24.差し出した手
どれくらい、そうしていたか分からない。
深夜の屋上駐車場に、風が抜けていった。ひび割れたコンクリートの粉が、白く舞って散っていく。
黒瀬蓮は、まだ座り込んだままだった。逃げるでも、立ち上がるでもなく、片手を地面についた格好で、俺を見上げている。
殴られるのを待っている。
その姿勢を見て、俺はようやく気づいた。こいつは、抵抗をやめたんじゃない。慣れているんだ。こうやって誰かの前で丸くなって、通り過ぎるのを待つことに。
俺は、震えの残る右手を、ゆっくりと開いた。
そして、そのまま前に差し出した。
「立てよ」
蓮の目が、初めて大きく動いた。
「……何のつもりだ」
「立たせるつもりだよ」
彼は差し出された手を見て、それから俺の顔を見て、また手に視線を戻した。
信じていない、という顔ではなかった。意味が分からない、という顔だった。
「殴れよ」
かすれた声で、彼は言った。
「そっちの方が、話が早えだろ。俺は人を巻き込んだ。あの軽トラ、人が乗ってた」
「乗ってた」
「じゃあ殴れって」
「殴りたかったよ」
俺は、正直に言った。手が、まだ少し震えていた。
「本気で潰すつもりだった。止められてなかったら、たぶんやってた」
蓮が、口を閉じた。
「だから、殴らない」
自分でも、うまい言い方だとは思わなかった。ただ、それしか出てこなかった。
「殴ったら、俺は今日から、力があるってだけの理由で人を潰していい奴になる。お前が金を抜くのと、何も変わらない」
風が、また抜けていった。
「……ずいぶん、身勝手な理由だな」
「うん。身勝手だよ」
俺は、差し出した手をそのままにした。
「でも、身勝手じゃない理由も一個ある」
蓮が顔を上げる。
「お前、廃工場で言ったよな。誰も俺を見ねえって」
彼の肩が、わずかに強張った。
「俺、あの日ずっと考えてた。じゃあ、今お前のこと見てんの、誰だよって」
答えは返ってこなかった。
「俺だよ。カオルさんもだ。今この屋上で、お前がここにいることを本気で気にしてる人間が、三人はいる」
言いながら、俺は自分の言葉が、どこから来たのかを分かっていた。
「一人でいい思いをするための力じゃなくて、誰かのために使える力なんだって。俺も、シオリに教えてもらったんだ」
少し離れた場所で、シオリが小さく息を吸ったのが聞こえた。
「教えてもらうまで、俺も分かってなかった。だから、お前が今分かってなくても、別にいい」
蓮は、長いこと動かなかった。
やがて、彼の肩が一度、大きく震えた。
「……ずるいんだよ、お前」
声が、途中で掠れた。
「そうやって、勝手に見つけやがって」
彼の手が、ゆっくりと上がった。
俺の手を掴む力は、驚くほど弱かった。あれだけ鉄柱を引き寄せた男の手が、立ち上がる時には、こんなに軽い。
引き上げると、蓮はよろけて、俺の肩に一度もたれた。すぐに離れて、決まりが悪そうに顔を背けた。
フロアの端で、非常階段のドアが開いた。
カオルさんが、黒川さんと一緒に上がってきた。作業服の男は、その黒川さんに何か話しかけられて、しきりに頷いている。
「……あの人、大丈夫ですか」
「大丈夫。工事の元請けに話は通してある」
カオルさんは短く答えた。
「見たものについては、ご本人が『疲れてた』ってことにしてくれるって。あなたが車を止めなければ、あの人は8階分落ちてた。それは、あの人が一番よく分かってる」
それから彼女は、蓮の前に立った。
蓮が身構える。カオルさんは、まったく警戒する様子を見せなかった。
「黒瀬蓮くん。20歳。今、住むところは?」
唐突な質問に、蓮が固まった。
「……は?」
「住所。定まってる?」
「……ネカフェとか、いろいろだよ」
「じゃあ、まずそこから」
カオルさんは手帳を開いて、何かを書き込んだ。
「うちは政府の正式な部署じゃない。あなたを逮捕する権限もないし、守ってあげる権限もない。だから、これは取引でも保護でもなくて、ただのお節介」
彼女は顔を上げた。
「盗ったお金は、返す方法を一緒に考える。時間はかかる。住むところと仕事は、心当たりに当たってみる。それと、芦田さんっていうおじいさんが、あなたの力にものすごく興味を持ってる。話し相手になってあげて」
蓮は、何度か口を開いて、そのたびに閉じた。
「……なんで、そこまですんだよ」
「あなたを放っておいたら、次に見つけるのは私たちじゃないから」
カオルさんの声が、少しだけ低くなった。
「もっと上の人たち。あるいは、もっと悪いことを思いつく誰か。そうなってからじゃ、私には何もできない」
蓮は、うつむいた。
肩が小さく上下していた。泣いているのかどうかは、暗くて分からなかった。分からないふりをするのが、たぶん正解だと思った。
「……礼は、言わねえからな」
「言われても困る」
カオルさんは、そう言ってあっさり背を向けた。
空が、少しずつ白み始めていた。
俺とシオリは、フロアの端の柵にもたれて、東の方を見ていた。
というより、シオリは途中から、柵の下のコンクリートに座り込んでいた。
「立ってるの、疲れた?」
「んー。ちょっとだけ」
夢の側の身体は疲れない。俺はずっとそう思っていたし、実際、俺は疲れていなかった。
だからそのときの俺は、空が白んでいく方ばかり見ていた。膝を抱えた彼女の手が、さっきから一度も膝から離れないことには、気づかなかった。
イヤホンの中で、芦田さんが「そろそろ通報の一件目が入る頃合いだ」と眠そうに言っている。屋上駐車場のコンクリートの損傷は、工事中の資材落下ということで処理されるらしい。
事件は、たぶん、ニュースにはならない。
「タクミくん」
シオリが、静かに口を開いた。
「さっき、こわかった」
「……うん」
「タクミくんが殴っちゃうんじゃないかって思ったのも、こわかったけど」
彼女は、柵の向こうの空を見たまま言った。
「そのあと、タクミくんが自分のこと嫌いになっちゃうんじゃないかって、そっちの方がこわかった」
答えるまでに、少し時間がかかった。
「……たぶん、嫌いになった」
シオリが、こちらを向いた。
「でも、それでいいと思う。今日のこと忘れたら、俺、またやるから」
彼女はしばらく俺の顔を見て、それから小さく笑った。
「じゃあ、私が覚えてる」
「え?」
「タクミくんが忘れそうになったら、私が言うの。あの日の駐車場のこと」
なんだそれ、と言いかけて、やめた。
それはたぶん、俺が今一番、必要としているものだった。
「……頼むわ」
「まかせて」
シオリが、胸を張った。
その背中の向こうで、空の端がゆっくりと橙色に染まっていく。
離れた場所では、蓮が黒川さんに何か言われて、面倒くさそうに首を振っていた。
やっと終わった、と思った。
このときの俺は、まだ知らなかった。
本当に何もできなくなるのは、これから先の数日のことだということを。




