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夢の箱庭  作者: Nico
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21/26

21.誘惑の夜

8日ぶりに、金縛りが来た。


指先。手首。肘。肩。


一つずつ鍵を開けていくみたいに順番を辿って、私は病室のベッドから起き上がった。自分の足で床を踏んだ瞬間、思わず声が出そうになった。


夜間の巡回は、まだ1時間おきのままだ。次の光がドアの下を通るまでに、私はここを出なければならない。


窓を開けて、手のひらの温度を上げる。


生ぬるい風が下から吹き上がって、身体が浮いた。






タクミくんの町の空は、いつもより雲が低かった。


私は、いつもの順番で探した。まず公園の噴水。次にショッピングモールの屋上の看板。それから彼の家の窓。


どこにもいなかった。


コンビニの前でしばらく待ってみたけれど、明かりの下にいるのは知らない店員さんだけだった。


(今日はお仕事かな。それとも、あの人のところかな)


あの人、というのは、タクミくんがときどきメッセージで書いてくる「カオルさん」のことだ。私はまだ会ったことがない。


会ったことのない人のことを考えるのは、少しだけ、怖い。


私は高度を上げて、街の明かりを見下ろした。


ここは、私が生きていていいと思えた場所だ。ここでだけ、私は走れて、飛べて、他の誰かと同じ速さで進める。


でも最近、その速さが、少しずつ落ちている気がしていた。


来られない日が増えて、来られても短くて。その間にも、タクミくんはずっとこの街で動いている。


(追いつけてる、よね)


自分にそう聞いて、答えが返ってこないうちに、私は考えるのをやめた。






「――ずいぶん熱心に探してんな」




声は、真上から降ってきた。


心臓が跳ねた。振り仰ぐと、少し離れた高さに、男の人が浮かんでいた。


若い。二十歳くらい。着古した革のジャケット。伸びた前髪の下で、目だけがこちらをまっすぐ見ている。


飛んでいるのではなかった。ビルの外壁から突き出した看板の支柱に、片手をかけて、ぶら下がるようにして立っていた。




「……どなたですか」


「お前、あいつと一緒に飛んでた女だろ」




男の人は、私の質問には答えなかった。




「動画で見た。タンクローリーのやつ」




背中が冷たくなった。


タクミくんが話してくれた人だ。名前は、たしか。




「……黒瀬、さん」


「へえ」




彼は少し笑った。嬉しそうではなかった。




「あいつ、俺の話までしてんのか。仲がいいことで」




彼は支柱から手を離すと、ゆっくりとこちらへ下りてきた。飛んでいるというより、落ちる速さを自分で決めているような、不思議な動き方だった。




「取って食いやしねえよ。ちょっと話がしたいだけだ」


「話すことは、ありません」


「あるって」




彼は、私の3メートルほど手前で止まった。




「お前、身体が悪いんだろ」




息が詰まった。




「なんで……」


「あいつが言ったわけじゃねえ。見りゃ分かる」




彼は、自分の手のひらを見せるように広げた。




「病院の人間ってのは、独特の匂いがすんだよ。俺、何週間か入ってたから分かる。あと、お前、走り方を知らねえ。飛び方は習ってるのに、地面の蹴り方が下手だ」




何も言えなかった。


この人は、私が一番見られたくない場所を、最初にまっすぐ見た。




「なあ。こっちに来いよ」




声の調子が、少しだけ変わった。




「あっちの身体なんか、置いてこい。ここなら歩けるんだろ。走れるんだろ。金だっていくらでも用意してやる。誰にも文句は言わせねえ。俺とお前なら、どこにでも行ける」




不思議なことに、私は最初、怖いとは思わなかった。


彼の言い方が、あまりにも真剣だったからだ。人を騙そうとする声じゃなかった。彼は本当に、それが素晴らしい提案だと思って言っている。




「あの人は、来ないんですか」


「あいつは来ねえよ」




黒瀬さんは、吐き捨てるように言った。




「あいつは正しいことをやりたいんだ。だからお前にも正しくいてほしい。分かるか? あいつの隣にいる限り、お前はずっと『助けられる側』だ」




そこで、彼は少しだけ首を傾げた。




「なあ。お前、あいつの重荷になってねえ自信、あるか」




心臓が、一度、大きく鳴った。


胸の一番柔らかいところを、正確に押された感覚だった。


夜中に日記に書いて、線で消そうとしてやめた、あの2行。誰にも見せていない。タクミくんにも言っていない。


なのに、この人は、そこに指を置いた。


私は、しばらく何も言えなかった。


彼はそれを、迷いだと思ったんだろう。ゆっくり手を差し出してきた。




「――ちがいます」




自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。




「あ?」


「たしかに私、そう思ったことあります。何度も」




風が、髪を横から撫でていった。




「タクミくんは私がいない日も動いてて、私は病院で待ってるだけで。追いつけないなって思って、悔しくて、日記に書いて、消せなくて」




言いながら、自分の指先が震えているのが分かった。でも、声は震えなかった。




「でも、それ全部、私が勝手に思ってることです。タクミくんは一度だって、私を荷物みたいに扱ったことない」




黒瀬さんの手が、止まった。




「私、あの噴水に飛び込んだ日、本当に死ぬつもりだったんです」




言ってしまってから、少しだけ後悔した。この人に話すことじゃない。


それでも、言葉は勝手に出てきた。




「それで、ここに来て、タクミくんに会って、初めて『生きてるって楽しい』って思い出したんです。ここは、私が逃げてきた場所じゃないんです。帰ってきた場所なんです」




私は、彼の目を見た。




「だから、置いてきません。私の身体は、あっちの私のものです。ぼろぼろだけど、私のです」




しばらく、誰も何も言わなかった。


遠くで、電車の走る音が低く響いた。


やがて、黒瀬さんは差し出していた手を、力なく下ろした。




「……そうかよ」




その一言が、思っていたよりずっと、静かだった。




「じゃあ、勝手にしろ」




彼の輪郭が、細かい光の粒になって崩れていく。


消える直前、彼が何か言った。風にほとんど攫われて、聞き取れたのは最後の二文字だけだった。


たぶん、「いいな」と言ったんだと思う。






「シオリ!」




タクミくんの声が聞こえたのは、それから数分後だった。


彼はものすごい速さで飛んできて、私の前で急停止した。風圧で、私の身体が少し押される。




「大丈夫か!? カオルさんから連絡が来て、こっちの方に反応があったって……」


「うん。大丈夫」




私は笑ってみせた。うまく笑えていたと思う。




「黒瀬さんが、来た」




タクミくんの顔から、血の気が引いた。




「何もされてない。ほんとに。ただ、話しただけ」


「話しただけって、シオリ」


「ちゃんと断ったよ」




私が言うと、彼は何か言いかけて、それを飲み込んで、それから深く息を吐いた。




「……ごめん」


「なんでタクミくんが謝るの」


「俺が、あいつに会いに行ったからだ。一人で。カオルさんに止められてたのに」




そうか、と思った。


この人はいつも、こうやって全部を自分の側に引き寄せてしまう。




「タクミくん」




私は、彼の袖をそっと掴んだ。あの最初の夜、噴水の前でそうしたのと、同じように。




「私、たぶん、これからも狙われる」




彼の肩が、びくりと動いた。




「だって私、タクミくんの大事な人でしょ」




言ってから、少し恥ずかしくなって、慌てて付け足した。




「あ、えっと、そういう意味じゃなくて。人質になるって意味で」


「……わかってるよ」




タクミくんは、少しだけ笑った。ずいぶん久しぶりに見る、力の抜けた笑い方だった。




「守る。絶対に」


「私も」




彼が目を丸くしたので、私はもう一度言った。




「私も、タクミくんを守るから。一人で全部背負わないで」




返事はなかった。


代わりに、彼は私の手を握って、ゆっくりと高度を上げた。


低い雲を抜けると、その上には、街の明かりよりずっと静かな星が広がっていた。


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