第56話 何も考えたくない
*注意 このお話は、自殺・自傷描写を含みます。閲覧にはご注意下さい。
1DKのボロアパートの一室。影静は、恋詩の目を覗き込む。
「目赤くなってる?」
恋詩が瞼の下を引っ張り目をこちらに見せる。日本人によくいるこげ茶色の虹彩。
充血もなく、傷ついている様子はない。
「いいえ赤くなっていませんよ、いつもと変わりありません」
「なんかさっき変な感じがしたんだよな」
昔からたまにあるんだけどさと恋詩は付け足す。
「あれの影響か?」
あれ。それはきっと黄金の輪のような紋様の力だろう。
世界が少年を守るように動く力。
「どうでしょうか」
「光ってる様子はないんだよなぁ」
「あれの正体はまだ良く分かっていません。紋様が浮かんでいる時だけ力が発動しているとは限りませんよ」
「うーん」
あの力は見るからに不安定だ。感情の高ぶりに反応する? おそらく、それだけではない。
「まぁ、いいや」恋詩は、動きやすいスウェットに着替える。
「どこに?」
「ちょっと走ってくる、身体動かさないとなんかスッキリしてねえし」
「分かりました、気をつけていってらっしゃい」
「うい」
恋詩はスマホだけ持って、ランニングへ向かった。
「……」
影静は思考を再開する。
あれは結局何だ? 最初に発現したのはあの腕のない武者と戦った際。
彼を逃がすために、狭間へ落とした。そして恋詩は、奇妙な力に目覚め、戻ってきた。
「……本当に、あれはあの時に目覚めたのでしょうか」
狭間の力で変異した? だが、そんな都合のいい変異が起こるとは思えない。
まず、初めからおかしくないか? 恋詩は出会った時、突然狭間に飲み込まれ、あの世界に来たと言っていた。
そして、鬼に襲われ”運”よく逃げ延び、山の中で影静を見つけ封印を解いた。
「……」
よくよく考えれば、不可解な点ばかりだ。
普通、人間が鬼に襲われ、逃げ切れるものなのか?
逃げた先が、都合よく影静の封印場所だった?
まず恋詩は何故、狭間で人間のままでいられる?
「考えすぎでしょうか」
恋詩は嘘を言っていない。術を使わないでも分かる。
(あの力の源は)
”魂”由来のモノに近い気がする。叛鬼師などの人間が使う”魂”を代償とした技。
だが、普通の人間が急に力に目覚めるなんてことがあるのか?
儀式もなしに?
(私は、あれを知っている)
どこで? 誰か、顔を塗りつぶされた誰か。
と思考しているといつもの”感覚”が来た。記憶の混濁。
(あぁ、今日は少し痛みますね)
影静には刀になる前の記憶がない。
あれ? 本当に刀になる前の記憶だけがないのか?
「……」
窓の外を見る。
夕暮れ。だが、空は分厚い雲が覆いかけていた。
空気が重い。
「少し、荒れそうですね」
嫌な気配だ。
*
風が強い。ある高台の階段近く。そこに、御堂朱里はいた。
高台から少し離れた場所には木目に塗装された柵があり、その先には崖になっていた。
時刻は20時過ぎ。陽は暮れ、世界は夜に覆われる。
人の姿は全くない。
ここに来たのに理由はない。ただ、家にいると頭がおかしくなりそうで、出かけたかった。気づけば、こんなところまで歩いて来ていた。
「ここ、恋詩と来たことあったなぁ」
過去の記憶が蘇る。確か冬だっただろうか。
高台にあるベンチに2人並んで座って、手を繋いで。
”ずっとこうしていたい”そんなことを自分は言った気がする。
寒さで白くなる吐息と少年の手の温かさが記憶に残っている。
何よりもあの時間が幸せだった。
少年と一緒に過ごす時間。あの時だけは、自分の身分も忘れ、ただの朱里として過ごすことができた。
でも、あの時間はもう手に入らない。
自分で捨てたから。少年に傷を残して。
「……私は」
なんのために生まれたんだろう。
人々を守るため? ”鬼”を殺すため? それとも仲間を守るため?
姉、許嫁、部隊の仲間達の姿を思い出す。
皆、共に苦難を乗り越えてきた大切な人たちだ。
大切。本当に?
本当にそう思っているのか。
「……」
本当は”みんな”どうでもいいんじゃないか?
分かっていただろう。ただ、お前は何も考えず御堂という家に、叛鬼衆という生まれに従っただけ。
なのに、叛鬼師として何よりも大切な神術を使えなくなった。
いや、『なのに』ではなく『だから』……か。
神術には本人の思いも関係する。
だって自分は、戦う意味を持ってないんだから。
神様は心を知っているのかもしれない。
少年を捨てて、自分の心を偽って、神術も使えなくなって、戦えなくなって。
自分にはもう、何もない。
「フフ」
いや、あるにはあるか。子を産む肉としての価値は。
例え、神術が使えなくなったとしても自分に流れる血は、御堂家本家のもの。
1000年近く”神術”を扱うために、”鬼”と戦うために、繋げてきた血と肉体。
まだ、その血には価値はあるだろう。
「気持ち悪い」
顔を上げ、眼前に広がる景色を見る。
少年と一緒に育った町。もう何も魅力を感じない。
一歩。一歩と柵の方へ近づく。
(わたし、何しようとしてるんだろう)
しっかりとした柵を乗り越え、崖下を見る。
(高いなぁ)
「……」
あぁ、気持ち悪い。
吐きそうだ。
全部どうでもいい。
何も考えたくない。
忘れたい。
足が勝手に動く。
心の隅。微かに幼馴染の少年の姿が思い浮かぶ。
(少しは悲しんでくれるかなぁ)
そして後一歩、踏み出そうとした時。
「何やってんだよお前」
声が聞こえた。昔からずっと聞いていた声。
好きな声。
振り返ると、薄っすらと赤い髪の少年がそこにはいた。
ランニングでもしてきたようなスウェット姿。
少年、恋詩は怒ったようにこちらを見ていた。




