第61話 ドロドロと黒い”何か”
それは十数年前、叛鬼衆五家の会合の場だった。
叉堂悠真はその日、御堂朱里と初めて会った。
そして一目見て、恋をした。
女神が少女の姿を借りているとでも言うような整った顔、夜空を思い起こすような艷やかな髪、寂しさを抱えているような儚げな眼差し。
全てが幼い悠真にとって、完璧だった。
初めて、誰かが欲しい。そう思った。
だから、父に言った。僕、あの子と結婚がしたいと。父は少し考えた後「わかった」と一言だけ告げた。数カ月後、父から「希望通り、お前は御堂の三女と結婚する」と伝えられた。
その言葉を聞いて、自分はなんて幸福なんだろうと思えた。
合同訓練の際、初めて話をした。「あなたが悠真? 私たち、将来結婚するみたい、よろしく」そう朱里は言った。他人事のような口調ではあったが、朱里はすぐに受け入れていた様子だった。
成長するにつれ、朱里はますます魅力的になった。顔も身体もどんどん女性らしくなっていった。そして朱里は、叛鬼師としての才能も恵まれていた。一人だけ明らかに別格だった。美貌も、その能力面も。自分にとってこれほどの相手はいないと思った。
いつ頃からか、朱里は少しずつ笑うようになった。昔は、冷静沈着とでも言うような雰囲気だったのが、明るく穏やかな雰囲気へと変わっていった。どこか冷たさのある朱里も好きだったが、包容感のある落ち着いた朱里も好きになった。自分と打ち解けてきているのだと思った。
ずっと自分は恋をしていた。
それから、しばらく経ってのことだった。朱里が他の男と恋人関係にあるという話が出てきたのは。初めは嘘だと思った。信じられなかった。だが、朱里はそれを否定しなかった。
しかも、相手が叛鬼の家系ではなく、知らない一般人。
憎悪と嫉妬で煮えくり返りそうだった。
なんで、なんで、なんで。
そしてすぐに理解した。そいつは朱里の寂しさにつけ込んで、朱里の心に入り込んだのだと。朱里はどこか寂しさを抱えていた少女だった。
きっと親に相手されていないのだろう。御堂直系の子だ。
自分も合同訓練の際や、家同士の会合以外の場では会うことは少なかった。だからだ。屑が朱里の隙間に入りこもうとしてしまった。
人の心は弱い。それは朱里とはいえ例外じゃない。
朱里は掟を破ったとして、重く苦しい罰を受けた。
どれほど痛かったか想像もつかないような処分。
悠真は憎しみでどうにかなりそうだった。あの男のせいで、朱里がこんな目にあった。そう思った。
朱里は祖父、御堂十二郎に男との別れを命じられた。
悠真はそれがきちんと成せるように、男のもとへ一緒に行くことにした。
そして愕然とした。こんな貧相で、下らなそうな男が朱里の心を奪ったのかと。神術も使えない、世界のことを何も知らない、ただ日々を無駄に過ごしているだけの男に、朱里が汚された。
男は朱里に別れを告げられショックを受けているようだった。コミュニケーションも取れない。悠真は馬鹿でも分かるように、男の目の前で朱里の唇を奪った。
朱里も悠真を受け入れていた。
そして、朱里は自分だけのモノになった。
これからはできるだけ一緒にいてあげよう。今度は屑が入りこまないように、自分が朱里の心を埋めてあげよう。そう悠真は思った。
朱里はそれからぎこちない笑みを浮かべるようになった。貼り付けたような作り物の笑み。ショックは受けなかった。いずれは時間が解決し、心の底から笑えるようになると思っていた。
全ては順調に進んでいる、はずだった。
なのに。
なぜ、なぜまた、こいつが朱里の傍にいる。
佐藤恋詩。屑の名前。
ふざけるな。
鬼道に飲み込まれ、遺物であるだろう妖刀を拾った?
強くなった? たった数ヶ月で?
自分達は子供の頃から、ずっと神術を学び、訓練し、苦しみを乗り越えてきたのに? なぜだ。自分が神に選ばれているとでも言うのか。
(朱里、どうしてそいつを庇う、どうしてそいつのために土下座なんてする)
そして理解した。駄目なのだ。この男がいると。朱里はまた惑わされる。この男が傍にいることは朱里にとって害になる。
何があっても排除しないといけない。
そして男が叔母である叉堂鞠子を殴ったとき、悠真は心の底から笑みを浮かべた。
ああ、これで殺しても何も言われないだろうと。
確かにあの刀の能力は凄い。
自分たちも含め、ここ東部にいる半分の戦力では、先日の巨大な馬型の”鬼”を倒せなかった。それを男は倒した。
だが、今は違う。前回反対側で”鬼”討伐にあたっていた部隊も”合わせて”この場にいる。
そして、御堂十二郎。
御堂家当主であり、叛鬼衆最高戦力である”降臨者”の一人。
負けるはずがない。
そのほんの一瞬前まで悠真は思っていた。
「は?」
爆発音と共に、何かが悠真の横を過ぎた。
悠真はただ”光の速さで動くような何か”が通った、そうとしか認識できなかった。
轟音。障壁が割れる音がした。
恐る恐る振り向くと、先程まで御堂十二郎が立っていた場所にあの男がいた。
御堂十二郎の身体は障壁を貫通し、外まで吹き飛ばされたことが分かった。
「まず、強い奴から」男が呟く。
「十二郎様っっ! 貴様ァァァァァァ!」悲鳴と絶叫が修練場に響く。
膨大な数の神術が発動する。
捕縛の神術。藍色の光が、床から突然生えた蔓が、黒い鎖が、男の身体を縛る。
悠真の横で第6班の隊長である椎名が呆然としていた。
「隊長! 何をやっているんですか! 早く指示を!」悠真が叫ぶ。
「あ、え。ああ、そうね……」今の光景を理解できないとでも言うように椎名の言葉は途中で止まった。
「っ、燐! お前も捕縛を使え! 仁と景正は俺と一緒に来い!」悠真は返答の遅い椎名に代わり、部隊に指示を出す。「っわかった」と仁が応える。他の仲間も、一緒に動き始める。
捕縛の神術が男を捉えている今が、好機だ。
捕縛の神術一つで、大の男何十人も抑え込める程の力がある。それが何重にも男の身体を縛っている。
悠真は神術を使う。
”建御名方神”
日本神話における武神の一柱。
膨大な”力”が悠真の身体に入ってくる。悠真の力は、脚力を中心として大きく向上する。
(やるなら今しかない)
悠真の踏み込みに合わせて、床が凹む。男はまだ悠真に気づいていない。
背後からなら——
ギョロと男が悠真の方を向く。
目が合う。男の顔に一切の驚きはない。
(なっっ)
男は鎖の神術に掴まれていた右腕を——ただ回した。
衝撃。頭が真っ白になる。
重い音と共に、壁に衝突したのが分かった。
「あっ……うぅ」
たったそれだけで悠真の身体は動かなくなった。
薄れゆく意識の中、皆の悲鳴と恐怖の声だけが薄っすらと聞こえていた。
*
御堂朱里は、その光景をただ見ていた。
幼馴染で、恋人であった少年が一本の刀と肉体だけでこの場を支配する光景を。
人が飛ぶ。轟音が鳴る。何かが折れる音が聞こえる。
少年は十二郎を外に叩き飛ばした後、次に自らを捕縛している叛鬼師を狙った。
大量の神術に掴まれているはずなのに、少年は動きを止めなかった。
ゆっくりだが、確実に一歩一歩と進む。捕縛されている”うちに”少年を止めようと新たな叛鬼師が少年に斬りかかる。だが、全ての方向に目がついているかのように、少年は刀で受け流す。
それでも、数え切れない攻撃に、少年の身体に少しずつ血が滲む。
だが、少年は痛みを感じていないように無表情でただ殴り、刀を叩きつける。
少年が錫杖を持つ男の腕を掴む。そしてただ握った。何かが破裂する音と共に、悲鳴が聞こえる。
一人、また一人と、少年を縛っている捕縛の神術が溶けていく。
そして一人いなくなる毎に少年の動きが速くなっていく。
「ハハ」
朱里は自分の頬を触る。そして自分が笑っていることに気づいた。
恋詩が戦っている。
誰のため?
私のためだ。
私のために彼は怒ってくれてるんだ。
嬉しい。そう思ってしまう。
笑みが止められない。
殺して。
殺して、あいつらを、全員。
みんな邪魔。
そんな声が、心の奥底から聞こえる。
「ハハ」
(ああ、私って本当はこんなこと思ってたんだ)
朱里は自分の本心を自覚した。
「恋詩……恋詩……」
彼の名前を口にする度に、ドパドパと快楽物質が生み出される。
彼の姿を見てるだけで、悦びが溢れそうになる。
彼を思うだけで、世界が煌めいていく。
「ぁぁぁ」
愛してる。その言葉すら今感じている気持ちには霞んでしまう。
彼と一つになりたい。自分の全てを捧げたい。全部溶け合いたい。
(ああ、ヤバいこれ)
仲間であった人たちの悲鳴すら心地良い。
彼のこんな姿を見れる自分はなんて幸せなんだろう。
(最高に気持ちいい)
全部、ぶっ壊して。
(あぁ、そういうことだったんだ)
自分が神術を使えなくなった理由。
(いいよ、混ざってよ)
”何か”が朱里の中で混ざり、溶けていく。
ドロドロと黒い”何か”。
白を黒が飲み込んでいく。
朱里はその混ざりを感じながら、少年の姿を目に焼き付けていた。
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