21.誘惑の夜
8日ぶりに、金縛りが来た。
指先。手首。肘。肩。
一つずつ鍵を開けていくみたいに順番を辿って、私は病室のベッドから起き上がった。自分の足で床を踏んだ瞬間、思わず声が出そうになった。
夜間の巡回は、まだ1時間おきのままだ。次の光がドアの下を通るまでに、私はここを出なければならない。
窓を開けて、手のひらの温度を上げる。
生ぬるい風が下から吹き上がって、身体が浮いた。
タクミくんの町の空は、いつもより雲が低かった。
私は、いつもの順番で探した。まず公園の噴水。次にショッピングモールの屋上の看板。それから彼の家の窓。
どこにもいなかった。
コンビニの前でしばらく待ってみたけれど、明かりの下にいるのは知らない店員さんだけだった。
(今日はお仕事かな。それとも、あの人のところかな)
あの人、というのは、タクミくんがときどきメッセージで書いてくる「カオルさん」のことだ。私はまだ会ったことがない。
会ったことのない人のことを考えるのは、少しだけ、怖い。
私は高度を上げて、街の明かりを見下ろした。
ここは、私が生きていていいと思えた場所だ。ここでだけ、私は走れて、飛べて、他の誰かと同じ速さで進める。
でも最近、その速さが、少しずつ落ちている気がしていた。
来られない日が増えて、来られても短くて。その間にも、タクミくんはずっとこの街で動いている。
(追いつけてる、よね)
自分にそう聞いて、答えが返ってこないうちに、私は考えるのをやめた。
「――ずいぶん熱心に探してんな」
声は、真上から降ってきた。
心臓が跳ねた。振り仰ぐと、少し離れた高さに、男の人が浮かんでいた。
若い。二十歳くらい。着古した革のジャケット。伸びた前髪の下で、目だけがこちらをまっすぐ見ている。
飛んでいるのではなかった。ビルの外壁から突き出した看板の支柱に、片手をかけて、ぶら下がるようにして立っていた。
「……どなたですか」
「お前、あいつと一緒に飛んでた女だろ」
男の人は、私の質問には答えなかった。
「動画で見た。タンクローリーのやつ」
背中が冷たくなった。
タクミくんが話してくれた人だ。名前は、たしか。
「……黒瀬、さん」
「へえ」
彼は少し笑った。嬉しそうではなかった。
「あいつ、俺の話までしてんのか。仲がいいことで」
彼は支柱から手を離すと、ゆっくりとこちらへ下りてきた。飛んでいるというより、落ちる速さを自分で決めているような、不思議な動き方だった。
「取って食いやしねえよ。ちょっと話がしたいだけだ」
「話すことは、ありません」
「あるって」
彼は、私の3メートルほど手前で止まった。
「お前、身体が悪いんだろ」
息が詰まった。
「なんで……」
「あいつが言ったわけじゃねえ。見りゃ分かる」
彼は、自分の手のひらを見せるように広げた。
「病院の人間ってのは、独特の匂いがすんだよ。俺、何週間か入ってたから分かる。あと、お前、走り方を知らねえ。飛び方は習ってるのに、地面の蹴り方が下手だ」
何も言えなかった。
この人は、私が一番見られたくない場所を、最初にまっすぐ見た。
「なあ。こっちに来いよ」
声の調子が、少しだけ変わった。
「あっちの身体なんか、置いてこい。ここなら歩けるんだろ。走れるんだろ。金だっていくらでも用意してやる。誰にも文句は言わせねえ。俺とお前なら、どこにでも行ける」
不思議なことに、私は最初、怖いとは思わなかった。
彼の言い方が、あまりにも真剣だったからだ。人を騙そうとする声じゃなかった。彼は本当に、それが素晴らしい提案だと思って言っている。
「あの人は、来ないんですか」
「あいつは来ねえよ」
黒瀬さんは、吐き捨てるように言った。
「あいつは正しいことをやりたいんだ。だからお前にも正しくいてほしい。分かるか? あいつの隣にいる限り、お前はずっと『助けられる側』だ」
そこで、彼は少しだけ首を傾げた。
「なあ。お前、あいつの重荷になってねえ自信、あるか」
心臓が、一度、大きく鳴った。
胸の一番柔らかいところを、正確に押された感覚だった。
夜中に日記に書いて、線で消そうとしてやめた、あの2行。誰にも見せていない。タクミくんにも言っていない。
なのに、この人は、そこに指を置いた。
私は、しばらく何も言えなかった。
彼はそれを、迷いだと思ったんだろう。ゆっくり手を差し出してきた。
「――ちがいます」
自分でも驚くくらい、はっきりした声が出た。
「あ?」
「たしかに私、そう思ったことあります。何度も」
風が、髪を横から撫でていった。
「タクミくんは私がいない日も動いてて、私は病院で待ってるだけで。追いつけないなって思って、悔しくて、日記に書いて、消せなくて」
言いながら、自分の指先が震えているのが分かった。でも、声は震えなかった。
「でも、それ全部、私が勝手に思ってることです。タクミくんは一度だって、私を荷物みたいに扱ったことない」
黒瀬さんの手が、止まった。
「私、あの噴水に飛び込んだ日、本当に死ぬつもりだったんです」
言ってしまってから、少しだけ後悔した。この人に話すことじゃない。
それでも、言葉は勝手に出てきた。
「それで、ここに来て、タクミくんに会って、初めて『生きてるって楽しい』って思い出したんです。ここは、私が逃げてきた場所じゃないんです。帰ってきた場所なんです」
私は、彼の目を見た。
「だから、置いてきません。私の身体は、あっちの私のものです。ぼろぼろだけど、私のです」
しばらく、誰も何も言わなかった。
遠くで、電車の走る音が低く響いた。
やがて、黒瀬さんは差し出していた手を、力なく下ろした。
「……そうかよ」
その一言が、思っていたよりずっと、静かだった。
「じゃあ、勝手にしろ」
彼の輪郭が、細かい光の粒になって崩れていく。
消える直前、彼が何か言った。風にほとんど攫われて、聞き取れたのは最後の二文字だけだった。
たぶん、「いいな」と言ったんだと思う。
「シオリ!」
タクミくんの声が聞こえたのは、それから数分後だった。
彼はものすごい速さで飛んできて、私の前で急停止した。風圧で、私の身体が少し押される。
「大丈夫か!? カオルさんから連絡が来て、こっちの方に反応があったって……」
「うん。大丈夫」
私は笑ってみせた。うまく笑えていたと思う。
「黒瀬さんが、来た」
タクミくんの顔から、血の気が引いた。
「何もされてない。ほんとに。ただ、話しただけ」
「話しただけって、シオリ」
「ちゃんと断ったよ」
私が言うと、彼は何か言いかけて、それを飲み込んで、それから深く息を吐いた。
「……ごめん」
「なんでタクミくんが謝るの」
「俺が、あいつに会いに行ったからだ。一人で。カオルさんに止められてたのに」
そうか、と思った。
この人はいつも、こうやって全部を自分の側に引き寄せてしまう。
「タクミくん」
私は、彼の袖をそっと掴んだ。あの最初の夜、噴水の前でそうしたのと、同じように。
「私、たぶん、これからも狙われる」
彼の肩が、びくりと動いた。
「だって私、タクミくんの大事な人でしょ」
言ってから、少し恥ずかしくなって、慌てて付け足した。
「あ、えっと、そういう意味じゃなくて。人質になるって意味で」
「……わかってるよ」
タクミくんは、少しだけ笑った。ずいぶん久しぶりに見る、力の抜けた笑い方だった。
「守る。絶対に」
「私も」
彼が目を丸くしたので、私はもう一度言った。
「私も、タクミくんを守るから。一人で全部背負わないで」
返事はなかった。
代わりに、彼は私の手を握って、ゆっくりと高度を上げた。
低い雲を抜けると、その上には、街の明かりよりずっと静かな星が広がっていた。




