20 嵐がじわりと迫ってる
それから五日後の、お昼休みの時間。
私は宮の中でそわそわしながらレイジュさんを待っていた。
待つこと五分。レイジュさんが「遅れてごめんね!」という謝罪の言葉と共に、宮へ駆け込んで来る。
「いえ、大丈夫ですよ」
レイジュさんが、忙しい仕事場からなんとか抜け出してきてくれたことはわかっていたので、私は一向に気にしていなかった。
レイジュさんはほっとしたように微笑んで、「アンジュちゃん、これ」と、右の小脇に挟むように抱えていた小さな薬壺を手渡してくれた。
薬壺を受け取った私は感謝して頭を下げる。
「ありがとうございます、レイジュさん。お忙しいのに、毎回毎回……」
薬壺の中に入っているのは、真緑色をしたレイジュさんお手製の軟膏だ。主に、背中の傷跡に塗布する用の軟膏。
今日の目的は、この薬の受け渡しと、いつもの情報交換だった。
――持て余していたハクレイのお菓子の使い道について助言してもらったあとも、レイジュさんとは定期的に会って情報を交換していたのだが、風可憐が皇城にやってきてからは接触を控えていた。
私と仲良し認定されることで、レイジュさんに悪意が及ぶのを避けたいというのが一つと、繊細なレイジュさんには万が一にも無惨な動物の死骸など見せたくなかったからだ。そのため、手紙のやりとりはしていたものの、直接顔を合わせるのは随分と久し振りのことだった。
相も変わらずふんわりとかわいらしいレイジュさんは、「うぅん」と首を横に振って、誇らしげに胸を張った。
「これが僕の本来のお仕事だもの。だから気にしないで。それより、傷の具合はどう? 最近、痛みはある?」
事前にやりとりしていた手紙で、あまり時間が取れそうにないと言っていたレイジュさんは、その通りに急いでいるのだろう。卓にも着こうとせぬまま、傷の具合についてあれこれと質問を投げかけてきたが、ふと、思い出したようにまったく別のことを訊ねてきた。
「そういえば、アンジュちゃん、ハクレイさまと、絶対何かあったでしょう? たまに二人が一緒にいるところを見かけるんだけど、特に最近はすごく仲が良さそうだから」
「え、」
不意打ちでハクレイの名前が飛び出てきた上に、仲が良さそうとまで言われてしまい、私の頬はさっと朱に染まった。レイジュさんに言われると、なんだかとても気恥ずかしい。
――私が「アンズ」であることが判明してから、ハクレイの態度はがらりと変わった。
態度を急変させると周囲に怪しまれてしまうから、人目のあるところでは以前通りに接してちょうだいね、あとしばらくは宮への訪問――兄の妃に勧誘するふりも続けてね、と言い聞かせていたものの、あの日以降、ハクレイはたとえどんなに離れたところにいても、私を見かけるたび、「アンズさ、……アンジュ殿!」と、喜び全開の顔で、手をフリフリ駆けつけてくる。ブンブンと振れる尻尾の幻影が見えているのは、きっと私だけではないはずだ。
あからさまな態度の変化に、「もう、気をつけてって言ったじゃない」と窘めもしたのだが、「アンズさまが生きていたという事実が嬉しすぎて、感情の制御が利かないのです……」としょんぼりした様子で言われてしまえば、それ以上怒るに怒れなかった。
……私は結局のところ、ハクレイに甘いのだ。好きだから、つい判定が甘くなってしまう。恋とはたぶん、そういうもの。
私の表情変化を見て取ったレイジュさんが、微笑ましいものを見る瞳になる。
「アンジュちゃん、前よりもずっと感情が顔に出るようになってきたよね。本当に良かった。ハクレイさまのおかげかな?」
うまくいってるんでしょう、と微笑まれ、私は小さく小さく頷いた。頷きだけですべてを察してくれたレイジュさんは、姉のように慈愛に満ちた表情で優しく微笑んで、それから不意にその表情を陰らせた。
「――でも気をつけてね。ちょっと、悪いふうに噂になってきちゃってるから」
「…………」
レイジュさんは嘘は言わない。信頼に足る人だと知っているから、本当に良くない噂が広まっているのだとわかった。
……レイジュさんと同じように、ハクレイとの仲が進展したことに気づいたトーカたち女官仲間は「おめでとう!」と祝福してくれただけで、他には何も言ってこなかったけれど。気を遣って、あえて沈黙を通してくれているのかもしれなかった。
どんな噂ですか、と訊いてみると、レイジュさんは一瞬言い辛そうに顔を歪めた。が、私が何も知らないのなら、他でもない自分が教えなくてはならないという責任感に似た何かが、レイジュさんの口を開かせた。
「皇帝陛下の妃候補だった女官を、ハクレイさまが奪った、って……」
「……なるほど」
確かに事情を知らなければ、そう見える。見えてしまう。
レイジュさんが憂いげに目を伏せた。
「前までのアンジュちゃんとハクレイさまは、親しげでもまだ一線を引いた感じがあったけど……。今の二人はどう見ても仲睦まじい恋人同士に見えちゃうから……」
――恋人同士だと誤解されてしまうかもしれない、という懸念はあった。
そのことで攻撃されるなら、ハクレイではなく私だと思っていたけれど、さすがに皇帝の妃候補に上がっていた女を貶めることはできなかったのだろう。
しかしまずい。
色んな意味でまずいが、特にこの調子で噂が広まってしまえば、兄の敷いた箝口令が意味をなさなくなってしまう。私が兄の妃候補に上がっていたことが風可憐の耳に入ったら、どんな目に遭わされるかわからない――。
そう焦っていたら、「でもね、」と一転、レイジュさんがふわりと笑った。
ついこの間通り過ぎたばかりのような気がする春の、桜の花のように控えめながら、人の印象に残って消えない可憐な笑みだった。
「僕もそうだけど、二人の仲を祝福してくれる人もちゃんといるんだよ。ハクレイさまもやっと幸せになれるんだね、って、喜んでくれている人も少なくないの」
「……友人でもないのにそう思ってくれる人が、本当にいるんでしょうか」
「うん、ちゃんといるよ」
ひねくれた私の考えを、レイジュさんが柔らかい口調できっぱりと否定する。レイジュさんはともすると儚げに見られるが、芯はとても強い人だった。
「だってくわしい事情を知らなくても、アンジュちゃんはどう見てもハクレイさまの特別でしょう? 過去を引きずってるせいで、綺麗だけれどどこか陰りのある表情を浮かべ続けてた人が、最近ではあんなに生き生きと――、本当に生きてて楽しい! って顔をしてるんだもの。喜ばしいことでしょう?」
だからね、アンジュちゃん、と、レイジュさんがそっと私を抱き締めて、その耳元で囁いた。幼い子どもを相手するように、ゆっくりと言い含められる。
「――幸せになることを、恐れないでね。そのときが来たら、ちゃんと素直になって、迷わずアンジュちゃんだけの幸せを掴んで。――僕もいつだって、かわいいアンジュちゃんの幸せを祈っているからね」
「……レイジュさん」
まったくあなたは、兄と同じようなことを言う。
私の瞳からぽろりと、レイジュさんの温かな心遣いに対する感謝の涙がこぼれ落ちた。
レイジュさんが伝えてくれた「噂」は、じわりじわりと皇城を包み込んでいった。
急いでハクレイと話し合い、あえてまったく顔を合わせないことにしたけれど、それでも噂はいやな雰囲気を纏って、広まり続けていく。
けれど最初に妃候補に取り立てられたときのように、周囲から遠巻きにされるだけで、直接的なことは何も起こらなかった。
風可憐も、噂を通して私が妃候補に上がっていたことを知ったはずなのに、私を見かけるたびに扇を口元で隠して面白そうに笑うだけで、何もしてこない。
そのことが逆に、私の不安を煽っていた。
(まるで嵐の前の、静けさみたい……)
そして私の予感は的中する。
――風可憐が、「皇帝陛下の妃候補に上がっていた女官が月柏怜と密かに情を通じているようだ」と自身の父親を通して兄に上奏文を上げたのは、レイジュさんの訪問からたった七日後のことだった。




