22.作戦会議
雑居ビルの4階に、その夜は5人が集まった。
正確に言えば、部屋にいる生身の人間は3人だ。カオルさん、芦田さん、黒川さん。
残りの2人――俺とシオリは、それぞれ自分のベッドで眠っている。
シオリをここへ連れてくるのに、少しだけ手順が要った。彼女が跳べるのは、自分の目に見えている場所か、一度行ったことのある場所だけだ。この部屋は、そのどちらでもない。
だから俺たちは、まず並んで窓の外に浮いた。
4階の窓は、内側の明かりで四角く切り取られていた。ブラインドは上がっていて、コルクボードも、机の島も、そこに座っている3人の頭も、全部見えた。
「あそこ。地図の貼ってある壁の前の、床のとこ」
「うん。……覚えた」
シオリは、ガラス越しにその一点をしばらく見ていた。目印を探すときの、いつもの顔だった。
俺が先に窓から中へ入ると、芦田さんが老眼鏡を押し上げて唸った。
「何度見ても慣れんな。君ら、ドアから入る気はないのか」
「4階なんで」
「そういう問題か」
続いてシオリが、コルクボードの前の床に、光の粒から立ち上がった。
黒川さんが持っていた紙コップを取り落とした。無精髭の下で、口が完全に開いている。
「……はじめまして。河瀬詩織です」
シオリが、少し緊張した様子で頭を下げた。
カオルさんは机から立ち上がると、まっすぐシオリの前まで歩いていって、右手を差し出した。
「橘薫。タクミくんから、ずっと話は聞いてた」
シオリが、おそるおそるその手を握る。
握手が成立した瞬間、カオルさんの表情がわずかに緩んだのを、俺は見逃さなかった。
「……ちゃんと、あったかいのね」
「え?」
「ううん。こっちの話」
カオルさんはそう言って、椅子を一つ引いてきた。
コルクボードの地図の前に、新しい紙が貼られていた。
市街地の拡大図。赤い丸が7つ、時計回りに並ぶように打たれている。
「ここまでの黒瀬蓮の行動を、日付順に落とした」
黒川さんが、初めてまとまった量を喋った。
「共通点は3つ。深夜1時から3時。無人か、それに近い場所。そして、逃走経路を用意していない」
「逃走経路がないって、どういうことですか」
「消えるからだ」
黒川さんは、赤い丸の一つを指で叩いた。
「普通の窃盗犯は、必ず逃げ道を確保してから入る。こいつはしない。必要ないからだ。……だが、そのせいで、行動範囲に癖が出た」
芦田さんが、隣から資料を差し出してきた。
「明晰夢というのはな、無から場所を作るわけじゃない。本人が知っている土地の上に成立する。彼が現れる場所はすべて、彼の生活圏か、過去に働いていた勤務先の周辺に収まっとる」
地図の赤い丸が、たしかに、ある一点を中心に散っていた。
そして、まだ丸が打たれていない空白が、その中心の近くに一つある。
「駅の東口、再開発区画。ショッピング街の屋上駐車場」
カオルさんが、その空白を指した。
「深夜は無人。フロアの端に無人ATMコーナー。周りは工事中で人通りが少ない。この条件を満たす場所は、彼の行動圏内にここしか残っていない」
誰も、すぐには喋らなかった。
窓の外で、遠くの踏切の音が鳴っていた。
「タクミくん」
カオルさんが、俺の方を向いた。
「先に言っておく。私は、あなたたちを矢面に立たせたくない」
「でも」
「聞いて」
彼女は、いつもの柔らかい口調のまま、少しだけ声を落とした。
「私がこの3か月やってきたことは、全部、机の上でできることだった。地図にピンを刺して、記事を集めて、報告書を書く。それだけならいくらでもやれる。でも、現場で彼を止められる人間は、この部屋に2人しかいない」
芦田さんが黙って頷いた。黒川さんは腕を組んだまま、天井を見ていた。
「大人がね、子どもに『君にしかできない』って言うときは、たいてい大人が無能なだけなの。だから、これは謝罪込みのお願い」
カオルさんは、そこで一度、頭を下げた。
「力を貸してください」
俺は、返事をする前にシオリの方を見た。
シオリは、まっすぐカオルさんを見返していた。
役割分担が決まるまでに、そう時間はかからなかった。
俺が現場。蓮と直接向き合う。
カオルさんたちは工事区画の外周。事件が起きた場合の通報の流れをあらかじめ作っておいて、騒ぎが大きくなる前に収める。
そして、シオリが――
「……シオリは、来なくていい」
俺がそう言うと、部屋の空気が止まった。
シオリが、ゆっくりとこちらを向いた。
「なんで」
「危ないからに決まってる。あいつはもう、シオリのところに一度来てる。次に会ったら、今度こそ人質にされるかもしれない」
「うん。だから行くの」
彼女は、まったく引かなかった。
「タクミくん。あの屋上駐車場、フロアの端に非常階段があるんだよね」
シオリが地図を指した。その指先が、細かく震えていた。
これだけの大人の前で自分の意見を言うのが緊張するんだろう、と俺は思った。そう思って、それ以上は何も考えなかった。
俺が答える前に、黒川さんが「ある」と短く言った。
「深夜でも、たまに人はいる。工事の警備員さんとか、車で仮眠取ってる人とか。ゼロじゃないでしょ」
カオルさんが小さく頷いた。
「その人たちを、タクミくんが戦いながら守れる?」
答えられなかった。
あのタンクローリーの夜、俺はドアを引きちぎることはできたけれど、中に何人いるかも分からなかった。数えて、位置を教えて、逃げ道を作ったのはシオリだ。
「私、飛ぶのは遅いし、力もない。でも、人がどこにいるか見つけるのと、その人を安全なところに連れていくのは、たぶん今この世界で私が一番早い」
シオリは、そこで初めて少しだけ笑った。
「役割分担って、そういうことでしょ?」
何も言い返せなかった。
カオルさんが、小さく吹き出した。
「タクミくん。これは負けだよ」
「……分かってます」
それから、細かい段取りを詰めている途中だった。カオルさんが資料の端を揃えながら、俺だけに聞こえる声で言った。
「ひとつだけ、余計なことを言っていい?」
「……なんですか」
「さっき、あの子が人質にされるかもしれないって言ったでしょ。本当に怖いのは、そこ?」
意味が分からずに、俺は彼女を見た。
「人質に取られるのが怖いんじゃなくて、取られたときの自分が怖いんじゃない?」
言い返そうとして、口が動かなかった。
黒瀬蓮がシオリの前に現れたと聞いたとき、俺の中に最初に湧いたものを思い出していた。あれは心配ではなかった。もっと熱くて、行き場のない何かだった。あのとき俺は、シオリが無事だったことより先に、自分が間に合わなかったことを考えていた。
「答えなくていいよ」
カオルさんは、資料をまとめて脇に抱えた。
「ただ、その怖さで、あの子の役割を決めないであげて」
決行は、3日後の深夜と決まった。
打ち合わせが終わり、俺とシオリは窓際に並んで立った。
芦田さんが「気をつけてな」と言い、黒川さんが無言で軽く手を上げた。カオルさんは何も言わずに、俺たちを見送るために立っていた。
「あの」
シオリが、ふと振り返った。
「カオルさん。さっき、あったかいって言ってましたよね。私の手」
「うん」
「なんでですか?」
カオルさんは、少しだけ言葉を探すような顔をして、それから答えた。
「ずっと紙の上でだけ追いかけてた現象が、握手してくれたから」
シオリは、その意味をしばらく考えているようだった。それから、深く頷いた。
「じゃあ、また握手しましょうね。全部終わったら」
「……そうだね」
窓から夜の空気が入ってきて、資料の端をめくっていった。
帰り道、俺たちは並んで低い高度を飛んだ。
シオリは何も言わなかったし、俺も何も言わなかった。
3日後、俺は黒瀬蓮ともう一度向き合う。あいつが手加減しないと言ったのは、たぶん本気だ。
怖くないと言えば嘘になる。
でも、それより気になっていることが、一つあった。
廃工場で、あいつが最後に言った言葉。
――二度と、俺を分かったつもりになるな。
(分かったつもりに、なってたのかな。俺は)
隣を飛ぶシオリの髪が、風で少し乱れていた。
その横顔を見ながら、俺は答えの出ない問いを、そのまま胸の奥にしまった。




