21 まな板の上の彼女 上
上奏文を受け取った兄の動きは速く、翌日の昼前には、大広間に関係者が呼び集められることとなった。私やハクレイ、風可憐といった当事者以外にも、臣下たちや炎雨林、それに何故か侍医やトーカまでもが招集された大広間は、ぎゅうぎゅうと人で埋まっていた。
兄は数段高いところに設けられた皇帝専用の椅子に泰然と座っている。その正面に――と言っても大きな隔たりがあるが――、私たち当事者や侍医、トーカたちが隊列状に立たされ、臣下たちは私たち関係者と兄の間に、左右に別れて起立していた。
私とハクレイは隊列中央の最前列に、隣り合わされていた。五人ほど人を挟んだ同じ並びに炎雨林とトーカがいて、そのさらに奥に、風可憐とその父親である風可朗がいる。
風可朗は風可憐とは一見して親子に見えないほど冴えない容姿をした、ちょっぴり太った中年男性だ。風可憐は母親似なのだ。
ちらり、とその風可憐に視線を移すと、向こうもこちらの様子を気にしていたのだろう、ばちり、と音が出そうなほどにはっきりと、目が合ってしまう。
居心地の悪さを感じて小さく身を震わせた私とは対照的に、風可憐は赤すぎるくちびるをつり上げて、勝ち誇ったような笑みをくれた。ざまあみろ、と囁かれているようだった。
――彼女は目障りな私を、噂を使い正攻法で皇城から追い出すことにしたらしい。
ついでにこの件で皇帝である兄の覚えがめでたくなれば万々歳……と言ったところなのだろう。あれほど熱心に言い寄っていたのに、ハクレイの立場が悪くなるのは構わないのだろうか、と不思議に思うが、私と親しくしていることで、ハクレイも敵と認識されてしまったのかもしれない。その辺の彼女の気持ちは、私にはわからないけれど。
……この女は、私と兄が実の兄妹であるということを知らないから、この後の展開が自分の思う通りに――私を断罪する展開になると信じて疑っていないのだろう。
でも私は、私とハクレイは知っている。
私たちは裁かれない。適当な理由を並べて無難なところに着地させ、それで幕引きとなることだろう。
(――ねぇそうでしょう、兄さん)
正答を求めて兄に熱心な視線を送るけれど、不自然なほどに目が合わない。豪奢な椅子に腰かけたまま、薄い笑みを浮かべ続けている。
喜怒哀楽の豊かな兄にしては珍しい、感情を抑えた皮肉げな笑みに、どうしてだろう、いやに心を掻き乱された。
上奏文が上がったと聞いて、兄と相談して対策を練ろうとしたのに、結局ここに来るまで、私は兄に会えなかったし。
(……兄さんは、何を考えているんだろう)
私が不安になったところで、兄が口火を切った。
大広間はたった一本の針の音でも響きそうなほどしんと静まり返っていたから、兄の声はとてもよく響いた。
「今日はみなよく集まってくれた。さて、風可朗より届いた上奏文の件だが……、これはまあ一旦置いておいて……というか、これに絡めて先に話しておきたいことがあってな。――俺が妃を娶ろうとしないことでみなに迷惑をかけてしまっているが、実は俺には恋人がいてな。その恋人と以外結ばれる気がないのだ」
兄の突然の告白に、その場が揺れるようにどよめいた。ハクレイもぎょっとした表情で隣にいる私を見て「アンズさまはご存じでしたか⁉」と視線だけで問いかけてきたが、突然の告白に、私もまた目を剥いていた。
(――兄さん!)
感情のまま、大声で怒鳴りつけたくなる。
恋人を紹介する予定があるなんて、兄からも兄の恋人からも聞いていない。
(ねぇどうして、)
今ここで、この瞬間にそれを明かそうとしているの?
知られてはいけない事情があったから、隠し通していたはずなのに。
(恋人の正体を明かす意味を、理解していないわけじゃないでしょう?)
騒ぎになるのは想定内だったのだろう。
誰かが発言をする前に、兄は冷静に畳みかけた。
「まずはその恋人を紹介しておこう。――おいで」
兄がとびきり甘い声で呼びかけると、隊列の一番後方にそっと佇んでいたらしいその人が、列を離れ、まっすぐに兄のもとへ歩き出した。
当然、人々の視線はその人を追いかける。
絡みつく重たい視線にも負けず、その人は堂々と顔を上げて臣下たちの間を通り抜け、そっと兄の隣に立つと、くるりとこちらを振り向いた。
(――ああ、レイジュさん!)
心の中で、私は叫ぶ。
私の大好きな、優しくて穏やかな、ふんわりとした雰囲気を纏う、控えめに咲く花のように可憐な人。
――私と兄が行商人の真似をしながら旅していたとき、兄は私が風可憐につけられた傷を少しでも良くするため、評判の医者や薬師を手当たり次第訊ね歩いていた。
レイジュさんはその中の一人――生涯山奥に住み続けるという高名な薬師一族の中でもっとも将来を期待されていた若手薬師だった。
その評判通りに、レイジュさんはそれまでに訊ねた医者や薬師の中でもっとも優秀で、そして信頼できる人だった。兄は私の傷について、私以上に心配してあれこれ相談しているうちに、その優しくて芯のある人柄に惹かれ、レイジュさんを愛した。
レイジュさんも同様に、兄の明るくて鷹揚な性格に心動かされ、恋に落ちた。
これが二人のなれそめだった。
治療が一段落し、私たちが山を下りようとした際、レイジュさんは一族と別れて私たちの旅についてくる覚悟をしてくれた。それから私たちはずっと三人一緒だった。兄が皇帝になるために一人皇城に戻ってしまっても、私とレイジュさんは別れずに寄り添い合っていた。
そして片翼を失って生きる気力を失いかけていたレイジュさんに懇願されて、私はレイジュさんを連れて皇城に戻ってきた。他ならぬレイジュさんの頼みなら、なんでも聞き入れてあげたかったから。
厨房の雑用係という仕事を勧めたのは、離職者が多く、年中人手が足りないため、成人男性がもっとも採用されやすい――しかも末端も末端の職のため、過去の経歴を一切問われない――職であるからだった。
離職者が多いのは、労働時間が長い上に、真冬であっても冷たい水に触れなくてはならないという過酷さから来ているが、レイジュさんは兄への深い愛で、泣き言一つ言わずこの仕事をやり通していた。
……無遠慮な大勢の人の目にさらされているからだろう、いつもは穏やかな笑みの浮かぶその顔は、今ははっきりと強張っていた。しかし兄に寄り添うように立つレイジュさんからは、しっかりとした覚悟が感じられた。
そんなレイジュさんの態度から、私は二人が、私に内緒で事前に打ち合わせていたことを悟った。
兄は座したまま、レイジュさんの細い腰に腕を回した。レイジュさんを守るように、兄の腕が絡みつく。
「俺の恋人のレイジュだ。先に宣言しておくが、俺はレイジュ以外と結婚する気はない」
その、言葉に。先ほどよりもずっと大きく、場がどよめいた。
レイジュさんを大急ぎで眺め回した臣下たちが、恐る恐るといった調子で兄に問いかける。――彼らの視線は主に、レイジュさんの真っ平らな胸部に集中していた。
「お、恐れながら陛下、その方は男性ではございませんか……?」
兄はあっけらかんと即答した。
「そうだぞ。それがなんだ?」
まったく膨らみのない胸元。服の上からであればもっともわかりやすい、男性である証拠。
――そう、どんなにかわいらしい容姿をしていても、レイジュさんは男性だ。
だから兄は、レイジュさんという恋人の存在を周囲に隠し通そうとしていた。
洗濯下女だった私でもいいというくらいだから、レイジュさんが女性であれば、平民という身分は特に問題視されず、喜んで後宮に召し上げられただろう。
けれどレイジュさんは男で、男である以上、どう頑張っても兄の子を生むことはできない。
子を強く望まれている皇帝陛下の恋人が男と知られれば、最悪の場合、排除しようと殺害されてしまう可能性があった。だから兄は親友であるはずのハクレイや炎雨林にさえ一言も存在を漏らさなかったし、私も囮となってレイジュさんの存在を秘匿し、兄とレイジュさんの逢引きを成功させる手伝いをしていたのに。
(――どうして、)
ここまで慎重に慎重に守り通してきた秘密を、白日の下にさらしたのだろう。
しかし私以上に兄を問い詰めたいのは、寝耳に水の臣下たちの方であるようだった。
激しい混乱と同様の真っ只中にいる臣下たちは、兄の方を向き、縋るような勢いで口々に叫んだ。
「なりません、陛下! 御子を、御子をどうされるおつもりです!」
「その方はせめて愛妾として迎え入れ下さいませ!」
無神経な臣下たちの発言に、レイジュさんの表情がますます固く強張っていく。レイジュさんの心境を察した兄は腰に手を回した手を解き、代わりに安心を分け与えるように手を握った。
対して臣下たちには露骨にうるさそうな顔を向けて、言い捨てる。
「子は養子をもらえばいいだろう。騒ぐほどのことじゃない」
「――傍系の皇帝など、誰も納得しませんぞ‼」
ついに臣下たちがいきり立ちはじめても、兄はひどく落ち着いていた。
臣下たちの反応の予測済みだったのだろうけれど、まるで、この展開をこそ待っていたという様子にさえ見て取れて。
「わかっている。それは前にも散々聞いたさ。俺としては別に傍系でも構わないと思うのだが……、まあ安心してくれ」
兄はそこで、一拍置いた。生まれた奇妙な間ののち。
「――俺には愛して止まない妹がいるからな。子は妹に産んでもらえばいい。かわいい妹の子ならきっと優秀だぞ?」
そのときはじめて、兄の穏やかで野性味のある黒の瞳が、まっすぐに私の方を向いた。空中でばっちりと視線が絡まり合う。
兄の視線を辿って、臣下たちが、大広間に呼び集められた人間たちが、一斉に私に見た。
突き刺さる視線など、どうでもよかった。
私は限界まで目を見開いて、祈るような気持ちで、心の中で兄に向かって必死で叫んでいた。
言うな言うな言うな、言うな!
(――兄さん‼)
それを言ったらあなたの立場がどうなるかわかるでしょう⁉
けれど兄の口は止まらなかった。ゆっくりゆっくり、殴りたくなるほどもったいをつけて、続きを吐く。
「――――なあアンジュ。いや、アンズ」
――ああついに、兄が公の場で私の名前を口にしてしまった!
私は凍りつき、私と兄とレイジュさん以外で唯一事情を知っているハクレイも、どうしていいかわからない、という表情で私を見つめたまま固まっている。
兄の突然の発言に、大広間は水を打ったように静まり返ってしまった。
「へ、陛下……?」
その場にいた人間のほとんどが、あなたは何を言っているのだという、兄の正気を疑う目で、高いところにいる兄を見上げていた。
何故なら口に出したところで、公主アンズの存在は完全に風化していて、誰も覚えていなかったから。
なのに兄は憎たらしいほど平然とした様子で続ける。公主のことを覚えているのは当然だろうと言わんばかりの口調で。
「今回風可朗から上がった長ったらしい上奏文を要約すれば、『皇帝陛下の妃候補に上がっていた女官が月柏怜と密かに情を通じている』ということだったが、実はこの件の女官アンジュは、俺の妹のアンズなんだ。俺の八つ歳の離れた、公主アンズ。そしてアンズは、かの有名な月柏怜の婚約者でもある。だからこの上奏文ははっきり言って的外れなんだ。アンズとハクレイはもともと婚約者同士だったし、俺とアンズは実の兄妹だから結婚など天地がひっくり返ってもできない。そもそも妃候補を盗る、盗らないの話は成立しないんだよ」
ここにいるほとんどの人間が事情を知らないから、ここまでの兄の言葉には、色々と飛び上がらんばかりに驚くことがあったと思うけれど、彼らが一番仰天したのは、兄がさも当たり前のように公主アンズの存在を持ち出してきたことだろう。
しかし記憶にない臣下たちは目を白黒させて、互いに顔を見合わせていた。
「……陛下に、妹君が……?」
「そんな話は……。先帝陛下の御子は五人では……?」
「いや……、」
しばらくしてようやく父帝の六番目の子のことを思い出したらしい臣下の一人が、だがありえないとばかりに盛大に顔を引き攣らせて、兄に訊ねた。
「公主アンズさまは……、幼少期にお亡くなりになられたはずでは?」
兄は「死んではいない」と即座に力強く答えた。
「俺と母上がアンズの死を偽装しただけだ。――実際、アンズの遺体を見た者はいないだろう?」
自分で問いかけたくせに、兄は誰の返答も待たなかった。レイジュさんの手を握っていない方の手を使って頬杖をつきながら、吐き捨てるように言う。
「見た者がいるはずがないんだ。母上と協力して、誰にも棺を開けさせなかったんだから。それこそ、父上にもな。――あの日のことは今でも鮮明に覚えているぞ。あの日の行動を頭から述べろ、と言われても、諳んじられるくらいだ。……空の棺で無事葬儀が執り行われるまで、俺と母上は一睡もできなかった。空っぽの棺に張りついて、誰も中を見ないよう死に物狂いでベラベラと舌を動かしてでっち上げの理由を述べて、アンズの生存を守り通したんだからな。あの日のことは一生忘れられるわけがない」
……そこには兄の愛があった。揺るぎない妹への愛情。
その底の見えない愛情の深さに、臣下たちが息を呑んでたじろいだのがわかった。
「そもそも何故、アンズさまの死を偽装されたのですか……?」
上がってきた当然の疑問に、兄はあっさりと答えた。
「アンズが異母兄たちに殺されそうになっていたからだ。件の月柏怜との婚約で、アンズは三度も猛毒を飲まされた。のたうち回るアンズの姿をこれ以上見ていられないと、俺と母上が結託して死を偽装したのだ。父上にさえ内緒でな」
「た、たとえ皇族であっても、皇族の死を偽るのは大罪ですぞ……!」
「――だから、なんだ?」
底冷えするように冷たい兄の声が、刃のように鋭く、臣下たちを斬った。兄がこんなふうに臣下たちに気色ばむのは、はじめてのことだった。
「アンズがあのまま死ぬよりマシだっただろう。それとも何か? おまえたちはアンズが死んだ方がマシだったと?」
父帝を彷彿とさせる冷徹な覇者の雰囲気を纏いはじめた兄に、恐れをなした臣下たちがブンブンと必死で首を振って必死で恭順を示そうとする。
「そ、そんなことは決して……!」
「思ってはおりませぬ!」
「それよりも、事情はわかりましたが、」
床に届きそうなほど長い白髭を蓄えた、もっとも年かさの臣下が、場を制して話題を転換させた。
「まずはその女官が公主アンズさまであるということを証明して頂かなければ、陛下の婚姻話は何一つ先には進みませぬ」
ひとまず「アンズという公主がいた」ということが認められたからだろう。兄の雰囲気がほんの少しだけ和らいだものになる。
「おまえたちの記憶の蓋はまだ明かないか? 公主アンズの瞳は、それはそれは見事な杏色だった。何せアンズはその大層珍しい瞳から名前が取られたくらいだからな。――瞳の色だけで充分証拠になるだろう」
しかし白髭の臣下は私を冷たく一瞥して、切り捨てた。とても公主に向けていい視線ではなかった。
「確かにこの女官の瞳も見事な杏色ではありますが、この国においては杏色の瞳はとても珍しいというだけで、南の国々の方ではそこまで珍しいものではございませんから、証拠としては少々弱いですな」
彼の言う通りだ。杏色の瞳は我が国よりも南に行けば、ありふれている、とまではいかないけれど、騒がれるほど珍しいものではなくなる。
私の瞳も、南の国由来だった。三代ほど前に母の実家に嫁いで来た女性が、南の国出身の、杏色の瞳の持ち主だったのだ。私の瞳は彼女から先祖返りの形で受け継がれたのだろうと、そう母から聞かされていた。
確たる証拠だと思っていたものをあっさり退けられた兄は不服そうに、呆れたように息を吐いた。
「疑り深いな~、おまえたちは。別の女人を妹と偽って連れてきて、何の徳があるというのだ」
「年寄りゆえに、陛下とアンズさまが大層仲の良いご兄妹でいらっしゃったことはよく覚えておりますからな」
「……おまえ、ひょっとして、アンズを失った衝撃で、別人をアンズと思い込んでいるのでは、とでも言いたいのか?」
「…………」
沈黙は肯定だった。
兄は「馬鹿馬鹿しい」と不愉快さを全面に押し出して吐き捨てたが、白髭の老人は顔色一つ変えなかった。
「陛下がアンズさまの御子を養子に、と望まれるのであれば、慎重になるのは当然です。偽物だとしたら、傍系の方がマシでした、という話になりかねませんからな」
その言葉に、兄がうるさそうに手を振り払う仕草をした。
「ああわかったわかった。証拠はある。誰か、アンズの宮に行ってきてくれ。アンズの宮の押し入れの中に仕舞われている布団の中に、藍色の巾着が隠されている。――その中に、誕生時に父帝から贈られた金の指輪が入れられている。アンズの名前と皇帝印の刻まれた金の指輪がな」
(~~~~!)
私は思わずくちびるを噛んだ。
兄に教えるんじゃなかった。私のもっとも大切なものの隠し場所。
けれど今ここで、やめてとは叫べない。自分の首を絞めるだけだ。
大広間の出入り口に立っていた兵が二人、上司に指示されて瞬時に走り出していく。兵たちはあっという間に駆け戻ってくるなり「ございました!」と藍色の巾着を天高く掲げた。
兄がそれを白髭の臣下に渡すよう、兵に命じる。兵からそれを受け取った白髭の臣下は、神妙な面持ちをして巾着の口を開けた。
逆さにされた巾着の口からころんと、鮮やかな光を放つ金の指輪が転げ出てくる。
その指輪の煌めきに、臣下たちのみならず、隊列の方からも「ほぉ」という感嘆に近い息がこぼれた。
「……確かに、アンズさまのお名前と皇帝印が刻印されておりますな」
目をすがめて指輪の内側を確認しながら、白髭の臣下が言った。
「指輪自体は本物で間違いないでしょうが、しかしこれでもまだ、この女官がアンズさまであるということは証明できませぬ。――アンズさまの持ち物だった指輪を、陛下が事前に渡していたという可能性も否定できませんからな」
「そうですぞ!」と、他の臣下たちも同調しはじめる。
……死んだことになっていた者の生存を立証するのは難しい。証明される者が公主という高い立場にあるならなおさら、周囲は必要以上に判定に慎重になる。
兄に楯突きたいわけではないのだろうが、よりにもよって兄が、私の子を養子に、次代の皇帝に、などと言い出してしまったから、絶対に否定することのできない証拠がなければ、彼らは頷くことができないのだろう。
――良かった、これならやりすごせる、と私が思った瞬間、兄が鮮やかに笑い出した。
先ほどまでの暗さが一切ない、晴れ晴れとした、愉快げな笑みだった。
「そうかそうか、これでもまだ否定するか。ではとっておきの証拠を披露してやろう。身体に直接刻まれた証拠なら、おまえたちも否定できまい? いいか、よく聞けよ。――本物の公主アンズの左足裏にはな、稲妻模様の傷跡があるんだ」
今ここにいる人間の中で、公主アンズについて三本の指に入るほどくわしいハクレイが、隣で「あっ」と小さく声を上げ、慌てて口元を抑えた。
当の私は、わしづかみにされた心臓を、そのまま刃物でぐちゃぐちゃにかき回されたような気分になった。
呆然と凍りついたまま、高いところにいる兄を見上げる。
それは、それはダメだ。医務記録にもはっきりと傷跡の図面が残っているから、確たる証拠になってしまう。
(――――兄さんッ‼)
「これについては覚えている者も多いのではないか? 何せあの父上を烈火の如く怒らせた大事件だったのだから」
焦り狂う妹を無視し、劇役者のように高らかに、歌うように兄が続ける。
「アンズは父上の寵愛を一身に受けていたせいで、異母兄たちに敵視され、いつも小突きまわされていたが、あの日もそうだった。アンズが後宮内に造られた小川で遊んでいるときに異母兄たちが四人全員でやって来て、よってたかって小さな妹を追いかけ回しはじめた。捕まると叩かれてしまうから、必死で逃げ回っていたアンズは、普段は誰も立ち入らない小川の奥の方へと進んでいってしまった。……俺もあとで知ったんだが、そこには人気がないからと、横着な女官たちがこっそりと捨てた不要品が川底に沈んでいてな。アンズは運悪く、そこに捨てられていた古い瓶の欠片を――大きなガラス片を、素足で思い切り踏んでしまった」
「…………っ!」
兄の語りで当時のことが鮮明に思い出されてしまい、左の足裏がずきずきとうずくような痛みを持ちはじめた。脂汗が、首筋を伝う。
……あのとき兄は、一人だけ剣術の稽古中だった。稽古が終わったら一緒に遊ぼうと約束していたのに、私の姿がどこにもないことに気づいた稽古終わりの兄が、後宮中を探し回って私を助けに来てくれたときにはすでに、私の足からはとめどない量の血があふれて、小川を真っ赤に染め上げていた。
「勢いよく踏みつけてしまったせいで、アンズの足裏はざっくり切れた。出血もひどかったが、何より最悪だったのは、足を切ったのが汚いガラス片だったことで、傷口からばい菌が入ってしまったことだ。ばい菌のせいで、アンズはその夜から高熱を出して、三日三晩生死の境を彷徨い続けた。――その間の父上はそれはそれは恐ろしかったなぁ? アンズが死ねば、役に立たぬ医者は全員殺すと殺気立っておられた。普段は特に何をやらかしても処罰されずに済んでいた異母兄たちも、本気で殴られた上にアンズの容態が回復するまで外に閉め出されていた。父上の剣幕足るや凄まじく、あの第一妃と第二妃がなりふり構わず止めに入るほどだった」
……長年忘れ去られていた小さな公主に関する記憶は、父帝の荒れ具合と関連付けられることで、完全に人々の記憶の底から引っ張り出されたらしい。
「お、覚えております……!」
と臣下たちがこぼれ落ちそうなほどに大きく目を開いて反応しはじめたが、一番大きな反応を示したのは、これまで沈黙を貫いていた――、そしてずっと何故この場に呼び出されたのかわからないという顔をしていた、侍医たちだった。侍医の一人が恐る恐る手を上げて、発言した。
「お恐れながら、その件についてはよく覚えてございます。当時下っ端だったわたくしは直接アンズさまの治療に携わったわけではありませんが、先輩方は不眠不休でアンズさまの治療に当たっておられました……!」
「そうだろうな。当時の治療の責任者はすでに退職して皇城を去っているが、居場所はわかっている。俺を疑うなら、やつを連れてくれば良い。……ああその前に、医務記録を当たる方が早いか。――誰か、探して持ってきてくれ。九年前の、春の頭の日のことだ」
侍医たちがさざめき合って、比較的若い四十代の侍医たちが三人、医務室へと走り出した。
彼らの動きと、ほぼ同時に。「はいっ!」と勢いよく手を上げて、トーカが叫んだ。
「あのっ、ありますっ! アンジュの左足裏には、稲妻模様みたいな傷跡が! 私、本人から直接聞きました! 昔、異母兄弟たちにやられたって……!」
高官たちの並ぶ場だ。トーカには本来発言権がない。けれどトーカはそれをわかっていて、処罰されることを覚悟の上で、声を上げた。
――傷があるという事実を肯定することが、私のためになると思って。
トーカの発言に、その場は再び静寂に包まれた。恐ろしいほどの静けさを気にすることなく、兄はトーカに、温かに笑いかけた。
「そなたのことはアンズからよく聞いている。とても親切で頼りになる同僚がいると。――いつもアンズと仲良くしてくれて、本当にありがとう」
「い、いえ……っ!」
まさか雲の上の存在たる皇帝に、素直に発言を聞き入れてもらえると思っていなかったのだろう。トーカはひどく感激していた。
……ああ、今わかった。兄が何のために、この場にトーカを呼んだのか。
私は兄にトーカのことを色々と話していた。だから兄は、面識がなくてもわかっていたのだ。こういう高官たちが集まるような場所でも、恐れることなく私を想う発言をしてくれるだろうと。
……今の発言は私からすると、ただ首を絞められただけだったけれど。トーカに悪気はないとわかっているから、私はトーカを責められない。恨めない。
完全に退路を断たれた私に、大広間中の視線が集中する。そろりそろりと、例の白髭の臣下が近づいてくる。
「誰か、椅子を持て。……大変申し訳ございませんが、おみ足を拝見させていただけますかな?」
さっきまで素っ気なく「女官女官」と繰り返されていたのに、「おみ足」と来てしまった。
私は乾いた笑いを浮かべる他ない。ここまで追い詰められて、逃げられるわけがなかった。
だって私の左足裏にはくっきりと、稲妻模様が刻印されている。
私は大急ぎで運び込まれた椅子に大人しく腰かけ、黙って足裏をさらすしかなかった。
「おお……!」
「た、確かに……!」
傷跡を覗き込んだ臣下たちが驚愕の声を上げる。そこに医務記録が持ち込まれると、侍医たちが記載されていた傷跡の図と見比べて、「間違いございません」と断言した。
「公主アンズさまにあるはずの傷跡と、寸分違わず同じでございます」
兄は呆れ果てながら、言葉を紡いだ。
「……だから最初からそう言っているではないか。彼女こそが俺のたった一人のかわいい妹――公主アンズであると」
本日何度目かもわからない深い沈黙が下りた。
これで臣下たちも完全に認めざるを得なくなってしまった。私が公主アンズ――皇帝の実の妹であることを。
大広間中の視線が私に注がれ続けている。妹だと暴かれた私がどういう対応をとるのか、その一挙手一投足に息を呑んでいる。重たい視線がべったりと全身に絡みつく。
(……レイジュさんは、すごいな)
この視線の重さに耐え切ったのだから。
心の中でレイジュさんを賞賛しながら、私は観念して椅子から立ち上がり、衆目にさらされる中で、兄に向かって「妹」として話しかけた。
「――兄さん、どうして?」
怒りでどうしようもなく冷え切った声が、大広間に反響していく。
怒っている怒っている。私は、怒っていた。
沈黙を通すことで大切に守り続けていた平穏を、何の相談もなしにぐちゃぐちゃにされてしまったから。相手は愛する兄なのに、全身の血が沸騰していた。
「皇城で兄さんと再会したとき、私は黙っていてと頼んだでしょう。身分の回復など望んでいないとも。なのにどうして、私に断りもなく私の身分を明かしたの?」
私に射殺さんばかりに睨みつけられても、兄は動じなかった。憎たらしいくらい余裕たっぷりに、愛に満ちた表情で微笑んでいる。
私がどれだけ本気で怒っていても、兄はきっと小犬に吠え立てられているくらいにしか感じていないのだ。私はそう悔しく思ったけれど。
「まあそう怒ってくれるな、アンズ。おまえの身分の回復は、どうしても必要なことだったんだ。――これから行う復讐劇のためにはな」
そう言って兄は一度瞳を閉じ、そして開いた。開かれた黒の瞳は、私でさえたじろいでしまうほどの冷たい怒りでギラギラと燃えていた。
これほどまでに怒りに支配された兄を、私ははじめて見た。私の知らない兄の表情に、私は思わず気圧されてしまう。
「……なあ、アンズ。おまえの死を偽装してから、俺とおまえは七年間も離ればなれだったな。存在を勘づかれないために、手紙のやりとり一つできなかったから、その間おまえがどんなふうに暮らしているのか、俺も母上も知ることはできなかったけれど――、あのまま後宮で暮らし続けているよりずっとずっとマシな人生を送ってくれていると、俺たちは固く信じていたんだよ」
「…………」
「公主という高い身分に生まれて何不自由なく暮らせる一方で、毎日のように命を狙われる人生より、一平民として少々貧しくとも平穏に暮らせる人生の方がよっぽど幸せだろうと、そう信じていたから俺たちは罪を犯してまでおまえを逃がしたんだ。――なのに、」
レイジュさんの手を握っていない、空いた方の手で額を押さえながら、兄が大きな苦悩の溜息を吐き出した。
「再会したおまえはちっとも幸せそうではなかった。――今まで口が裂けても言わなかったがな、七年振りに再会したあの瞬間、俺は内心愕然として、現実が信じられなかった。あれほど明るい娘だったのに、再会したおまえからはすっかり笑顔が消えていて、感情を素直に表現することさえできなくなっていた。あまつさえ俺に対しても、他人行儀にぎこちなく振る舞う。――聞けば、風家の屋敷なんぞで、風可憐とかいう女に理不尽に虐げられ続けたせいだった」
深い恨みの籠もった声音に、風可憐がひゅっと息を呑んだ音が、私の耳にまで届いた。
私が公主だったと判明したときから顔色をなくしがたがたと震えていた彼女だったが、私を虐げていたことまで詳細に兄に知られているとは思わなかったらしい。
罪が白日の下にさらされて、今にも卒倒しそうな様子だった。親である風可朗も同様に。
風家がどれほど歴史ある地方貴族だとしても、公主という立場の前には敵わない。本来なら面会さえ許されないほどの身分差がある。知らなかったとはいえ、風可憐はそんな身分差のある相手を、本来なら風家など軽く消し飛ばせる権力を持つ相手を、取り繕うことができないほど、虐げ、蔑み、貶めてしまったのだから。
「あっ、あ、あ、」
風可憐が片手で口元を覆い、これから待ち受ける断罪という名の恐怖に喘いでいるが、兄はそんな風可憐を一顧だにしなかった。
「おまえは心が壊されていただけではなかった。身体までボロボロにされていた。――おまえの隠し事に気づいて無理矢理背中を検めたとき、俺がどれほど絶望したことか!」
兄は吠えて、天を見上げた。そこには空しさがあった。守ってやれなかったことに対する、悔恨。
「白く美しく、そして滑らかだった肌には、鞭で叩かれたあとだけではなく、火かき棒を押し当てられた痕まで残っていて、ズタズタだった。直視するのが耐えられないほどだった。――そう、思えばあれが決定打だったな。いつか機会があったら、おまえを傷つけた相手に復讐してやろう、そのとき俺はそう決めた」
「…………やっぱり、わざとだったの?」
ずっと抱えていた疑問をぶつける私の声からは、怒気が綺麗に消え去っていた。はじめて聞く兄の想いに、心が揺さぶられないわけがなかった。
「……兄さんは、知っていたんでしょう。私を傷つけた風可憐が、妃候補に上がっていたこと。でもあえて口を挟まず、何も知らない婚部の人間が彼女を皇城に招くことを許した。そして皇城に来た彼女が、特に私に対してどう振る舞うかを見ていた」
兄は正解だというように、とろりと甘く微笑んだ。兄には似つかわしくない、毒入りの蜂蜜みたいな、危険の混じった微笑みだった。
私はできるだけ感情が乗らないよう、努めて平坦な声を出した。
「……これでも兄さんに愛されている自信はあるの。何か意図がなければ、風可憐なんて皇帝権限を使ってとっくに叩き出しているはずだもの」
でも兄はそれをしなかった。私の宮の前に動物の死骸が置かれても、私がどれだけ暴言を吐かれていても。炎雨林をつけることで最低限のところで守ってくれてはいたけれど、本格的に腰を上げて動こうとはしていなかった。
兄が宝物を掘り当てた少年のように無邪気に破顔した。
「おお、俺の愛が伝わっていて嬉しいぞ!」
「当たり前じゃない、兄さん。異母兄たちの魔の手からいつも私を守ってくれた兄さんの愛を、壊れていた私の面倒を根気強く見続けてくれた兄さんの愛を、私が疑うわけがない。だから兄さんが風可憐を放置していても、私は口を出さなかったの。何か裏があるんだろうと、そう思って。――試していたんでしょう? 風可憐を」
「そうだよ、アンズ」
兄が、危なっかしい妹をどこまでも温かく見守る優しい兄の顔をする。私はいつもこの兄の愛に、柔らかく包まれて生きてきた。今、この瞬間も。
「その女が、アンズをアンズだと気づいても何もしない、もしくは誠心誠意謝罪していたなら、俺だってここまで大事にしようとは思わなかったさ。だけどどうだ? その女がしたことは? 皇帝の近くにいるから多少の抑えが効いていただけで、あのころと少しも変わっていなかった。いや、余計悪くなっていたな。これだけのときが経ち、あのころよりずっと大人になっても、悪いと思う感性すら育っていなかったのだから。だから俺も、大鉈を振るうことにした。――……とまあ、少々かっこつけてみたが、俺もはじめから今回の件を企んでいたわけではないし、ここまで順調に事が進むと思っていたわけでもない」
「…………」
「そもそも俺は自分が皇帝位に就く日が来るなどとは欠片も思っていなかったし、アンズがレイジュを連れて皇城に来るなどということも予想していなかったからな」
けれど兄は大方の望みを実現できるこの国の最高権力者の座に納まり、肝心の妹も、遠く離れた場所から、自主的に兄の手元に戻ってきた。兄の最愛の恋人と一緒に。
「だがこれで復讐の前提条件が揃っただろ? あとは風可憐にどうやり返すかだな……などと考えていたら、妃候補として向こうからこちらにやってきてくれた。上奏文まで提出して、自ら復讐の舞台に飛び乗ってくれるご丁寧さだ。あまりに順調に事が進みすぎて、まるで何かに導かれているような気分にだったぞ」
「……兄さんの執念に導かれたのかもね」
てっきり妃候補の名簿を見た際に今回の計画を思いついたのかと思っていたが、まさかそんな前から復讐心を燃やしていただなんて。これっぽちも気がつかなかった。兄が皇帝になる前は、あれほど近い場所に居たのに。
私の戯言を、兄は否定しなかった。
「そうかもな。……そしてこの復讐を最高の形で成し遂げるには、どうしてもおまえの身分を明かす必要があった。――ただの女官を虐げたことを罪に問うより、公主を虐げたことを罪に問う方が、罪状はずっと重くなるからな」
……兄の献身に、私は何を言えば良いのかわからなくなる。風可憐にされたことは一生許せないから、兄に感謝する気持ちは大いにあるのだけれど、勝手に秘密を公にされた分、手放しで喜ぶことができない。
「……兄さんは、許せなかったんだね」
逡巡の挙げ句、ぽつりと呟くと。
再びギラギラと、兄の黒の瞳が怒りで真っ赤に燃え上がった。
「当たり前だろう。――――俺がおまえを傷つけた者を、許しておけると思っているのか?」
その言葉に、私ははっと気づいてしまった。他の人は気づけなくても、私だけは目から鱗が落ちた気分になる。
(――ああ、そっか。そういうことだったの、兄さん)
――――兄は本当は誰よりも、私を後宮から出してしまった自分自身を許すことができないでいるのだ。
兄の本当の怒りは、風可憐ではなく自分自身に向いていた。
自分と母が私を後宮から出さなければ、私がこんな酷い目に遭うことはなかったのに、と、兄がそう自分を責めていることに、私は今、ようやっと気がついた。
負い目があるからこそ、「皇族の死を偽るのは大罪」という己の罪を明らかにしてまで、私の身分を回復させたのだ。せめてもの償いとして。
そのことを悟った瞬間、両目からつぅ、と、涙が頬を伝ってこぼれていく。
「馬鹿だね、兄さんは。私が兄さんを恨んだことが、たった一度でもあると思ってるの?」
周囲には何の話かわからないだろう。でも兄にはこれで充分伝わったはずだ。
そして今は、誰も兄妹の会話を邪魔することができない。私たちの独壇場。
「あのまま後宮に居続けたら、私は間違いなく死んでいたよ。大人になった兄さんにも、ハクレイにも再会することは敵わなかった。ぐずぐず後宮に留まろうとしていた私を追い出してくれた兄さんこそ、私の命の恩人でしょう。それにねぇ兄さん。壊れてた私の心を根気よく修復してくれて、決して裕福とは言えない暮らしの中でも金を惜しまず私の傷跡を治す努力をし続けてくれた兄さんに、どうして悪感情を抱けるというの? 私が恨んでるのは風可憐だけ。だから兄さんは自分自身をもう許して。――じゃなきゃ私も、幸せになれない」
私たちはたぶん、それぞれに兄妹愛が強すぎるのだ。味方の少ない後宮の片隅で、互いに身を寄せ合いながら生きてきたから。器の大きい兄の深い愛に包まれて育ったがゆえに、私も自然と兄を愛し返したから。
だから大好きな兄が、私のために自分を責め続けている状況にあるのは、とても辛かった。悲しかった。やるせなかった。
(お願い、兄さん。私のためなんかに、苦しまないで)
それは懇願であり、祈りだった。
「――アンズ」
兄が半分だけ、皇帝の仮面をつけながら、厳かに私の名前を呼んだ。
「ならおまえも、なんだかんだと意地を張らずに幸せになるな?」
「……なる。なるよ」
それで兄が自分を許してくれるなら。私は兄の望みを叶えよう。だって愛しているのだから。
か細い声で応答すると、兄は私に寄り添うように立っていたハクレイに視線を移動させた。
「――月柏怜」
「はっ」
「おまえとアンズはかつて婚約していたな。アンズの死で婚約は消滅したが、おまえの想いはあのころと何一つ変わらんのだろう?」
もちろんでございます、とハクレイは背筋をぴんと伸ばしながら断言した。
「私は今でもアンズさまを愛しております。アンズさまが公主であろうとなかろうと、たとえどんなにひどい傷をお持ちでも、私の愛は未来永劫変わりませぬ」
兄は納得したように、力強く頷いた。
「ならばどうか娶ってくれないか。俺のこの世でたった一人の大事な大事な妹を。この兄にさえなかなか本音を言ってくれない意地っ張りな妹は、おまえにしか託せない」
兄の頼みに、ハクレイはその場で平伏し、感極まった声で応えた。
「――ありがたき幸せにございます……‼」
「なぁに、構わんさ。すべて元に戻っただけ。ただし、子が――男児ができたら養子にもらうぞ? おまえたちもそれで異論ないな? 公主と月家嫡男で婚部の長――若手一番の出世頭との子なら、血筋も頭の出来も問題ないだろう?」
「はっ……!」
兄に睥睨され、臣下たちが丁寧に腰を折る。
平伏するのをやめたハクレイは、歓喜の涙を流しながら、今度は私の手を取って、うやうやしく膝を折った。
「ハクレイ……」
「姫さま。陛下からのお許しは頂きましたが、姫さまからの許可も頂きたく存じます。――どうか私と、結婚して頂けませんか?」
二度目の求婚に、私は思わず涙ぐむ。この間は余計なことを考えて、頷くことができなかったけれど。
兄の願い通り、レイジュさんにお願いされた通り、今度こそ素直に受け入れよう。
「……知っているでしょう、ハクレイ。私の心はずっと前からあなたのものよ。この間は素直に言えなかったけれど……、これから先の人生をあなたと歩めるのなら、これ以上幸せなことはないわ」
「姫さま……っ! 必ず、必ず、世界で一番幸せにしてみせますから……っ!」
衆人環視の中にいるから、くちびるを重ねる代わりに、互いに強く抱擁し合う。身体に回される腕の力強さから、ハクレイの想いが伝わってくる。
しばし状況を忘れて抱き合っていると、やがてパチパチという拍手の音が聞こえてきた。
少しだけ視線を動かし、音の位置をさぐると、祝福の音を紡いでくれていたのは炎雨林だった。
私の正体を知らされていなかった炎雨林は、少し複雑そうな面持ちをしながらも、親友の想いの成就を喜ぶ、優しくて温かい瞳をして手を叩いてくれていた。
資格がなく、またそれどころではない風可憐と風可朗以外の人々が、炎雨林に続く。パチパチ、パチパチと、祝いの音が折り重なって大広間に反響し、私たちを温かく包み込んでいった。




