19 未来の約束と兄への報告
長い長い接吻の終わりに、ハクレイはもう一度だけ平伏した。
「姫さまが素性を隠し続けたいとおっしゃるなら、私は何も申しません。……気づいていなかったとはいえ、実兄であるカイエンさまの妃にと繰り返しお願いに上がったこと、誠に申し訳ございませんでした」
と。
それから身体を起こし、少し照れたように微笑みながら、こうも告げた。
「……もし、もしよろしければ、いつか女官を辞めて、この家に来て下さいませんか? たとえ結婚できずとも、姫さまと共にいたいのです。……本当はただ我が家でのんびりと過ごして頂きたいところですが、姫さまがどうしても働きたいとおっしゃるなら、ちゃんと仕事も用意いたしますから」
どんな形であれ傍にいたいのだ、と健気に訴えてくる男を、邪険になどできなかった。
私は表情を和らげて答える。
「そうね、まだもうしばらくは皇城にいる必要があるでしょうけど、ほとぼりが冷めたらお願いしようかしら。お友達もできたことだし、女官の仕事も楽しいのだけれど、何かと変に目立ちすぎているから、いずれ居辛くなってしまうと思うのよね。……でもちゃんと、お仕事はさせてちょうだいな」
「はい、姫さま」
そうして私はハクレイの用意してくれた馬車に乗って、日が落ち切る前に一人皇城に戻った。
ハクレイの屋敷からまっすぐ宮に戻ると、宮の中には何故か兄がいた。特に約束はしていなかったのに、卓に着いて、自分で淹れたらしい茶を飲み、まったりとくつろいでいる。
「……兄さん」
まさか兄がいるとは思わず、動揺に瞳を揺らした私に、兄が慈愛たっぷりに笑いかけてきた。
「おかえり、アンジュ。いや、アンズ」
(……ああ、そうか)
兄は察しているのだ。ハクレイの屋敷に招かれた私が、彼と何を話したのか。
どうして知っているのだろう、と訝しむ気持ちもあるけれど、兄の今の立場を考えれば、知らない方がおかしな気もした。
ぼんやりと兄を見つめ返していると、物の輪郭がだんだんと歪みはじめた。瞬きをした途端、杏色の瞳からぼろぼろと、勝手に涙がこぼれていく。涙で震える声で、私は兄に告げた。
「ただいま、兄さん。――私、私、ちゃんと月柏怜に会ってきたよ」
その言葉に、兄は立ち上がって私に近づき、「偉いぞ」と力強く抱擁しながら褒めてくれた。
「頑張ったな、アンズ。真正面から向き合うのは、とても怖かっただろうに」
兄の背中に縋るように両手を回して泣きじゃくりながら、私は兄に心からの感謝を告げた。
「兄さん、ず、ずっとずっと、黙っていてくれてありがとう……っ!」
皇城で兄と再会したときから、せめてハクレイにだけは生存を明かした方がいいのではないか、と勧められていた。
あいつは今でもおまえのことを想い続けているし、おまえが生きていることを知れば、色々と協力してくれるだろうから、と。
でも私は兄の提案に頷けなかった。昔と正反対の性格になった私では、絶対にがっかりされてしまうと思ったから。
……親友なのに、親友の苦悩を知っていたのに、私のために沈黙を守り続けてくれた兄には、感謝してもしきれない。
途中で勝手に生存をバラされていたら、きっと今日みたいにうまくはいかず、どこかで拗れていたはずだった。……代わりに、ハクレイにさえ事実を明かさなかったせいで、兄の嫁になるよう懇願される、という珍奇な事態を招いてしまったけれど。
兄は鷹揚に頷いた。
「いいんだ、いいんだ。俺の口からおまえが生きていると明かしたところで、おまえの死を固く信じていたあいつは信じなかったことだろうしなぁ」
赤子をあやすように兄にとんとんと優しく背中を叩かれて、私はようやく落ち着きを取り戻した。
抱擁が解かれ、起立した状態で向かい合いながら、ハクレイから、いずれ自分の屋敷に移ってきて欲しいと言われたという話をした。
ハクレイと、「アンズ」として話をしていたからだろう、口調がだんだんと、公主時代のものに引きずられていく。
「……だから私、兄さんの件が落ち着いたら、そちらへ移ろうと思うの。もちろん、使用人としてだけど」
兄さんの件、とは、兄さんとその恋人の逢瀬の件だ。私はまだ少しだけ、今は本当に少しではあるが、兄と兄の恋人の密会の手伝いをしていたから、それを放り出して去りゆくわけにはいかなかった。
はにかみながら私が言うと、兄は怪訝な顔をして首を捻った。
「……ハクレイは、嫁として引っ越してきてほしいんじゃないか?」
その言葉を受けて、私は視線を少し床に落とした。
「そう、だと思うわ。でもね、兄さん。私、結構満足なの。私の性格がすっかり変わってしまっても、どれだけ醜い傷跡があっても、公主じゃなくても、ハクレイは私のことを好きだと言い切ってくれたわ。ハクレイは身分なんかで人を見るような人じゃないって知っていたけど、でも私、そのことが本当に嬉しかったの。ハクレイが今の私を受け止めてくれただけで、充分なの。これ以上何かを望むのは強欲だわ。……罰が当たりそうで怖いの」
眉を下げ、情けない本音を吐露すると、兄がからかうように言った。
「昔のおまえだったら、『お兄さま! お兄さまの迷惑になっちゃうから、私の身分の回復はせずに、でもなんとかして私とハクレイを周囲に認められる形で結婚させて!』と盛大な無茶を言ってただろうになぁ」
私は苦笑する。確かに、一言一句違わぬことをお願いしていただろうけど。
「もう、兄さん。そんな私はもうどこにもいないわよ。わかっているでしょう? ……全部、風家での下働き時代に折られたわ」
過去はすべて現在に繋がっていて、どんなに苦い思い出とも、完全に縁を切ることはできない。
私は自嘲する。
「今思うと、公主時代の私は相当我儘だったから、折られた方がよかったとも思うけど」
兄としてはほんの冗談のつもりだったのに、私が思った以上に真面目に反応したからだろう。すかさず訂正を入れてくる。
「――おいおい、誤解するんじゃないぞ。あのころのおまえもかわいかったさ。おまえの我儘なんて所詮、かわいい子どもの範疇を過ぎなかったんだし」
「兄さんってば、本当に私に甘いわね」
砂糖菓子を愛でるように、兄はどこまでも私を甘やかす。兄は大仰に両手を広げて、豪快に笑った。
「当たり前だろう? 俺たちは世界にたった二人の、兄妹なんだから」
「……そうね、兄さん。私たちはこの世でたった二人だけの、兄妹だわ」
兄妹だから、血が繋がっているからといって、誰もが仲良くできるわけじゃない。
でも私たちは一つの魂を分け合って生まれてきたのではないかと思うほど不可分にくっつき合って、互いに互いを愛していた。
私がハクレイを愛するのとは、兄が恋人を想う気持ちとは、似ているようで決定的に違う気持ち。重く絡んだ兄妹愛。
それでも、愛の重さが釣り合っているから、私たち兄妹はいつまで経っても仲の良いままでいられるのだろうと思う。
とはいえ、皇城でこんなふうに仲良く過ごせるのは、あともう少しだけなのだろうけれど。
……私とハクレイの関係性は前進という名の変化を遂げたし、兄と恋人の逢瀬の手伝いも、永遠に続けることはできない。いつまでもこのままではいられない。
大好きな兄との別れが近づいていることを、私はなんとなく察していた。
同時に思う。
以前は木箱の中ですすり泣きながら後宮を――皇城から脱出したものだが、今度皇城を出るとき、私は一体どんな顔をしているのだろうか、と。




