19.廃工場の男
『しばらく動かないで』
カオルさんからのメッセージは、それだけだった。
チームで行動パターンを洗い直すから、その間は近づくな、という意味だ。理屈は分かる。俺だって、一人で突っ込むのが賢くないことくらいは分かっている。
分かっていて、その夜、俺は自転車で街の外れまで走った。
理由をうまく説明できる自信はなかった。ただ、あの路地で目が合った瞬間から、俺の中に小さな棘みたいなものが刺さったままで、それが眠るたびに疼くのだ。
この力を持ってしまった人間が、あんな笑い方をする。
それがどうしても、放っておけなかった。
河川敷の橋の下に自転車を停めて、俺は草の上に寝転がった。
金縛り。指先。腕。上半身。
立ち上がった俺は、身体を軽く回してから、まっすぐ空へ上がった。
黒瀬蓮の足取りを追うのは、思ったより簡単だった。カオルさんが送ってくれた3か所の候補地を、上空から順に流していく。二つ目の外れ、市の北側にある廃工場の敷地に、明かりが一つだけ点いていた。
高度を落とす。
錆びた鉄骨が、骨みたいに空へ突き出している。屋根の半分は落ちていて、割れたスレートの隙間から、月明かりが床に細長い模様を落としていた。
俺は、正面のシャッターの脇の、大きく口を開けた搬入口から中へ入った。
埃と、油と、鉄が湿った匂い。
「……いるんだろ」
自分の声が、思ったより大きく響いた。
しばらく、何も返ってこなかった。
やがて、奥のクレーンの操作室のあたりから、金属を蹴るような音がして、人影が現れた。
「見つかったなら仕方ないな」
黒瀬蓮は、写真で見たときよりも痩せていた。革ジャンの肩が、少しだけ余っている。
彼は階段を降りながら、まったく急ぐ様子を見せなかった。
「あの路地のガキか。よく見つけたな」
「……黒瀬蓮、だろ」
名前を出した瞬間、蓮の足が止まった。それから、ゆっくりと笑った。
「へえ。警察でも連れてきたか?」
「一人だ」
「バカだな」
蓮は床に降り立つと、両手をポケットに突っ込んだまま、顎で俺を示した。
「タンクローリーのやつだろ、お前。動画で見たぜ。ドア引きちぎってた」
鼻で笑われた。
「あんなの、全部タダ働きじゃねえか。何がもらえた? 礼の一つでも言われたか」
答えなかった。
言われたことがある。あの夜、駐車場で拍手された。でも、それを今ここで言葉にすると、何か大事なものが安っぽくなる気がした。
「金を返せ」
代わりに、そう言った。
蓮の眉が、面白がるように上がった。
「返す? 誰に?」
「盗った先に」
「銀行に一万円札を届けにいく高校生か。それ、絵になるな」
言い終わる前に、俺は動いていた。
床を蹴って、一息で距離を詰める。狙ったのは肩だ。骨を折るつもりも、吹き飛ばすつもりもない。ただ、押さえ込んで、話を続けさせるだけの力。
指先が革ジャンに触れる、その直前だった。
視界の左端から、何かが飛んできた。
咄嗟に腕で庇う。鉄板だった。壁に立てかけてあったはずの、俺の背丈ほどある錆びた鉄板が、真横から俺の腕にぶつかって、派手な音を立てて跳ね返る。
体勢を崩したところに、今度は足元が引かれた。
床に転がっていた鎖が、生き物みたいに滑って俺の踵に絡み、思い切り引かれた。俺は背中から床に叩きつけられた。
痛くはない。ここは夢の側だ。ただ、埃が盛大に舞い上がった。
「引き合うんだよ」
蓮が、右手をひらひらと振って見せた。
「重いもん同士は引き合う。習っただろ、学校で。俺はそれを、ちょっと強くしてやってるだけだ」
起き上がりながら、俺は理解していた。
こいつも、同じだ。自分が納得できる理屈を立てて、それを形にしている。俺が手のひらの温度を上げて風を生むのと、何一つ変わらない。
やり方まで同じで、行き先だけが違う。
「なんで、こんなことに使う」
立ち上がって、俺は正面から聞いた。
蓮は少しの間、答えなかった。それから、つまらなそうに肩をすくめた。
「他に何があるんだよ」
その一言の温度が、あまりに低かった。
「インパクトの夜、俺はバイクで飛ばされてる。道路に叩きつけられて、そのまま病院だ。目が覚めたら、これができるようになってた」
彼は自分の右手を開いて、しばらく眺めていた。
「実家に電話した。三年ぶりだったかな。出た親父の第一声、何だったと思う」
答えられるはずがなかった。
「『金か』だってさ」
蓮は笑った。あの路地で聞いたのと、同じ笑い方だった。
「誰も俺を見ねえんだよ。ずっとだ。バイト先でも、家でも。でも、これができるようになってから、初めて自分に価値がついた。俺が手を伸ばせば、世界が言うことを聞く。分かるか? これだけなんだよ、俺を認めてくれんのは」
工場の中が、静かになった。
俺は、動けなかった。
(……知ってる)
放課後、誰もいない家に帰って、一人で時間を潰した小学生の頃。夢日記が、俺だけの秘密の遊びになっていった頃。夢の中で初めて空に浮いたとき、俺が心の底から思ったのは、これで俺は特別だ、ということだった。
現実の俺は、ただの高校生だ。バイトをして、母さんに金を渡して、それで終わる。
夢の中でだけ、俺は誰よりも自由で、誰よりも強い。
こいつと俺の間にあるものは、断崖じゃない。線が一本引いてあるだけだ。
それに気づいた瞬間、逃げ出したくなった。
でも、逃げなかった。
「……分かるよ」
俺は言った。
「俺も、そうだった。夢の中でだけ特別で、それが嬉しくて、現実の自分をずっと見ないようにしてた」
蓮の表情が、初めて少しだけ動いた。
「だから言うけどさ。お前が今やってることじゃ、たぶん、埋まらない」
「あ?」
「金を積んでも、誰もお前を見ないままだ。だってお前、誰にも見つからないように盗ってるじゃないか」
言い終わった瞬間、空気が変わった。
蓮の顔から表情が消えた。
「……知ったような口を利くな」
足元の鉄板が、ガタリと鳴った。
「お前には、あの女がいるだろ」
息が止まった。
「動画に映ってたよな。一緒に飛んでた女。お前は誰かと一緒にいられる。俺には最初から誰もいねえ。同じだったなんて言うんじゃねえよ」
言葉が出なかった。
それは、俺が一番、何も返せない場所だった。
蓮は、俺から視線を外した。もう用は済んだ、という顔だった。
「帰れ。次は手加減しねえ」
「……黒瀬」
「あと、」
彼は背を向けたまま、片手を上げた。
「二度と、俺を分かったつもりになるな」
その輪郭が、光の粒になって崩れていく。
工場の中に、俺一人が残された。
割れた屋根から差し込む月明かりが、さっきまで彼が立っていた床を、白く照らしていた。
俺は長いこと、そこから動けなかった。
言いたかったことは、全部言えた。伝わったものは、たぶん、何一つなかった。




