神剣は、旅の支度にもよく切れます
【前回までの人物】
・アルト:白鐘の迷宮を踏破し、神剣を使って町でも稼ぐ探索者。次の迷宮へ向けた準備を始めようとしている。
・リゼ:鑑定と地図が得意な同行者。見える二点間を測る鏡を持つ。左の掌はまだ療養中。
・ミーナ:短期の仕事で二人と組んだ魔術師。次も依頼ごとに相談し、十二日の午前に準備の話をする約束をした。
神剣より先に、卵を取り落としかけた。
四月十二日の朝。焼いたパンへ半分に切った卵を載せようとしたら、黄身の方が皿を逃げた。
指を伸ばす前に、向かいのミーナさんが匙で止める。
「迷宮の主より、朝ご飯の方が手強い?」
「今のは、油断しました」
「油断してない顔で、卵と戦わないで。私まで笑う」
彼女は言いながら、もう笑っていた。
宿代は昨夜払ってある。朝食もその中に入っているので、今朝、同じ分をもう一度払う必要はなかった。
腹に温かいものが入ると、昨日の石板の重さが、少し遠い出来事になる。
神剣を抜いたのは五回。光刃は使わずに、通路が開いた。
稼いだ十八銀は、確かに財布へ入った。
それを宿と夕食に使っても、いま、九十九銀六十三銅が残っている。
卵をちゃんと口へ運んでから、俺はその数字を、もう一度嬉しく思った。
「リゼ、手はどう?」
ミーナさんが、自分の皿を脇へ寄せた。
リゼさんは包帯を巻いた左手を、卓の上へ持ち上げすぎずに見た。
「今朝、先に診てもらいました。まだ、重い物を持たないようにと。昨日より、すぐ使ってよくなったわけではないです」
「じゃあ、今日は、紙の方だね」
「はい。地図を、片手で押さえられる板を見たいんです。昨日、通路で記録する時に、紙が動いてしまって」
右手で測距鏡を持つと、左で紙を押さえたくなる。
使う手が一つ増えれば解決する話ではなく、今ある一つを、何に使うかだった。
「俺も一緒に見ていいですか。予備の灯りを買いたいので」
「もちろんです。アルトさんの灯りの方も、見たいです」
リゼさんは、道具を見に行く返事をする時の顔になった。
ミーナさんが、卓へ二本の指を立てる。
「私は、昼前まで。そのあと、別の仕事に行くから。買物で町じゅう回るのは、二人でお願い」
「分かりました。今日は準備の相談と、必要な物を二つくらいで」
「二つくらいって言った人が、五つ増やすの、よくあるんだよね」
俺は口を閉じた。
実際、干し肉の店が頭に浮かんでいた。
ミーナさんの緑の目が細くなる。
「食べ物は、また別の日にして」
「まだ言ってないです」
「言う前の顔だった」
リゼさんまで笑ったので、俺は最後のパンを食べて、いったん、干し肉を頭の外へ出した。
組合の町窓口では、昨日見た候補を、改めて確かめた。
鉄牙回廊。
掲示の名前を読むと、腰の神剣の重みが、少し違って感じられる。
白鐘を踏破する前は、入口の先へ行くこと自体が大きかった。今は、戻ってきた後の暮らしを知っている。
食べられる肉が増えた。道具を選ぶ金もある。
次も、もっと選びたい。
けれど、刻印板の前受け枠は、いまは空のままだった。
俺は腰の板を取り出さず、公開されている入口の案内と、帰ってきた探索者向けの注意を読むだけにした。
「今日、ここで全部決めなくていいんだよね」
ミーナさんが、掲示から俺へ目を向ける。
「はい。次の前受けを選ぶのは、持っていく物と、誰がどこまで行けるかを話してからにします」
「なら、私は、いま受けてる仕事の予定も出す。それを見て、鉄牙で組む分は別に決めよう」
「俺の方からも、条件を持ってきます」
ミーナさんは頷き、藍の外套の裾を直した。
強い剣があるから、この人の午後まで自分のものになるわけではない。
その代わり、条件を出して、また一緒に行こうと頼むことはできる。
掲示を見上げる時間が、昨日より少し楽しかった。
道具屋の入口には、灯りが何種類も吊ってあった。
火を使うもの。小さな石の光を籠へ入れたもの。持ち手だけ、新しい革で巻いた中古品。
店主は、布の上で金具を拭いていた。細い粉のついた指を払ってから、俺たちを迎える。
「お使いの物の代わりですか。予備ですか」
「予備です。いまの灯りが使えなくなった時に、手で持てるものを」
店主が二つ、卓へ置く。
片方は小さくて、片方は縁が厚かった。値段は大きさだけでは決まっていない。
「こちらは一銀二十銅。持ち運ぶ時に覆いを閉じられます。強くぶつければ、もちろん傷みますが」
「入れておくだけで、ずっと明るいわけじゃないですね」
「ええ。使う前に確かめてください。予備が壊れていると、持っていたのを忘れているより、腹が立ちますから」
前の人生の倉庫にも、似た腹立たしさはあった。
あると思っていた道具が、使う時だけ動かない。棚へ戻した時点で、仕事を終えた気になっていたのだ。
俺は持ち手を握り、腰の神剣へ当たらない位置を見た。
剣は明るく光ることがある。でも、それは道を見るために、いつでも好きなように灯しておける道具ではない。
「こちらにします。それと、拭く布を一枚」
「布は三十銅です。この厚さでよろしいですか」
指で押すと、思ったより柔らかかった。昨日の石粉を払う布と分けて、灯りや手元の道具に使いたかった。
俺は一銀五十銅を渡す。
財布へ戻る音を聞き、残りを確かめた。
九十八銀十三銅。
買っても、まだ九十八銀ある。
その余裕が嬉しくて、つい灯りを持ち上げたら、ミーナさんに目で止められた。
「まだ店の中。試すのは、置いてから」
「……はい」
光る物を買った子どもみたいだった。十八歳なので、そんなに遠くないのかもしれない。
リゼさんは、隣の棚で板を選んでいた。
紙の束を留める物はあったが、留め金が固い。
右で開けば紙を持つ手が足りなくなり、左で押さえると掌に力が掛かる。
「これは、私には、いまは少し」
店主は、すぐに違う品を勧めなかった。
彼女が紙を当てる様子を見てから、薄い板を一枚出した。
「紙を留める物は別ですが、下にするなら、こちらも。角が残っているので、そのまま鞄へ入れるには向きません」
リゼさんが右手で板を持つ。幅を確かめるよう、膝へ少し載せた。
「大きさは、このくらいがいいです。紙と合わせて、見せてもらえますか」
俺は、自分の灯りを卓へ戻した。
これなら、神剣で角を落とせる。
言いかけて、リゼさんがまだ、別の厚さを比べているのを見た。
俺が切れるかどうかより、まず、その人が何を使いたいかだった。
やがて彼女は、自分の財布から板と紙の代を出した。俺の一銀五十銅とは別の買物だ。
店を出てから、リゼさんが板の角を指で示した。
「アルトさん。これを、少し丸くしてもらえませんか」
「はい。俺も、そう言いかけてました」
「言う前に、私が選び終わるまで待ってくれましたね」
褒められたようで、少し困った。
「角を落とした後で、大きすぎたって言われたら、戻せないので」
「じゃあ、切る前に、もう一度見ます」
リゼさんは笑い、板を自分の鞄へ入れた。
宿の中庭には、洗い終えた桶が並んでいた。
女主人は俺の腰へ目をやり、すぐに通路の先を指す。
「それを使うなら、こっちを空けるまで待ちな。洗濯物へ刃が届かなくても、私の気分には届く」
「場所をお借りしたいです。板を、ほんの少しだけ」
「ほんの少し、は、切ってから言う言葉じゃないよ」
白の混じる黒髪を布で押さえ、彼女は桶を一つ移した。
「ここだけ。壁も卓も切らないで。欲しければ、下にする古い端材ならある」
「端材を買うなら、おいくらですか」
「捨てる前に、薪へする分だよ。使ったあと、片づけてくれればいい。宿代をまけたわけじゃないからね」
俺は礼を言い、出してもらった板を見た。
端は固く、古い節の辺りが盛り上がっている。普通の小刀で角を削るなら、何度も刃を入れる所だろう。
リゼさんの新しい板へ触る前に、俺はその端材の切ってよい場所を訊いた。
女主人が、ここの短い所なら、と指す。
神剣を抜くと、朝の光が刃の縁をなぞった。
ミーナさんが、少し離れた所で腕を組む。
「昨日も思ったけど。抜くと、やっぱり、目が行くね」
「俺もです」
「自分の剣なのに?」
「自分のだから、余計に」
刃を通す。
木の節が、抵抗らしい抵抗を返さずに離れた。
光刃は出していない。魔力も、使っていない。
ただの一振りで、固い所まで、真っ直ぐな面へ変わった。
落ちた欠片が端材の上で跳ね、乾いた音がする。
「……やっぱり、すごい」
俺の独り言へ、ミーナさんが笑った。
「そこ、本人が一番感心するんだ」
リゼさんは切り口を見て、少し身を屈める。
「木目の途中で、逃げていませんね。ここも、同じ面です」
女主人は、落ちた方を摘まみ上げた。
「大した剣だね。でも、こっちの箒は、その剣じゃ増えないよ」
「片づけます」
俺は即答した。
神剣で増える嬉しい仕事と、神剣では終わらない仕事が、同じ中庭にあった。
新しい板を切る前に、リゼさんが紙を載せる。
端をどのくらい残すか、自分の右手で確かめてから、角に小さく印をつけた。
俺は、その印の外を少しずつ落とした。
細かい形を、剣が勝手に考えてくれるわけではない。切る力が強くても、どこへ刃を置くかは自分の目と手だった。
急いで、一枚まるごと細くしてしまう必要はない。
間を置いて、リゼさんへ向ける。
「ここ、まだ当たりますか」
「少しだけ。……いえ、紙を載せた時には、この幅が欲しいです。そのままで」
俺は次の一振りをやめた。
切れるのを確かめることと、使えるものを作ることは、少し違った。
ミーナさんが布の端を丸め、留め具を直接握らなくても紙を押さえられる置き方を試す。
「こんなのは? 板を膝にして、右で一回だけ押せば」
「やってみます」
リゼさんは椅子へ座り、板を膝へ置いた。
紙を右手だけで留め、それから、測距鏡を持ち上げる。
左の包帯を、押さえるために使わなかった。
「……両方、置けます」
声が、少し高くなった。
鏡で見ているのは、庭の柱と戸口の、見える二点だ。壁の向こうでも、まだ知らない迷宮の奥でもない。
リゼさんは鏡を置き、右手で距離を書いた。
紙が動かなかった。
「書けました」
その一言へ、俺まで嬉しくなる。
昨日、通路の図を描いていた時より、彼女の肩が少し下がっていた。
「よかった。これなら、次の地図にも」
「はい。でも、左の手が治ったことにはしません。便利だから、先に使いたくなりそうなので」
「じゃあ、俺が重い箱を持とうとしたら、止めてください。右が空いてるからって、剣と灯りを全部持ちたくなるので」
言うと、彼女は、まず俺の買った灯りを見た。
「置いて、見せるのはできますよ」
ミーナさんが、その横で肩を揺らした。
「朝から二回、同じこと言われてる」
俺は灯りを卓へ置いたまま、笑った。
リゼさんは、出来た板を鞄へ入れようとして、入口で止まった。
「少し、向きを変えますね」
俺は、切れば入る、と言いそうになった。
さっき残した紙の余白を見て、口を閉じる。
彼女が板を横へ向け直すと、角を落とした所から、布へ引っ掛からずに入った。
「入りました。ここを残してよかったです」
「俺、また切る方で解決しかけました」
「今日は、もう十分切ってもらいました」
笑いながら言われて、俺は鞘の口を見た。
剣が強いのは、やっぱり嬉しい。
固い節でも止まらず、望んだ所で木が分かれる。昨日は大きな石板を、人の通れる道へ変えた。
でも、鞄の中へ物を収める時には、刃より先に、向きを変える手がいる。
前の人生なら当たり前だったことを、強い物を手に入れた途端に、少し忘れかけていた。
ミーナさんが、新しい灯りの覆いを外から指した。
「そっちは、どこへ入る?」
「こっちです。剣と当たらない所に」
自分の荷を置き、入れ替えてみる。神剣を腰へ戻すと、最初に選んだ側では、歩くたびに持ち手へ触れそうになった。
別の側へ留め直す。
「どうですか」
「歩くのは、アルトだよ」
もっともだったので、俺は中庭を数歩だけ歩いた。
重さはある。魔力で消えてくれるわけではない。それでも、腰の剣と新しい灯りが、ぶつからず一緒についてくる。
止まって振り返ると、二人がこちらを見ていた。
「ちょっと、探索者らしくないですか」
「もう、探索者です」
リゼさんの即答に、ミーナさんが笑う。
「昨日、三十銀の仕事した人の感想とは思えない」
俺も笑った。
何者かになれたと思うのは、迷宮の主を倒した瞬間だけではないらしい。
明日使いたい道具が、自分の腰で揺れている。
それを見せたい相手が、二人いる。
朝ご飯の卵を笑われた後でも、今日は、十分いい朝だった。
片づけは、刃を鞘へ戻してからにした。
切った端材の残りは女主人へ返し、細い屑を集める。自分の布を、いきなり木屑だらけにしないよう、宿の箒を借りた。
リゼさんは出来た板を、膝で眺めている。
ミーナさんは、外套の紐を結び直した。
「次は、これを持っていく場所の話だね」
「はい。鉄牙の、どこまでを目指すか。前受けで、何を選ぶかも」
「私が組む分は、明日、時間を決めてから。今日は午後の仕事へ行く。剣が強くても、そこは待ってもらうから」
「待ちます。俺からも、明日の相談の文を送ります」
「うん。誘う方の仕事、だいぶ慣れてきたね」
言われると、まだ少し照れた。
でも、次も三人で、と言う前に、皿が空くのを待たなくてもよくなった気がした。
リゼさんが、板へ指を添える。
「地図の最初の頁は、まだ空いています」
白い紙が、朝の風で少しだけ浮く。留めた端から先へは、飛んでいかなかった。
俺は刻印板へ触れた。
前受けの枠は空。神剣は、白鐘を終えても、ここに残っている。
体調も魔力も、今朝は変わっていない。光刃を使った回数は、零のままだ。
次の迷宮を、まだ踏破したわけでも、入口を越えたわけでもない。
それでも、行く前から選べるものが増えた。
買った灯り。角を整えた、仲間の地図板。明日の相談へ、自分から声を掛ける相手。
それを、いま、持っている。
俺は新しい布で灯りの縁を拭き、光を閉じた覆いの中へ戻した。
次に開くのが、少し楽しみだった。




