18 あなたが死んだと聞かされたとき、私の世界は砕かれた
それからハクレイは、私を抱き締めて静かに泣き続けた。……昔から泣き虫だと思っていたけれど、今でも変わらないらしい。
溜め込まれていた九年分の涙が、ようやく彼から吐き出されていく。
私より六つも年上の男の背中をあやすようにさすってやっていると、十分ほどしてハクレイが突然我に返った。
冷静になった彼は「すみません!」と慌てて私から離れた。そして先ほどのようにきちんと背筋を伸ばして正座しながら、深々と頭を下げて、もう一度改めて謝罪してきた。
「いきなり抱きついてしまって、申し訳ありませんでした! まさか、本当に姫さまが生きていらっしゃるとは思わなかったので、つい感極まってしまいまして……」
私の生存を魂から喜んでくれているのだろう、月柏怜の灰がかった青の瞳は、泣きすぎて赤く充血していた。
そのウサギのように真っ赤な瞳を愛おしく思いながら、私は応える。少しだけ、からかうような響きを乗せて。
「私も逆の意味でずっと驚かされていたわよ。――いくら私が様変わりしているとはいえ、ハクレイったらまったく気がつかないんですもの。正体を隠し続けていた私が言えることじゃないけど、かなり寂しかったし、正直傷つきもしたわ」
「そ、それは……!」
ハクレイが慌てふためきながら弁明に走る。変に誤解されたままではたまらないというふうに、大きく身を乗り出しながら、彼なりの言い分を述べてきた。
「私は本当に、アンジュ、いえアンズさまがお亡くなりになったものと信じ込んでおりましたので、そもそも生きていらっしゃるかもしれない、という発想がまったくなく……! ですから、その可能性に気がついたときも、自分が自分で信じられなかったくらいでして……!」
アンズさまを恋い慕うあまり、とうとう事実のねつ造まではじめてしまったかと、自分の正気を疑いもしました、とまで言葉を重ねられてしまう。
ハクレイの言い分はわからないでもなかったが、それなら私にだって言いたいことがある。私は不満を示すために眉を寄せて、「アンジュ」として顔を合わせたときからずっと思っていたことをぶちまけた。
「でもハクレイ、あなた、仮にも一部署の長のくせに、お兄さまが明らかに特別扱いしている杏色をした瞳の娘を――それも本名に限りなく近い名前を名乗っている娘を疑ってかからないなんてどうかしてるわよ」
私につられて、ハクレイの調子も熱くなる。
「もちろん私とて、『あれ?』と思うこと多々はありました。この国でこれほど見事な杏色の瞳を持つ方がなかなかいないということは重々承知しておりますし、雰囲気や話し方が変わられていても、お優しいところはそのままでいらっしゃいましたから。ですが繰り返しになりますが、私は本当に、アンズさまはお亡くなりになったものと固く信じておりましたので、よく似ていらっしゃると思いはすれど、まさかアンズさまご本人だとは――」
「――でもあなた、私の遺体は見ていないでしょう?」
青の瞳をまっすぐに射抜いてやると、ハクレイは押し黙った。数分の沈黙の後、「それは確かに、見ておりませんが……」と、絞り出すような声で小さく呟く。当時のことを思い出したのだろう、その人形のように端正な顔には、深い悲愴感が満ちていた。
「……お顔がひどく爛れているからと、結局一度も、ほんの数秒も、棺の中を見せて頂くことはできなかったのです。たとえどんなお姿になっていても構わないから、最後に一目お顔を拝見させてほしいと、第三妃さまとカイエンさまに頼み込みましたが、『アンズがかわいそうだから、見ないであげてほしい。綺麗なアンズだけを覚えていて欲しい』と、そう断られてしまって……」
私は静かに息を吐きながら答えた。
「そうね。見せられなかったのよ。――棺の中に入っていたのは私じゃなくて、私の体重と同じだけの、石だったもの」
兄と母の手によって、公主アンズは原因不明の奇病にかかり、顔も含めた全身が爛れた末に急死したことにされた。いつも私を診ていてくれた老医師を抱き込んで、そう診断を下させたのだ。そうして石を詰め込んだ棺の蓋を固く閉じてから、父帝を含む周囲に報告を行った。
――あとから冷静になって考えると、よくそんなめちゃくちゃな理由付けで押し通せたものだと思うが、異母兄たちに毒を盛られたり苛められたりしていた私は、時々原因不明の激しい体調不良に陥ることが少なくなかったし、ちょうど城下でもおかしな病が流行っていたから、「奇病」で通し切ることに成功したのだと思う。ある意味で、とても時期が良かったのだ。
誰にも見せられないほどひどく爛れたということにしたくて「奇病」と偽ったのだが、それは棺を空けさせないため――、棺の中に私がいないということに気づかせないためだった。
ハクレイに告げたのと同じ理由――死んでいるとはいえ、年頃の娘がこんなに爛れた顔を見られるのはいやだろうから、という理由をつけて、兄と母は誰にも棺を空けさせなかった。――私を溺愛していた父帝にも。
石の詰まった棺で葬儀が執り行われている間に、私は母が実家へ送る贈り物を詰めたたくさんの木箱の中に紛れて――一つ空箱を作って、その中に詰めて運ばれたのだ――後宮を脱出し、地方に逃げ延びた。
そのまま母の実家に逃げ込まなかったのは、母の実家に身を寄せると、生存が発覚する可能性が高いと踏んだからだ。いくらただの使用人の振りをしても、私のこの杏色の瞳はこの国では限りなく珍しく、どうしても目立ってしまう。そして母の実家は名門貴族ゆえに人の出入りが多いため、どうしても人目につきやすかった。杏色の瞳を持つ、私によく似た娘がいると噂になったら、父帝が飛んで来てしまうかも知れない。父帝はそのくらい、私をかわいがってくれていたから。
そういう懸念があって、私は母の実家のある地方とは違う地方に逃げ込んだのだ。……結果的に、それが悪手であったのだけれど。
過去を一気に回想し終えて、私は深い溜息をついた。
「……それにしても、あなたがここまで信じ込んでしまっていたなんて、まったく、お兄さまとお母さまが命を賭けて下さった甲斐があったわね。敵を欺くには、まず味方からと言うもの」
ハクレイがこの調子では、あの変に疑り深かった異母兄やその母妃たちでさえ、私の死を一度たりとも疑わなかったことだろう。
ここまで真実を語り終わった私はふと、兄とハクレイの友情にひびが入るとまずいと思い、言葉を添えた。
「……カイエンお兄さまを、恨まないであげてね。お兄さまたちは私のために、罪を犯して下さったの。このまま後宮に居続けては、私が死んでしまうからって。お兄さまたちなりの、愛だったのよ」
私の言葉に、ハクレイは左の瞳から一滴大きな雫をこぼし、沈痛な面持ちで首を左右に振った。
「アンズさまの死を偽装するに至ったカイエンさまたちのお気持ちは充分に理解できますから、恨むなどとてもとても……。……アンズさまはいつも、異母兄さまや、その母君たちから、お命を狙われておいででしたからね……」
婚約者、という立場だったこともあって、ハクレイはよく知っていた。幼い私が、常に危険な目に遭っていたこと。
そこで思わず、嘲笑が漏れた。
「……異母兄さまたちも馬鹿よね。どうして私がお父さまにかわいがられていたか、その理由に最後まで気がつかなかったんだもの」
ハクレイ、と私は公主らしく、穏やかながらも問答無用で人を従わせる迫力のある笑みを浮かべて、ハクレイに訊ねた。
「あなたは異母兄さまたちと違って賢いから、気づいていたでしょう? ――どうして兄妹の中で、私だけがあれほどまでにお父さまにかわいがられていたのか、その理由が」
呼びかけられたハクレイは、複雑な面持ちで口を開いた。本当はその答えを口にしたくないのだろうけれど、他でもない私に求められて、ゆっくりと言葉にする。
「……大人になってからようやく気づきましたが……、アンズさまが、女性であられたからでしょう。ご兄妹の中で唯一、皇位継承権を持たない、公主という立場でいらっしゃったから」
「――そうよ」
私は異母兄やその母妃たちへの憎悪で、杏色の瞳を赤く燃やした。察しの悪い異母兄たちに、私はずっと腹を立てていた。
「――お父さまは最期まで後継者を指名しなかったでしょう? あれはね、奪い取ってほしかったからなの。お父さまは兄二人を殺して帝位に就いた自分のように、息子たちにも殺し合った末に帝位を掴んでほしかったのよ」
この平和な世に似つかわしくない、近年稀に見る残虐な思考の持ち主。野性味あふれる冷たい美貌をした、冷徹な覇王。それが私たちの父親だった。
……いや、父からすると、それは残酷な行いでもなんでもなかったのかもしれない。目的のために兄弟を斬殺することこそが、皇帝にふさわしい「勇猛さ」の証明だとでも思っていたのではないか。
私の口からまた一つ、大きな溜息が漏れていく。
「……お父さまからすると、皇子の生まれ順や、その母親や、個々人の資質なんてどうも良かったのよ。己の強さを証明してくれるなら、それで。だから息子たちのことは特に愛さなかった。遠くから観察するだけで、関わりを持とうとしなかった。誰か特定の皇子を贔屓していると勘違いされて、どの息子が這い上がってくるかという楽しみに水を差されたくなかったから。――でも私は違うわ。私は女だから、公主だから、どう頑張っても最初から帝位には就けない。就くことは許されない。――――だから私を愛しても何の支障もないと、お父さまはそう思っていたの」
――父にとって私は珍獣だった。
皇帝と正式な妃の間に生まれた子でありながら、絶対に帝位に就くことのできない異端の存在。
加えて近親相姦になるため、どんな女人でも手に入れられる立場にある父でさえ、そういった意味では永遠に手に入れることのできない、稀有な女。
その存在の物珍しさゆえに、父は私に心を寄せた。
「でも私が皇位継承権を持たないからこそ愛されているという事実に、異母兄さまたちはついぞ気づけなかった。だから私の存在を脅威に感じ、攻撃してきた」
「…………」
「……カイエンお兄さまは賢いから、私がお父さまに愛されているのには理由があるということを、ちゃんとわかっていらした。だからこそ、私ばかりがかわいがられていても、嫉妬なんてされなかったわ。むしろ『アンズは大変だな』って同情的だった。……お父さまは確かに私を愛してくれていたけれど、その愛はお兄さまやお母さまが私に向けてくれるような、温かく揺るぎない愛ではなく、気まぐれに愛玩動物を愛でるような、そんな不確かな愛だったもの」
それは決して普遍的な愛ではない。対応を間違えれば即座に破滅する危険性を孕んだ、気まぐれな寵愛だった。
実際、私が調子に乗り、手がつけられないほど我儘に育っていたら、私は即座に父から見限られていたことだろう。
調子に乗って自滅せずに済んだのは、兄と母のおかげだ。……兄と母が心から私を慈しんでいてくれたから、私はあの歳で父の愛の歪さに気づくことができたのだ。
……けれどそんな愛され方でも、私は父が嫌いではなかった。いいえ、むしろ愛していた。他の人が恐れるように、怯える気持ちなど欠片もなかった。叶うことなら私に向ける半分でも良いから兄にも心を配って欲しいと思っていたが、当の兄が父からの愛を望んでいなかったから、私と兄の関係性も歪まなかった。
そんなことをぼんやり思っていると、ハクレイが動揺の滲む瞳を私に向けて、真正面から切り込んできた。見て取れるはっきりとした緊張。
「……一つお聞きしたいのですが、アンズさまが死を偽装する羽目になったのは、私が原因ですか?」
私は目を伏せて、逆に問い返す。
「……どうして? 私はもともと、異母兄さまたちに命を狙われていたじゃない」
「ですが私との婚約から一月も経たないうちに、カイエンさまたちはアンズさまを死者にされました。……アンズさまが急死された直後から、薄々感じていたのです。アンズさまが亡くなられたのは、私と婚約したせいなのではないかと。……私との婚約が、何か決定的に異母兄さま方を刺激してしまったから、アンズさまは死に至ったのではないかと。今考えても、あのときのアンズさまの死はあまりにも急すぎましたから……!」
(…………)
私はハクレイを見つめて嘆息する。こんなところまで察しが良くなくていいのに。なんとか誤魔化してやりたかったけれど、ハクレイはもう、自分で真実に辿り着いてしまっていた。
「……ハクレイってば本当に賢いのね。そうね、決定打はあなたとの婚約だった。異母兄さまたちはこの婚約の実情を知らなかったから、私とハクレイが婚約することによって、あなたの実家である月家がカイエンお兄さまの味方になるのではないかと、むしろこの婚約は月家をカイエンお兄さまの後ろ盾にするためなのではないかと、そんな馬鹿な勘違いをしたの」
私はそこで一度、言葉を切った。
「……異母兄さまたちにはおかしなところがあってね。皇帝になりたいという野望が強すぎて、同母腹であっても互いに敵だと認識していたくせに、私とカイエンお兄さまだけは、何故かいつもひとまとめに――一組にして考えていたのよ。だからこそ、私の婚約とカイエンお兄さまを勝手に関連付けて、婚約によってカイエンお兄さまが皇位継承権争いにおいて一気に有利になってしまう、と焦った挙げ句、私を殺すことで、この婚約をなかったことにしようとしたのね」
実際はまったく関係がなかった。兄も他の異母兄同様、悲しいくらい父帝に放置されていたのに。
それでもなお、彼らは疑い続けていた。父帝に溺愛されている私と同じ母親から生まれている兄が、実は一番有利な立場にあるのではないかと、そう。
勝手な誤解に巻き込まれていたと知ったハクレイが、泣き笑いのような表情を作った。
「……私たちからすれば、ただ、恋情で結ばれた婚約でしたのにね」
私も微笑む。
「ええ、そうね。でも何か裏があるんじゃないかって、そう誤解されるのも無理ないわ。異例の速度で進んだ婚約話だったもの」
――私とハクレイが出会ったのは、澄んだ青空の美しい、春と夏のあわいの季節のことだった。
私が七歳で、ハクレイが一三歳だったころの話。
父帝に溺愛されていた私は、兄妹の中で唯一、自由に後宮を出ることを、後宮を出て外廷内でも遊ぶことを許可されていた。
後宮の中にいると、異母兄たちに見つかった途端、追いかけ回されて苛められる。兄が傍にいるときは、兄がいつでも全力で異母兄たちを追い払ってくれるのだが、「皇子」であった兄は剣術の授業やら皇帝候補としての勉強で忙しくて、常に一緒にはいることはできなかった。だから私はお目付役の下男たちを引き連れて、しょっちゅう外廷内をうろうろしていた。
いつものように外廷内を我が物顔で歩き回り、その外れで見かけた、かわいらしい紅色の花をとってと、下男たちにせがんでいたとき。
『その花はとても綺麗ですが、強い毒性を持っているのですよ』
と教えてくれて、毒花の代わりに自身の持っていた花束から可憐な白い花を一輪引き抜いて、私の髪に挿してくれた少年がいた。
『ありがとう。白いお花のお兄ちゃん!』
そうお礼を言った私に、彼は優しく微笑んで『月柏怜と申します』と名乗ってくれた。
『ハクレイ? 素敵な名前ね。私はアンズよ。アンズでいいわ』
名乗り返すと、ハクレイは驚いたように瞬きをした。
『……見事な杏色の瞳をされていましたから、もしや、と思っていましたが、公主さまでいらっしゃいましたか……! これはご無礼をいたしました』
『無礼? 別にあなた何もしてないじゃない』
『しかし、いきなり声をかけてしまいました。本来ならば、アンズさまからのお声がけがないと、話すことは許されませんのに』
『構わないわよ。私、ハクレイに声をかけてもらえて、とても嬉しかったもの』
にこにこと笑顔でそう言うと、ハクレイは照れたように――そして何故か少し困ったように、陰りのある笑みを浮かべた。
『そう言っていただけると嬉しいのですが、私はその、あまり人から好かれるような人間ではないので……』
私はそのとき、彼が同年代の人間から排斥されていることや、周囲の大人たちから軟弱者だと馬鹿にされていることを当然知らなかった。
だから明るく笑ったまま、思ったことを素直に口に出した。
『あら、あなたの周囲の人間は見る目がないのね。あなたってばこんなに優しくて、綺麗なのに』
私の言葉に、ハクレイはきょとんと目を丸くした。まるで「綺麗」という言葉を、今はじめて知ったというように。
『……綺麗、ですか? そんな言葉、はじめてかけていただきました……』
『あら、そうなの? もっと自信を持った方がいいわ。あなた、すっごく綺麗よ。お人形さんみたい。あなたほど綺麗な人を、私は他に知らないわ。お兄さまも大層素敵な方だけれど、綺麗というより、格好良いという言葉の方が似合われるし。――ところであなた、どうしてこんな外廷の外れにいるの? ここ、滅多に人の来るところじゃないわよ? 穴場だから、遊ぶにはおすすめだけれど』
『え、ええ、実は――』
ハクレイ曰く、母親から、後宮で働くとある女官――母親の幼馴染みであり、ハクレイも世話になったことのある年配の女性に、誕生祝いの花束を持っていってほしいと頼まれたのだという。
『何かとご無沙汰しておりますから、あなたが行きなさいと言われたのですが、その、実は一人で皇城に来るのははじめてなもので、道に迷ってしまいまして……』
いつもは父と来ているもので、と困ったように眉を下げるハクレイがかわいそうで、放っておけなくて、私は私よりうんと背の高いハクレイを見上げて、年下のくせにうんとお姉さんぶって胸を張った。
『――いいわ、後宮は私のお庭だし、こんな人気のない場所で出会ったのも何かのご縁だから、私が連れて行ってあげる』
『え! ですが――!』
『いいからいいから、ほら、行きましょ、ハクレイ』
そう言って私は勝手に花束を持っていない方のハクレイの手を取り、ずんずんずんずん後宮の方へ進んで行った。ハクレイは公主という立場にある私に逆らえず、おろおろと手を引っ張られたままついてくるしかなかった。
――それが私とハクレイの最初の出会いだった。本来ならば公主と一貴族の少年の邂逅は、その一度きりで終わるはずだったのだけれど。
私は優しくて綺麗なのに、どこか影のあるハクレイのことが、気になって気になって仕方なくて。
別れ際、私は彼の袖を強く引っ張って、強引に約束させた。
『ねぇハクレイ。また皇城に遊びに来てちょうだい』
『で、ですがアンズさま、私はその……』
『あら、あなた、皇城に自由に出入りできるほど身分の高い、貴族の子どもなのでしょう? なら問題ないじゃない。仮にダメだと言われたら、私に会いに来るよう言われたと言えばいいわ』
門番にはこれを見せれば一発よ、と、私は髪から一本の簪を引き抜いて、彼に渡した。
宝石でできた杏色の小花に銀の龍が絡みつく意匠の簪。
龍は皇帝及び直系皇族を象徴する生き物であり、それ以外の人間が龍の意匠を使うことは許されない。そこに杏色の小花が――皇帝の溺愛する公主の瞳は相当に珍しい杏色だと有名だからだ――添えられているのだから、皇城の関係者であれば私の持ち物だと見抜けないはずがない。だからその簪は、もっともわかりやすい通行許可書になるはずだった。
良い案だわ、と満足げな笑みを浮かべた私とは対照的に、やりとりを見守っていた下男たちは『姫さま、それはいけません』と大慌てで私を諭し、ハクレイも『受け取れません!』とブンブン首を横に振った。
『陛下から頂戴した簪を勝手に人に渡したと知れたら、アンズさまが陛下から叱られてしまいますよ』
けれど幼い私はころころと陽気に笑ってみせた。
『あら、お父さまがこれくらいで私をお叱りになるだなんてありえないわ』
幼少期の私はある意味で無敵の精神をしていたと思う。異母兄やその母妃たちに蛇蝎の如く嫌われ、しつこく苛められてはいても、大好きな兄と母がいて、優しい下男や宦官たちに支えられていて、父帝の寵愛のおかげで大抵の望みが叶ってしまう、まさに順風満帆な人生だったから。
歪な父の愛をうまく甘受しながら、自分の望みを叶えていくあのころの私は、相当にしたたかだったと思う。いや、無邪気に強欲であったというべきか。死ぬこと以外の怖いものなんて、この世に一つもなかった気がする。
ハクレイは困り果てた様子を見せながらも、父帝の寵愛を一身に受けるがゆえに、誰も邪険にできない公主の言う通りに簪を受け取って、去っていった。
私が月家の息子に簪を渡し、また来るようねだったという話はあっという間に皇城中に広まって――その日の夜には父帝でさえ知っていた。
父帝は私を膝に乗せて頭を優しく撫でながら、問いかけてきた。
『簪さえくれてしまったらしいな。そんなに月家の息子が気に入ったのか? アンズ』
『月家の息子? ああ、ハクレイのことね! ええ、お父さま。だってあの人、とっても優しくて綺麗で素敵なんですもの。もっと仲良くなりたいと思ったの』
『月家の息子は大層な軟弱者と聞いているが……、まあ、軟弱ゆえに害にはならんだろう。アンズの好きにすれば良い。いつでも好きなときに呼べるよう、取り計らってやろう』
『本当? ありがとう、お父さま。大好き!』
躊躇いなく抱きついて礼を言うと、父帝はその冷たい美貌を甘く崩して喜んでくれた。私にとっては当たり前の父の優しい表情は、他の人にとってはまったく当たり前なんかではなくて。父に無邪気に甘える私を、他の人々が密かに恐れていたことも知っている。
――ともかく、私は私に甘い父のおかげで、その後もハクレイに会うことができた。さすがに私が皇城を出ることは許されなかったから、十日に一度の頻度で、ハクレイが皇城に来てくれた。
礼儀正しくて品の良いハクレイは、母とも兄ともすぐ打ち解けた。歳が近いこともあり、ハクレイと兄はすぐに友達になった。大好きな兄とハクレイが友達になって、私はお喜びした。
――ハクレイとの婚約話を持ち出したのは、他ならぬ母だった。まだハクレイと会った回数が両の指にも満たぬころに、唐突に母が切り出してきた。
『――ねぇアンズ。あなたハクレイくんのことが好きかしら?』
『? ええ、お母さま。私はハクレイのことが大好きよ』
そのころにはハクレイが周囲から浮いているということを知っていたが、彼のことを嫌いな人がこの世にたくさんいるという事実が、私には到底信じられなかった。
あの人形のように繊細な顔立ちも、陽の光に反射してきらきらと煌めく、月光を細く伸ばして作ったような見事な銀の髪も、灰がかかった青の瞳も宝石みたいで、ただ美しいばかりなのに。
平凡な顔立ちの自分からすれば、まばゆいくらいに強烈に憧れてしまう。ああいう顔になりたかった。
(――うぅん、ハクレイが素敵なのは、中身もよ)
ハクレイはとても真面目で、六歳も年下の子どもの言うことだからと軽く流したりせず、どんな些細な発言でも真剣に受け止めて、一生懸命考えてから言葉を返してくれる。いつもどんなときも借り物ではない自分の言葉で、自分の持っている意見を一生懸命に述べてくれるところが大好きだったし、ちょっと頼りないところも、本ならどれだけでも夢中になって読めるくせに、剣の腕はからきしなところも、なんだかかわいくって愛おしかった。
母の言いたいことを少しも理解していない鈍感な私に、母は盛大に苦笑した。同じ卓に着いて黙って話を聞いていた兄も、『おいおい鈍いなぁ』と苦く笑っていた。
『違うわ、アンズ。わたくしは将来結婚したいくらいに好きか、ということを聞きたいのよ』
(――――結、婚)
ハクレイと、結婚?
もう少し大きくなった私が、さらに成長したハクレイの隣に寄り添っているところを想像してみて――私は両手を両頬に添え、ポポポ、と頬を赤く染めた。
ちょっと頼りないところのあるハクレイを温かく見守るお姉さんの気分でいたけれど、どうやら私は恋愛的な意味でハクレイが好きだったらしいと、母の言葉で気づかされてしまった。
私の表情を見て、私にちゃんと恋心があると悟った母は、ほっと安堵したように息を吐いて、私に提案した。
『――陛下の許可が下りるかはわからないけれど、今度、陛下にあなたとハクレイくんの婚約を提案してみようと思うの』
母は続けた。
婚約すれば、月家で花嫁修業をさせる、という名目で、私を後宮から出せるかもしれないと。
母は私を力強くぎゅっと抱き締め、悲しげに顔を歪め、絞り出すような声で告げた。
『かわいいアンズ。わたくしはもう、これ以上あなたが虐げられるさまを見ていたくないのよ』
母は気にしていた。異母兄たちのせいで、幼い娘の身体に傷が増えていくことを。兄が身を挺して守ってくれるおかげで、大抵は数日から一、二週間ほどで治る軽傷で済んだけれど、二ヶ月ほど前の事件で、左足裏にはくっきりと、稲妻模様の傷痕が残ってしまった。
私はまだ足の裏だから人目につかなくてよかったと明るく考えていたけれど、傷が残る事を医者から聞かされた母が絶望的な顔をしていたことは知っている。
……婚約はその一週間後に、呆気にないほど簡単に結ばれた。
父帝は私を愛していたが、公主という立場にある以上、いずれはどこかへ嫁がせるという心構えをちゃんと持っていた。
それからもう一つ。異母兄たちからの苛めの件をまともに取り合ってくれていなかった父帝だが、さすがに、左足裏に稲妻模様の傷跡が残った一件で思うところがあったらしく、母の言う通り、婚約を名目に私を後宮から出した方がいいのでは、と考えるようになったらしい、とあとで母から聞いた。
国内有数の名門貴族である月家の、それも嫡男なら、公主が嫁いでいくのに何の支障もない家柄だ。何よりハクレイと出会ってからの私は、父帝を含めた周囲にハクレイの話ばかりしていたから、ハクレイとなら悪いようにはならないと、父帝もそう思ったのだろう。
突然話を振られた月家の当主夫妻――ハクレイの両親たちにも、異論はなかった。皇帝の寵愛深い公主を得られれば、月家の将来はますます明るいからだ。
――そんな各人の思惑は抜きにして、当事者である私とハクレイは、両手を取り合ってきゃっきゃっしながら、この婚約を盛大に、そして純粋に喜んでいた。
母から婚約の話を振られたときは、ハクレイが私のことをそういう意味で好いてくれているのか全然自信がなかったけれど、母から話をされた翌日、私は手紙でハクレイを呼び出し、直接訊ねてみた。するとハクレイは茹で蛸のように真っ赤になって、見たこともないくらいにおろおろしながら『私もお、お慕いしております……!』と告白してくれた。
『やったぁ、ハクレイ! 私たちってば両想いだったのね!』
『嬉しいわ!』と抱きついた私を、ハクレイはおろおろしながらも、宝物を扱うように真剣な手つきで抱き締め返してくれて。
――そう、私たちはただ好きなだけだったし、この婚約話が異例の速さで成立したのは、私の身を案じた母が、事を急いた結果に過ぎなかったのだけれど。
ハクレイの、月家嫡男という立場が、異母兄とその母妃たちの不安を無為に駆り立ててしまった。
私はすっかり立派な大人の男になったハクレイの目の前で、指を三本立ててみせた。
「三回。あなたと婚約してからたった二週間のうちに、私は三回致死量の毒を食事に混ぜ込まれた。あとほんの少しでも処置が遅かったら死んでいたと侍医に言われたわ。――こんなことははじめてだった。異母兄さまたちが食事に毒を混ぜてくるのは珍しいことじゃなかったけど、父帝にかわいがられている私を殺したらまずいという分別は一応あったから、致死量に至るまでは盛られたことはなかったのよ。だって私を毒殺したとバレたら、異母兄さまたちがお父さまに斬り殺されてしまうもの」
だからそれまで彼らが私の食事に毒を混ぜ込ませる行為は、父帝に愛されているからといって調子に乗るなよ、という脅しであり嫌がらせに過ぎなかった。……まあ、毒でだんだんと身体が弱った挙げ句に死ねばいい、くらいは考えていただろうけども。
けれどあのときは違った。私が死ねば父帝が大荒れになるのを承知で、本気で私を消しにかかった。それほどまでに彼らは私たち一家と月家が結びつくのを恐れていた。
私は目を閉じて、幼き日の兄の姿をまぶたの裏に描き、そして苦笑しながら目を開けた。
「……こんな形で帝位に就く羽目になってしまわれたけれど……。結局カイエンお兄さまが、いつも一番優秀でいらしたものね」
――第一皇子も第二皇子も第三皇子も第四皇子も、所詮兄には敵わなかった。頭の出来も、剣の腕も、人望も、何もかも。
もっとも皇帝にふさわしい条件を揃えていたのは、皇帝位に少しの興味も持っていなかった兄だった。
立場の強い第一妃と第二妃の機嫌を損ねないよう沈黙を貫きつつも、臣下の大半がそのことに気づいていたし、あまり優秀とは言い難かった異母兄たちも、内心ではわかっていたのだろう。
加えて、隣国出身の双子王女――第一妃と第二妃を母に持つ異母兄たちは、母親が他国出身なことが災いして、貴族たちからの支持を充分に集め切れていなかった。
一方私たちの母は国内の有力貴族の娘で、そういう意味でも臣下たちからの兄の評価は高かった。そんな兄が指折りの名門貴族・月家と結びつくと、貴族たちの支持が一気に、そして表立って兄に流れる可能性があった。
だから彼らは強い焦燥に駆られた。兄の後ろに月家がついてはたまらない、と。
「……短期間で三回も毒殺されかけたせいで、お母さまとカイエンお兄さまは大きな衝撃を受けてしまわれたわ。本来ならすぐにお父さまに報告しているところだったけど、この三回の毒殺未遂の件だけは、どうしてもお父さまにお伝えすることが敵わなかったの」
「……何故です?」
事情を知らないハクレイが、固く怪訝な面持ちで訊ねてくる。私はふんわりと微笑んだ。
「私たち家族の面倒を見てくれていた下男の家族が一組、人質に取られていたの。喋ればその家族を殺す、と第一妃と第二妃に脅されていたから、私たちは黙り込むしかなかった。……他の人に言えば、そんなの見捨てればいいって言われてしまうかもしれないけど、私たちにはそんなこと、できなかった。人質の中には私より幼い子どももいたんですもの。命を軽んじるつもりはなかったけれど、後味の悪い真似もできなかったの」
父帝は後宮の差配には口を出さなかったから、後宮は第一妃と第二妃に支配されており、私たち家族は女官を取り上げられていた。下男や宦官たちがあれこれ手伝ってくれなければ生活を回していけず、だから彼らもまた、家族同然の存在だった。
「お母さんとお兄さまにできたのは、半狂乱になりながら毒味を徹底しつつ、『今すぐにでもアンズを後宮から出して、月家で花嫁修業をさせてやって下さい』とお父さまをせっつくことだけ。――でもね、正攻法で後宮を出る願いは叶わなかった。お父さまはもう少しだけでも私を手元に置いてかわいがって、そのあとで、お別れしたかったみたい」
するとハクレイが、その端麗な顔を両手で覆って、すすり泣き出した。過去の私が、私たち家族が立たされていた苦境を思い、悲しんでくれているのだろう。
「でもこのままではじきに私が死んでしまうと焦ったお母さまとカイエンお兄さまは、だから公主である私の死の偽装に踏み切ったの。――これがこの事件の真相。……いやあね、ハクレイ。そんなに泣かないでちょうだい。……後宮を出たあとの日々は地獄で暮らしているかのように辛かったけれど、なんやかんや生き延びて、私はこうしてあなたと対面できているのだから」
むしろ盛大に喜んでちょうだい、と声をかけると、ハクレイは顔を覆っていた手を外し、袖で涙をぐいと拭った。そして精一杯、笑おうとする。……とめどなく流れる涙のせいで、完全な笑みの形にはなっていなかったけれども。
私の要望に懸命に応えようとするハクレイをいじらしく、微笑ましく思いながら、私はわずかに目を伏せ、ハクレイを詰った。
「……そうそう。私、あなたにずっと言ってやりたいことがあったの。あなた、どうして結婚していないのよ。……結婚してくれていれば、良かったのに」
途端、ハクレイが凍りついたように動きを止める。表情に明らかなひびが入った。露骨に傷ついた表情。
まあそれはそうだろう。私を想い通して独身を貫いていたというのに、当の私にその想いを否定されてしまったのだから。でもね、ハクレイ。
「……姫は、私が結婚していた方が良かったですか?」
ハクレイの声は、誰が聞いてもわかるほどに悲しみで震えていた。悲哀を通り越して絶望している。けれど私は躊躇いなく頷いた。
「ええ。……だってそうしたら、あなたを完全に諦められたじゃない」
「え……、ど、どうしてです? 姫が今も私を想って下さっているなら私は、すぐにでも姫と結婚したい所存ですが……!」
それなのに何故、と問いかけながら、ハクレイが物理的な距離をずずいと詰めてきた。ハクレイのにじり寄り方に相当な焦りを感じながら、私は冷静に言葉を返した。
「あのねぇ、ハクレイ。今の私とあなたじゃ無理よ。身分が違いすぎるもの」
「わ、私のですか⁉ でしたらもっと出世しま――」
「馬っ鹿、違うわよ!」
焦りのあまり、意味不明なことを言い出したハクレイを、思わず大きな声で叱りつけてしまう。
「ハクレイ、ちょっと落ち着きなさいな。――いい? 今の私は、公主ではなくただの女官。それも全身に醜い傷跡のある、洗濯下女上がりのよ? 対するあなたは? 公主である私の嫁ぎ先になれるほどの名家の一人息子で、婚部の長よ? 貴族でもないことになってる私が、そんな高い地位にあるあなたに嫁げるわけがないじゃない」
「そ、」
そんなこと、まったく考えておりませんでした――という表情のまま、ハクレイがぴしりと固まってしまう。私は呆れた。
(馬鹿ね、頭は抜群に良いのに、どうしてこんな一番に思いつくようなこと、考えてなかったのかしら? ……でも、)
……ハクレイには昔からちょっと天然っぽいところがあって、私はハクレイの、そういうところも大好きだった。
そこまで思って、私ははっと片手を頬に当てて反省する。
(……嫌だわ。アンズだってバレたせいで、余計に好きだったところばかり思い出してしまうんだから)
アンジュではなくアンズとして対面しているだけなのに、心まで昔に返ったようだ。
甘酸っぱくてどこか切ない気持ちが、枯れていた心の泉からこぽこぽと湧き上がってきて、胸がいっぱいになる。昔と違って今こんな気持ちになっても、恋の花は決して実を結ばないのに。愚かなこと。
私が内心で自分を嘲っていることには気づかず、ハクレイが恐る恐るといった調子で訊ねてきた。
「……カイエンさまに頼んで、身分の回復をされる気は、ないのですか?」
「それはダメよ。私の死を偽装したと知られれば、カイエンお兄さまの立場がまずくなるわ。……たとえ皇族であっても、皇族の死を偽るのは大罪ですもの」
昔、死産と偽って市井で密かに育てられていた皇子に、帝位を奪われかけたことのあるかつての皇帝が作った決まりは絶対だった。
「……そう、でしたね……」
罪の重さを知るハクレイは意気消沈して俯いたが、次の瞬間には勢いよく顔を上げ、両膝の上に置いていた私の両手をまとめて掴むと、力強く私に告げた。
「――姫さま。私は姫さまの傷のことなど一切気にしませんし、この際ですから、言わせたい人間には好きに言わせておきましょう。――――表向きは身分違いでもなんでも、結婚いたしましょう‼ いえ、どうか私と結婚して下さい‼」
そう言ってきりりと私の瞳を覗き込むハクレイのあまりの勢いと力強さに、私は慄く。
(……ハクレイって、こんなに自己主張が強かったかしら?)
昔はあんなにおっとりしていて大人しい……というかめそめそしていたのに。知らないうちに大人になったのだなぁ、と感心すると同時に、求婚された喜びに胸がときめいた。
好きな男に、「傷跡も身分もどうでもいいから結婚しましょう」と懇願されて、嬉しくないわけがなかった。
昔の、素直であどけない公主アンズだったら、「嬉しい‼」と喜び勇んで即答するところだったけれど、すっかりひねくれてしまった今の――一六歳の私は、確かな喜びを見せながらも、懸命に首を横に振って、その申し出を断った。
「ダメよ。カイエンお兄さまと炎雨林と、私の女官仲間といったごく少数の人以外、誰も祝福してくれないわ。あなたの両親だって許さないでしょう。身分違いの恋に悲劇がつきものであることを、あなたもよく知っているでしょう? 私はあなたを不幸にはしたくないの。……私はね、ハクレイ。あなたには誰からも祝福された上で、本当に幸せになってほしいの。ずっとずっと私のことを想い続けてくれた、忠義者だもの」
まさか彼がここまで私のことを真剣に想い通してくれているだなんて知らなくて、皇城に舞い戻ってきて彼の話を聞いたとき――兄と旅しているときは、二人ともハクレイの話を避けていたから――、私は嬉しいのと同時に愕然としたものだ。
嘘でしょう、ハクレイ、と。
もうあれから九年も経っているから、名門貴族の嫡男という、結婚が必須の立場にある彼が、私ではない誰かと寄り添い合っているのは当然だと――寄り添い合っているべきだとそう思っていたのに、あなたの隣は空いていて、だから私の恋心にまた火がついてしまった。
(いいえ、そもそも後宮を出てからもあなたのことを忘れたことなんて、一度もなかった……)
身分を失った挙げ句、性格も変わり、おまけに全身に人には到底見られたくない傷跡を抱えてしまったから、戻ってきても積極的に関わろうとしなかっただけで。
断られ、しょんぼりしたハクレイの姿はまるで、悲しみで耳を垂らした大型犬だ。私は犬を愛でるように、両手で彼の頭をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「……私の幸せは姫さまのお傍にしかないと、ご存じでしょうに……」とぽそぽそハクレイが呟いているが、私は聞こえないふりでかわして、形のいい彼の頭を撫で続けたまま、詫びる代わりに胸に秘め続けていた大切な秘密を打ち明けてやった。
「ねぇ、知ってる? 私は本当は、死んだふりをして後宮から出て行くのがいやだったの。いやでいやでたまらなかった。お母さまやカイエンお兄さまと別れるのも辛かったけど、一番はあなたとお別れしなきゃならなくなることが耐えられなかったの。だからお母さまとカイエンお兄さまに死の偽装を提案されたとき、泣き狂っていやだと訴えたわ」
「…………」
しょんぼりしていたハクレイが、顔を上げて、私を見つめてきた。私のたった一つの自慢、美しい杏色の双眸を、その青い瞳で覗き込む。
彼の青い瞳に映る私は、公主時代の私のように、表情豊かに微笑んでいた。
「でもね、そのときお母さまに言われたの。――死んだらそこで終わりなのよ、って」
私は一度静かに目を閉じ、そして開いた。華やかな杏色の瞳に映るのは、世界でたった一人の愛おしい男。
「死んだら二度とハクレイに会うことはできない。でも生きてさえいれば、またどこかで巡り会う可能性があるのよ、って。――だから私は本当にいやだったけど、胸が張り裂けそうなほどに悲しくて苦しくて辛くてしょうがなかったけれど、後宮を出たの。あなたと二度と会えなくなるのはいやだったから。たとえ再会したときに、あなたが私ではない人と結婚していたとしても、あなたの姿を二度と見れないよりはマシだわ、と思って、私は後宮を去る決意をしたわ」
「姫さま……」
喘ぐように、かすれた声で名前を呼ばれた。私は彼に、できるだけ無邪気に見えるよう微笑んでやる。
「ねぇハクレイ。私はそのくらい、あなたのことが大好きだったの。――今も好きよ、これ以上ないくらいに愛しているわ」
ハクレイは泣きながら、がばりと私を抱き締めてきた。二度と離さないというように、骨が軋むくらいの力が籠められる。
「――存じております。存じております。姫さまはいつも率直に、私に愛を伝えて下さっていましたから……! あ、あなたが死んだと聞かされたとき、私の世界は砕かれたようでした……‼」
「……絶望させて、ごめんなさいね。ハクレイ」
一体どんな想いでハクレイは、私のいない世界で生きてきたのだろう。ハクレイにしかわからない、彼の絶望。暗く寂しい気持ち。
そのままぎゅうぎゅうと抱き締められ続けるのかと思ったのに、ハクレイの腕の力が急に緩んだ。そして今度は身体ではなく、人形のように繊細な顔が近づいてくる。
接吻される、と思った次の瞬間には、予想通り、ハクレイのくちびるが自分のくちびるに触れていた。
(ああ嫌だわ。こんなことになるんなら、もっとくちびるの手入れをしておくんだった……)
公主であることを放棄してから、美容にはまったく気を遣っていない。遣えない人生だったと言ってもいい。けれど自分からくちびるを離してやる気は、さらさらなかった。
何度も何度も、角度を変えて接吻される。両頬に添えられた手も、押し当てられるくちびる自体も優しすぎて、このまま一生彼に縋りついていたくなる。
――ここは彼の私邸だから、誰の邪魔も入らない。それをいいことに、私たちは長すぎた空白を埋めるように、何度も何度もくちづけし合った。
互いの存在を確かめ合うように接吻しながら、幼きころから一片も変わらぬ曇りなき愛の所在を、私たちは確認し続けた。
いつもお読み頂き誠にありがとうございます!
4月中に完結させたいと言っていましたが、5月の頭くらいまでかかってしまいそうです(一応最後まで書き終えたのですが、修正にもう少し時間を割きたいので……)。もう折り返しは過ぎていますので、最後まで気長にお付き合い頂ければ幸いです!




