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夢の箱庭  作者: Nico
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24/26

24.差し出した手

どれくらい、そうしていたか分からない。


深夜の屋上駐車場に、風が抜けていった。ひび割れたコンクリートの粉が、白く舞って散っていく。


黒瀬蓮は、まだ座り込んだままだった。逃げるでも、立ち上がるでもなく、片手を地面についた格好で、俺を見上げている。


殴られるのを待っている。


その姿勢を見て、俺はようやく気づいた。こいつは、抵抗をやめたんじゃない。慣れているんだ。こうやって誰かの前で丸くなって、通り過ぎるのを待つことに。


俺は、震えの残る右手を、ゆっくりと開いた。


そして、そのまま前に差し出した。




「立てよ」




蓮の目が、初めて大きく動いた。




「……何のつもりだ」


「立たせるつもりだよ」




彼は差し出された手を見て、それから俺の顔を見て、また手に視線を戻した。


信じていない、という顔ではなかった。意味が分からない、という顔だった。




「殴れよ」




かすれた声で、彼は言った。




「そっちの方が、話が早えだろ。俺は人を巻き込んだ。あの軽トラ、人が乗ってた」


「乗ってた」


「じゃあ殴れって」


「殴りたかったよ」




俺は、正直に言った。手が、まだ少し震えていた。




「本気で潰すつもりだった。止められてなかったら、たぶんやってた」




蓮が、口を閉じた。




「だから、殴らない」




自分でも、うまい言い方だとは思わなかった。ただ、それしか出てこなかった。




「殴ったら、俺は今日から、力があるってだけの理由で人を潰していい奴になる。お前が金を抜くのと、何も変わらない」




風が、また抜けていった。




「……ずいぶん、身勝手な理由だな」


「うん。身勝手だよ」




俺は、差し出した手をそのままにした。




「でも、身勝手じゃない理由も一個ある」




蓮が顔を上げる。




「お前、廃工場で言ったよな。誰も俺を見ねえって」




彼の肩が、わずかに強張った。




「俺、あの日ずっと考えてた。じゃあ、今お前のこと見てんの、誰だよって」




答えは返ってこなかった。




「俺だよ。カオルさんもだ。今この屋上で、お前がここにいることを本気で気にしてる人間が、三人はいる」




言いながら、俺は自分の言葉が、どこから来たのかを分かっていた。




「一人でいい思いをするための力じゃなくて、誰かのために使える力なんだって。俺も、シオリに教えてもらったんだ」




少し離れた場所で、シオリが小さく息を吸ったのが聞こえた。




「教えてもらうまで、俺も分かってなかった。だから、お前が今分かってなくても、別にいい」




蓮は、長いこと動かなかった。


やがて、彼の肩が一度、大きく震えた。




「……ずるいんだよ、お前」




声が、途中で掠れた。




「そうやって、勝手に見つけやがって」




彼の手が、ゆっくりと上がった。


俺の手を掴む力は、驚くほど弱かった。あれだけ鉄柱を引き寄せた男の手が、立ち上がる時には、こんなに軽い。


引き上げると、蓮はよろけて、俺の肩に一度もたれた。すぐに離れて、決まりが悪そうに顔を背けた。






フロアの端で、非常階段のドアが開いた。


カオルさんが、黒川さんと一緒に上がってきた。作業服の男は、その黒川さんに何か話しかけられて、しきりに頷いている。




「……あの人、大丈夫ですか」


「大丈夫。工事の元請けに話は通してある」




カオルさんは短く答えた。




「見たものについては、ご本人が『疲れてた』ってことにしてくれるって。あなたが車を止めなければ、あの人は8階分落ちてた。それは、あの人が一番よく分かってる」




それから彼女は、蓮の前に立った。


蓮が身構える。カオルさんは、まったく警戒する様子を見せなかった。




「黒瀬蓮くん。20歳。今、住むところは?」




唐突な質問に、蓮が固まった。




「……は?」


「住所。定まってる?」


「……ネカフェとか、いろいろだよ」


「じゃあ、まずそこから」




カオルさんは手帳を開いて、何かを書き込んだ。




「うちは政府の正式な部署じゃない。あなたを逮捕する権限もないし、守ってあげる権限もない。だから、これは取引でも保護でもなくて、ただのお節介」




彼女は顔を上げた。




「盗ったお金は、返す方法を一緒に考える。時間はかかる。住むところと仕事は、心当たりに当たってみる。それと、芦田さんっていうおじいさんが、あなたの力にものすごく興味を持ってる。話し相手になってあげて」




蓮は、何度か口を開いて、そのたびに閉じた。




「……なんで、そこまですんだよ」


「あなたを放っておいたら、次に見つけるのは私たちじゃないから」




カオルさんの声が、少しだけ低くなった。




「もっと上の人たち。あるいは、もっと悪いことを思いつく誰か。そうなってからじゃ、私には何もできない」




蓮は、うつむいた。


肩が小さく上下していた。泣いているのかどうかは、暗くて分からなかった。分からないふりをするのが、たぶん正解だと思った。




「……礼は、言わねえからな」


「言われても困る」




カオルさんは、そう言ってあっさり背を向けた。






空が、少しずつ白み始めていた。


俺とシオリは、フロアの端の柵にもたれて、東の方を見ていた。


というより、シオリは途中から、柵の下のコンクリートに座り込んでいた。




「立ってるの、疲れた?」


「んー。ちょっとだけ」




夢の側の身体は疲れない。俺はずっとそう思っていたし、実際、俺は疲れていなかった。


だからそのときの俺は、空が白んでいく方ばかり見ていた。膝を抱えた彼女の手が、さっきから一度も膝から離れないことには、気づかなかった。


イヤホンの中で、芦田さんが「そろそろ通報の一件目が入る頃合いだ」と眠そうに言っている。屋上駐車場のコンクリートの損傷は、工事中の資材落下ということで処理されるらしい。


事件は、たぶん、ニュースにはならない。




「タクミくん」




シオリが、静かに口を開いた。




「さっき、こわかった」


「……うん」


「タクミくんが殴っちゃうんじゃないかって思ったのも、こわかったけど」




彼女は、柵の向こうの空を見たまま言った。




「そのあと、タクミくんが自分のこと嫌いになっちゃうんじゃないかって、そっちの方がこわかった」




答えるまでに、少し時間がかかった。




「……たぶん、嫌いになった」




シオリが、こちらを向いた。




「でも、それでいいと思う。今日のこと忘れたら、俺、またやるから」




彼女はしばらく俺の顔を見て、それから小さく笑った。




「じゃあ、私が覚えてる」


「え?」


「タクミくんが忘れそうになったら、私が言うの。あの日の駐車場のこと」




なんだそれ、と言いかけて、やめた。


それはたぶん、俺が今一番、必要としているものだった。




「……頼むわ」


「まかせて」




シオリが、胸を張った。


その背中の向こうで、空の端がゆっくりと橙色に染まっていく。


離れた場所では、蓮が黒川さんに何か言われて、面倒くさそうに首を振っていた。


やっと終わった、と思った。


このときの俺は、まだ知らなかった。


本当に何もできなくなるのは、これから先の数日のことだということを。


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