23.一線
屋上駐車場は、思っていたよりずっと広かった。
白線で区切られた区画が、ざっと100台分。停まっているのは4台だけで、そのうち3台は工事の資材を積んだままの軽トラックだった。フロアの端に、無人ATMコーナーの明かりだけが白く灯っている。
俺は給水塔の陰にしゃがんで、その明かりを見ていた。
耳につけた小さなイヤホンから、カオルさんの声がした。
『1時40分。外周、異常なし』
『非常階段のところ、警備員さんが一人。今は詰所に戻った』
シオリの声も続く。彼女はフロアの反対側、立体駐車場の上り口の陰にいるはずだった。
声が、少しだけ息の上がった調子に聞こえた。ここまで飛んできた直後だからだろう、と俺は思った。
『あと、南の端の軽トラ。人が乗ってる』
『……乗ってる?』
『たぶん仮眠。運転席のシート倒して寝てるみたい』
背中を、嫌な汗が伝った。
『起こして、降りてもらった方が』
『ダメ。今動いたら、こっちの居場所がバレる』
カオルさんが割って入った。
『タクミくん、あなたは彼を、あの軽トラから離れた側に引きつけて。シオリちゃんは、何かあったら真っ先にそこ』
『はい』
時計の針が、2時を回った。
そして、ATMコーナーの前の空気が、細かく光った。
黒瀬蓮は、現れた瞬間から、俺がいることを知っていた。
彼は光の粒の中から立ち上がると、ATMには目もくれず、まっすぐ給水塔の方を向いた。
「そこにいんだろ」
隠れている意味がなくなった。俺は立ち上がって、陰から出た。
「……よお」
「よくもまあ、しつこく」
蓮は首を鳴らした。
「言ったよな。次は手加減しねえって」
返事の代わりに、俺は駆けた。
コンクリートが足の下で砕ける。一息で20メートルを詰めて、右腕を伸ばす。狙いは襟だ。掴んで、押さえ込む。それだけでいい。
その手が空を切った。
蓮の姿が、真横に一瞬でずれていた。飛んだのではない。何かに引っ張られたのだ。彼の背後にある鉄柱に、自分自身を引き寄せた。
「重いもんが引き合うって言ったろ。俺が引かれてやってもいいんだよ」
鉄柱を蹴った蓮が、頭上から降ってくる。
俺は腕を交差させて受けた。衝撃で膝までコンクリートにめり込む。ヒビが放射状に広がった。
「そら、まだだ」
駐車場の隅に積んであった鉄パイプの束が、一斉に浮いた。
十数本が、真横から俺めがけて飛んでくる。
俺は身を沈めてやり過ごし、最後の一本だけ、掴んで止めた。
やり合ううちに、分かってきた。
正面から組み合えば、たぶん、俺が勝つ。こいつもそれが分かっているから、距離を取って物を投げてくる。
問題は、俺がその距離を潰せないことだった。
一息で詰めれば、床が砕ける。さっき膝をついただけで、コンクリートにヒビが放射状に入った。ここは8階建ての屋上で、真下は工事中の資材置き場だ。南の端の軽トラには人が寝ている。非常階段を降りたところには警備員の詰所がある。
(その人たちを、タクミくんが戦いながら守れる?)
3日前、シオリにそう聞かれて、俺は答えられなかった。
今、答えが出ていた。守れない。だから俺は、勝ちにいけない。
飛んできた鉄パイプを掴む。投げ返さずに、床へそっと置く。次の一本も、その次も。
3本目でそれに気づいたのか、蓮の目が細くなった。
「……なんだそりゃ。舐めてんのか」
舐めてはいなかった。手加減しているつもりもなかった。ただ、俺の全力は、この床の上では一度も使えないというだけだ。
それを説明する言葉を、俺は持っていなかった。
「今日はもう帰れ。金は返さなくていいから」
「――黙れよ!」
その瞬間、蓮の目の色が変わった。
彼が両手を大きく開いた。
背後で、金属が軋む音がした。
「ちょっ……!」
南の端に停まっていた軽トラックのうちの一台が、地面を擦りながら滑ってきた。
蓮はそれを、俺めがけて放った。
――違う。
投げた方向は、俺じゃない。
俺の背後、フロアの端の低い柵。その向こうは、8階分の落下だ。
そして、その軽トラックには、人が乗っていた。
仮眠していた男が、シートの上で目を覚まし、何が起きたのか分からないという顔でフロントガラスの向こうを見ている。
滑っていく運転席の窓の外に、光の粒が集まった。
シオリだった。彼女は車と同じ速さで並んで浮きながら、半分開いた窓から腕を差し入れて、男の手首を掴んだ。
その輪郭が、内側から光り始める。
粒がほどけて、彼女の指の先から順に、銀色の霧になっていく。
そこで、止まった。
集まりかけた光が、崩れて散った。シオリの身体は、元のまま、そこにあった。男の手首を掴んだ手だけが、白くなっていた。
「――だめ、」
小さな声が、風に千切れた。
俺は動いた。
軽トラの進行方向へ回り込んで、荷台の後ろに肩から入る。四輪が浮いた状態のまま、車体が俺の背中にのしかかった。
膝が折れる。踵がコンクリートを削って、火花が上がった。
柵まで、あと1メートル。
止まった。
エンジンも切れたままの軽トラが、俺の肩の上でゆっくりと傾き、四つのタイヤが順番に地面へ落ちた。
シオリが、少し離れた場所に立っていた。自分の両手を見下ろして、指を握って、開いて、また握っていた。
(怖かったんだよな)
あとでちゃんと謝らないと、と俺は思った。そのときの俺が思ったのは、それだけだった。
運転席のドアが開いて、作業服の男が転がり出てくる。腰が抜けたのか、手と足で後ずさりしながら、俺を見上げていた。
その顔を見た瞬間だった。
頭の中が、白くなった。
音が消えた。イヤホンから何か聞こえていた気もするが、意味として届かなかった。
俺は振り返った。
蓮は、少しだけ驚いた顔で立っていた。人が乗っていたことに、たぶん、気づいていなかったんだと思う。
でも、そんなことはどうでもよかった。
「――お前」
自分の声じゃないみたいだった。
気づいたら、間合いは消えていた。
蓮が咄嗟に鉄板を引き寄せて盾にする。それを俺は殴り抜いた。厚さ5ミリの鋼板が、紙みたいに裂けた。
二撃目で、蓮の腕を掴んだ。
三撃目のために、拳を振り上げた。
蓮の顔から、表情という表情が全部消えていた。挑発も、笑いも、諦めもない。ただの、20歳の人間の顔だった。
それを見ても、俺の腕は止まらなかった。
止める気が、なかった。
(こいつがいなければ)
その一行が、はっきりと頭の中を通った。
(こいつさえいなければ、全部――)
「タクミくん!」
腕を、掴まれた。
驚くほど細い、小さな手だった。俺の力なら、意識しなくても振り払える。振り払えば、あの子ごと吹き飛ぶ。
それでも、俺の腕は止まった。
「それじゃ、蓮くんと同じになっちゃうよ」
シオリの声は、震えていた。
怒鳴ってもいなかった。責めてもいなかった。ただ、必死だった。
俺は、自分の右手を見た。
握りしめた拳。その下で、掴まれた腕をだらりと下げたまま動かない蓮。裂けた鉄板。ひび割れたコンクリート。
そして、少し離れた場所で、へたり込んだまま俺を見ている作業服の男。
その人の目には、恐怖があった。
さっきまで軽トラを止めた俺を見ていた目と、同じ目だ。
助けられた相手を見る目じゃない。何かとんでもないものを見た人間の目だった。
指の力が、一本ずつ抜けていった。
蓮の腕を離す。彼はその場に、崩れるように座り込んだ。
俺は数歩下がって、自分の両手を見下ろした。
震えていた。
(俺は今、何をしようとした)
燃えるファミレスの夜、俺は自分の腕でドアを引きちぎった。あのときは、その力が誰かを助けるためにあると信じられた。
今、この同じ腕は、目の前の人間を潰そうとしていた。
理由なんて、いくらでもあった。あいつが人を巻き込んだ。あいつが先に手を出した。だから殴っていい。だから、いくらでも。
その理屈のまま腕を振り下ろしていたら、俺は、あいつと同じだった。
膝が笑った。俺はその場にしゃがみ込んで、コンクリートに両手をついた。
「……シオリ」
「うん」
「俺、あぶなかった」
「うん」
シオリは、それ以上何も言わなかった。ただ、俺の背中に、そっと手を置いた。
その手のひらは、驚くほどあたたかかった。
イヤホンの向こうで、カオルさんが何度も俺の名前を呼んでいる。作業服の男が、震える手でスマホを取り出そうとしている。
そして目の前では、黒瀬蓮が、座り込んだまま動かずにいた。
彼は、俺の顔をじっと見ていた。
その目には、もう、挑発も敵意もなかった。
何かを、ずっと待っているような目だった。




