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夢の箱庭  作者: Nico
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20/26

20.綻び

その日は、朝から何かがおかしかった。


教室に入って「おはよう」と言ったら、アヤカが顔も上げずに「おはよ」と返した。それだけだ。それだけなのに、机の間を歩く足が、なんとなく重くなった。


1時間目の途中で、俺は舟を漕いだ。2時間目は、たぶん半分寝ていた。昼休みに購買のパンを買いに行こうとして、財布を教室に忘れて戻ってきた。


昨日の夜、俺は廃工場にいた。帰って布団に入ったのは、空が白み始めた頃だ。


そういう顔をしていたんだと思う。




「タクミ」




5時間目が終わって、俺が机に突っ伏そうとした瞬間だった。


アヤカが、俺の机の横に立っていた。




「ちょっと来て」




振り返りもせずに、彼女は歩き出した。






連れていかれたのは、旧校舎の3階の、使われていない視聴覚室の前の廊下だった。


窓の外では、グラウンドで文化祭のステージの骨組みが立てられている。金槌の音が、遠くで規則的に響いていた。


ユウキが後ろから小走りでついてきて、「え、なに、なんの集会?」と場違いに明るい声を出した。誰も答えなかったので、彼はそのまま黙った。


アヤカは窓枠にもたれて、腕を組んだ。




「昨日の夜、コンビニ行ったの」




心臓が、一度だけ嫌な打ち方をした。




「タクミがシフトだと思ってたから。チョコ買うついでに、ちょっと顔見て帰ろうと思って」




彼女は、俺の顔を見ていなかった。窓の外の骨組みを見ていた。




「そしたら店長さんが、陸奥くんなら10時に上がりましたよって」




金槌の音が、二回。




「別にいいじゃん、それは。シフト変わることくらいあるよね。だから私、そのまま帰ろうとしたの。そしたらさ」




そこで初めて、アヤカが俺を見た。




「川沿いの道、自転車で走ってくタクミがいた」




言葉が、喉の途中で止まった。




「キャップ被って、パーカー着て。私、名前呼んだんだよ。二回。結構でかい声で」




俺は、覚えていなかった。


風の音しか、聞こえていなかった。




「タクミ、こっち見なかった」




アヤカの声は、怒鳴ってはいなかった。むしろ、いつもより静かだった。




「あれ、何時だと思う。11時半だよ。あんな時間に、どこ行くの」




ユウキが、俺とアヤカの顔を交互に見て、それから小さく口を開いた。




「……タクミ。それ、なんかヤバいやつじゃないよな?」




茶化す気配は、まったくなかった。


その真面目な声が、かえって俺の胸に刺さった。




「違う。そういうんじゃない」


「じゃあ何」




アヤカが一歩踏み込んできた。




「ここんとこずっとだよ。授業中は寝てる。バイト増やしてるわけでもないのに、いつも金欠みたいな顔してる。文化祭の準備で居眠りして、5分も起きなかった。あれ、笑い話じゃないから」




言い返せなかった。全部、事実だった。




「私さ」




彼女の声が、そこで少しだけ揺れた。




「前にタクミが、家のこと話してくれたじゃん。バイト代、生活費に入れてるって。あの時、正直、すごい嬉しかったんだよ。ああ、この人、ちゃんと話してくれるんだって」




金槌の音が止んで、誰かが下で笑う声がした。




「なのに今、私、また何も知らないんだけど」




俺は、床を見ていた。


言えることは、一つもなかった。


夢の中で空を飛んでいる。全国で同じ力を持った人間が見つかっている。俺は昨日、その一人と廃工場で殴り合いの真似事をしてきた。政府の人間と組んでいるが、その人は政府に隠れて動いている。


どこから話しても、こいつらを巻き込むことにしかならない。


黒瀬蓮は、「お前には、あの女がいるだろ」と言った。


シオリがいる。カオルさんがいる。じゃあ、目の前のこの二人は。


俺が今、この二人に対してやっていることは、何なんだ。




「……心配かけて、ごめん」




絞り出した声は、思ったより情けなかった。




「でも、今は言えないことがあるんだ」




言った瞬間、アヤカの表情が固まった。




「……今は?」


「うん」


「じゃあ、いつなら言えるの」




答えられなかった。


答えられないことが、答えだった。


アヤカは、俺の顔をしばらく見ていた。それから、ふっと息を抜いて、小さく笑った。笑ったのに、目は全然笑っていなかった。




「そっか。うん、分かった」




彼女は窓枠から背を離した。




「じゃあ、私が勝手に心配してるだけってことね。うん、それならもういいや。ごめんね、変なこと聞いて」




そう言い切る声が、最後だけ、はっきりと震えていた。




「アヤカ」




呼び止めた俺の手を、彼女は振り払いもしなかった。ただ、触れられる前に、半歩だけ横にずれた。


その半歩が、たまらなかった。




「言っとくけど、私、怒ってるからね」




背中を向けたまま、彼女は言った。




「隠してることに怒ってるんじゃないよ。誰だって言いたくないことくらいあるもん。そんなの分かってる」




踊り場へ続くドアに手をかけて、彼女は一度だけ止まった。




「タクミが、一人で潰れそうになってるのを、黙って見てなきゃいけないのに怒ってんの」




ドアが閉まった。


金槌の音が、また鳴り始めた。






廊下には、俺とユウキだけが残った。


ユウキは窓枠にもたれて、しばらく何も言わなかった。いつもなら、この沈黙を3秒ともたせずに埋める男だ。




「……あのさ、タクミ」




やがて、彼は前を向いたまま口を開いた。




「俺、頭よくねーから、難しいことは分かんねーけど」




言葉を選んでいるのが、横顔で分かった。




「無理はすんなよ。それだけ」


「……ユウキ」


「アヤカな、あれ、たぶん昨日ずっと寝てねーぞ」




彼はそこで、ようやくいつもの調子で笑った。ただし、いつもよりずっと音が小さかった。




「俺は聞かねー。お前が話せるようになったら聞く。それまでは、まあ、うるさくしとくわ。それが俺の役目だし」




ユウキは俺の肩を一度だけ叩いて、先に階段を降りていった。




一人になった廊下で、俺は窓の外を見た。


ステージの骨組みが、夕方の光の中で、まだ半分だけ組み上がっている。あと1週間もすれば、あそこに幕が張られて、照明がついて、たぶんユウキが何かバカなことをやって、みんなが笑うんだろう。


俺は、そこにちゃんと立っていられるだろうか。


ポケットの中で、スマホが短く震えた。


カオルさんからだった。




『明後日、拠点に来られる? 次の動きが読めました』




俺はしばらく画面を見つめて、それから短く「行きます」と打った。


窓ガラスに映った自分の顔は、思っていたよりずっと、疲れて見えた。


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