20.綻び
その日は、朝から何かがおかしかった。
教室に入って「おはよう」と言ったら、アヤカが顔も上げずに「おはよ」と返した。それだけだ。それだけなのに、机の間を歩く足が、なんとなく重くなった。
1時間目の途中で、俺は舟を漕いだ。2時間目は、たぶん半分寝ていた。昼休みに購買のパンを買いに行こうとして、財布を教室に忘れて戻ってきた。
昨日の夜、俺は廃工場にいた。帰って布団に入ったのは、空が白み始めた頃だ。
そういう顔をしていたんだと思う。
「タクミ」
5時間目が終わって、俺が机に突っ伏そうとした瞬間だった。
アヤカが、俺の机の横に立っていた。
「ちょっと来て」
振り返りもせずに、彼女は歩き出した。
連れていかれたのは、旧校舎の3階の、使われていない視聴覚室の前の廊下だった。
窓の外では、グラウンドで文化祭のステージの骨組みが立てられている。金槌の音が、遠くで規則的に響いていた。
ユウキが後ろから小走りでついてきて、「え、なに、なんの集会?」と場違いに明るい声を出した。誰も答えなかったので、彼はそのまま黙った。
アヤカは窓枠にもたれて、腕を組んだ。
「昨日の夜、コンビニ行ったの」
心臓が、一度だけ嫌な打ち方をした。
「タクミがシフトだと思ってたから。チョコ買うついでに、ちょっと顔見て帰ろうと思って」
彼女は、俺の顔を見ていなかった。窓の外の骨組みを見ていた。
「そしたら店長さんが、陸奥くんなら10時に上がりましたよって」
金槌の音が、二回。
「別にいいじゃん、それは。シフト変わることくらいあるよね。だから私、そのまま帰ろうとしたの。そしたらさ」
そこで初めて、アヤカが俺を見た。
「川沿いの道、自転車で走ってくタクミがいた」
言葉が、喉の途中で止まった。
「キャップ被って、パーカー着て。私、名前呼んだんだよ。二回。結構でかい声で」
俺は、覚えていなかった。
風の音しか、聞こえていなかった。
「タクミ、こっち見なかった」
アヤカの声は、怒鳴ってはいなかった。むしろ、いつもより静かだった。
「あれ、何時だと思う。11時半だよ。あんな時間に、どこ行くの」
ユウキが、俺とアヤカの顔を交互に見て、それから小さく口を開いた。
「……タクミ。それ、なんかヤバいやつじゃないよな?」
茶化す気配は、まったくなかった。
その真面目な声が、かえって俺の胸に刺さった。
「違う。そういうんじゃない」
「じゃあ何」
アヤカが一歩踏み込んできた。
「ここんとこずっとだよ。授業中は寝てる。バイト増やしてるわけでもないのに、いつも金欠みたいな顔してる。文化祭の準備で居眠りして、5分も起きなかった。あれ、笑い話じゃないから」
言い返せなかった。全部、事実だった。
「私さ」
彼女の声が、そこで少しだけ揺れた。
「前にタクミが、家のこと話してくれたじゃん。バイト代、生活費に入れてるって。あの時、正直、すごい嬉しかったんだよ。ああ、この人、ちゃんと話してくれるんだって」
金槌の音が止んで、誰かが下で笑う声がした。
「なのに今、私、また何も知らないんだけど」
俺は、床を見ていた。
言えることは、一つもなかった。
夢の中で空を飛んでいる。全国で同じ力を持った人間が見つかっている。俺は昨日、その一人と廃工場で殴り合いの真似事をしてきた。政府の人間と組んでいるが、その人は政府に隠れて動いている。
どこから話しても、こいつらを巻き込むことにしかならない。
黒瀬蓮は、「お前には、あの女がいるだろ」と言った。
シオリがいる。カオルさんがいる。じゃあ、目の前のこの二人は。
俺が今、この二人に対してやっていることは、何なんだ。
「……心配かけて、ごめん」
絞り出した声は、思ったより情けなかった。
「でも、今は言えないことがあるんだ」
言った瞬間、アヤカの表情が固まった。
「……今は?」
「うん」
「じゃあ、いつなら言えるの」
答えられなかった。
答えられないことが、答えだった。
アヤカは、俺の顔をしばらく見ていた。それから、ふっと息を抜いて、小さく笑った。笑ったのに、目は全然笑っていなかった。
「そっか。うん、分かった」
彼女は窓枠から背を離した。
「じゃあ、私が勝手に心配してるだけってことね。うん、それならもういいや。ごめんね、変なこと聞いて」
そう言い切る声が、最後だけ、はっきりと震えていた。
「アヤカ」
呼び止めた俺の手を、彼女は振り払いもしなかった。ただ、触れられる前に、半歩だけ横にずれた。
その半歩が、たまらなかった。
「言っとくけど、私、怒ってるからね」
背中を向けたまま、彼女は言った。
「隠してることに怒ってるんじゃないよ。誰だって言いたくないことくらいあるもん。そんなの分かってる」
踊り場へ続くドアに手をかけて、彼女は一度だけ止まった。
「タクミが、一人で潰れそうになってるのを、黙って見てなきゃいけないのに怒ってんの」
ドアが閉まった。
金槌の音が、また鳴り始めた。
廊下には、俺とユウキだけが残った。
ユウキは窓枠にもたれて、しばらく何も言わなかった。いつもなら、この沈黙を3秒ともたせずに埋める男だ。
「……あのさ、タクミ」
やがて、彼は前を向いたまま口を開いた。
「俺、頭よくねーから、難しいことは分かんねーけど」
言葉を選んでいるのが、横顔で分かった。
「無理はすんなよ。それだけ」
「……ユウキ」
「アヤカな、あれ、たぶん昨日ずっと寝てねーぞ」
彼はそこで、ようやくいつもの調子で笑った。ただし、いつもよりずっと音が小さかった。
「俺は聞かねー。お前が話せるようになったら聞く。それまでは、まあ、うるさくしとくわ。それが俺の役目だし」
ユウキは俺の肩を一度だけ叩いて、先に階段を降りていった。
一人になった廊下で、俺は窓の外を見た。
ステージの骨組みが、夕方の光の中で、まだ半分だけ組み上がっている。あと1週間もすれば、あそこに幕が張られて、照明がついて、たぶんユウキが何かバカなことをやって、みんなが笑うんだろう。
俺は、そこにちゃんと立っていられるだろうか。
ポケットの中で、スマホが短く震えた。
カオルさんからだった。
『明後日、拠点に来られる? 次の動きが読めました』
俺はしばらく画面を見つめて、それから短く「行きます」と打った。
窓ガラスに映った自分の顔は、思っていたよりずっと、疲れて見えた。




