」

「こっちです。剣と当たらない所に」

 自分の荷を置き、入れ替えてみる。神剣を腰へ戻すと、最初に選んだ側では、歩くたびに持ち手へ触れそうになった。

 別の側へ留め直す。

「どうですか」

「歩くのは、アルトだよ」

 もっともだったので、俺は中庭を数歩だけ歩いた。

 重さはある。魔力で消えてくれるわけではない。それでも、腰の剣と新しい灯りが、ぶつからず一緒についてくる。

 止まって振り返ると、二人がこちらを見ていた。

「ちょっと、探索者らしくないですか」

「もう、探索者です」

 リゼさんの即答に、ミーナさんが笑う。

「昨日、三十銀の仕事した人の感想とは思えない」

 俺も笑った。

 何者かになれたと思うのは、迷宮の主を倒した瞬間だけではないらしい。

 明日使いたい道具が、自分の腰で揺れている。

 それを見せたい相手が、二人いる。

 朝ご飯の卵を笑われた後でも、今日は、十分いい朝だった。


 片づけは、刃を鞘へ戻してからにした。

 切った端材の残りは女主人へ返し、細い屑を集める。自分の布を、いきなり木屑だらけにしないよう、宿の箒を借りた。

 リゼさんは出来た板を、膝で眺めている。

 ミーナさんは、外套の紐を結び直した。

「次は、これを持っていく場所の話だね」

「はい。鉄牙の、どこまでを目指すか。前受けで、何を選ぶかも」

「私が組む分は、明日、時間を決めてから。今日は午後の仕事へ行く。剣が強くても、そこは待ってもらうから」

「待ちます。俺からも、明日の相談の文を送ります」

「うん。誘う方の仕事、だいぶ慣れてきたね」

 言われると、まだ少し照れた。

 でも、次も三人で、と言う前に、皿が空くのを待たなくてもよくなった気がした。

 リゼさんが、板へ指を添える。

「地図の最初の頁は、まだ空いています」

 白い紙が、朝の風で少しだけ浮く。留めた端から先へは、飛んでいかなかった。

 俺は刻印板へ触れた。

 前受けの枠は空。神剣は、白鐘を終えても、ここに残っている。

 体調も魔力も、今朝は変わっていない。光刃を使った回数は、零のままだ。

 次の迷宮を、まだ踏破したわけでも、入口を越えたわけでもない。

 それでも、行く前から選べるものが増えた。

 買った灯り。角を整えた、仲間の地図板。明日の相談へ、自分から声を掛ける相手。

 それを、いま、持っている。

 俺は新しい布で灯りの縁を拭き、光を閉じた覆いの中へ戻した。

 次に開くのが、少し楽しみだった。

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