18.光る紙幣
その事件を最初に俺の目の前に突きつけてきたのは、やっぱりユウキだった。
「なあタクミ、これ見ろって。絶対おかしいから」
昼休みの教室。ユウキがスマホの画面を、俺の弁当箱の上に割り込ませてくる。
ニュースアプリの見出しが3つ、縦に並んでいた。
『繁華街のコンビニで強盗 男は何も持たずに侵入、レジ内の現金だけ消える』
『市内3か所のATMで現金抜き取り こじ開けた形跡なし』
『いずれも防犯カメラに「光の粒」 警察は関連を捜査』
俺は箸を止めた。
「何も壊さずに中身だけ抜いてくとか、もう手品じゃん。しかも光の粒だぞ、光の粒。絶対アレだって、超能力!」
「あんたはほんとに好きね、そういうの」
アヤカが呆れた声を出しながら、俺の弁当のミニトマトを一つ持っていった。
ユウキは、あのタンクローリーの動画が回ってきた日から、ずっとこの調子だ。休み時間のたびに新しい「証拠」を持ってきては、アヤカに一蹴されている。
「タクミもなんか言ってやってよ」
「……ああ、うん」
うまく返せなかった。
俺の目は、記事に添えられた粗い静止画から離れなくなっていた。
薄暗い店内。倒れかけた雑誌のラック。その手前の空間に、細かい白い点が霧のように散らばっている。
見たことがあった。
覚醒するとき、明晰夢の側の身体は、輪郭がぼやけて霧のように消えていく。俺はそれを、自分の部屋で録画した映像の中で見ている。
(……これは、誰かが目を覚ました跡だ)
そして、シオリの光じゃない。
先月の防犯カメラの写真を、俺は帰りの電車で何度も見返した。あれの粒は、もっと細かくて、青みがかっていた。この画像の粒は白くて、粗い。並べれば、素人の俺でも別物だと分かる。
安心した自分に気づいて、少し気持ちが悪くなった。誰かが人の金を持ち去った話をしているのに、俺が確かめたのは、それが自分の大事な人ではないということだけだった。
「タクミ? 顔、真っ白だけど」
「いや、なんでもない。ちょっと弁当が古かったかも」
アヤカが眉を寄せた。ユウキが「食中毒だ! 保健室!」と騒ぎ始めて、その隙に、俺は話を終わらせた。
その日の夜、カオルさんから電話がかかってきた。
今度は、俺は一度目のコールで出た。
「ニュース、見た?」
「見ました。あの光……」
「うん。芦田さんの見立ても同じ。あれは、誰かが明晰夢から覚めた瞬間の残像」
電話の向こうで、紙をめくる音がした。
「金額は3件合わせて200万ちょっと。金額の大きさより、私たちが気にしてるのは選び方の方」
「選び方?」
「壊せば警報が鳴る場所は避けて、壊さずに中身だけ抜ける場所だけを選んでる。しかも、深夜で、人のいない時間帯」
カオルさんの声が、少しだけ低くなった。
「怖がってるんだよ、この人。自分の力を隠さなきゃいけないことを、ちゃんと分かってる。分かった上で、使ってる」
背筋が冷えた。
俺は最初の頃、ずっと考えていた。この力を、俺は何のために使うべきなのか。答えが出なくて、何度も夜空でぼんやりしていた。
この人は、たぶん、その問いを一度も持たなかった。
「タクミくん。無理にとは言わない。でも、力を持ってる人間の考えることを、力を持ってない私たちが予想するのは限界がある」
「……次に、どこに出そうか、ですか」
「うん。黒川さんが3か所まで絞った。今夜、そのうちの一つを見に行く」
俺は、自分の部屋の天井を見上げた。
明日は学校がある。テストも近い。文化祭の看板だって、まだ塗り終わっていない。
それでも、迷ったのは3秒だった。
「……行きます。場所を教えてください」
深夜1時。俺は自転車を漕いで隣町まで走り、川沿いの駐輪場でカオルさんと落ち合った。
黒川さんが運転する軽自動車の後部座席に乗せられて、繁華街の外れまで。
車が停まったのは、飲み屋のビルの裏手にある、来客用の狭い駐車場だった。斜め向かいに、24時間営業の無人ATMコーナーの明かりが見える。
「ここで俺、寝るんですか」
「うん。後ろの座席、倒していいよ」
あまりに間の抜けた手順だったが、理屈は通っている。生身の俺はただの高校生だ。何かあっても何もできない。
俺は後部座席に横になり、目を閉じて、いつものプロセスを踏んだ。
金縛り。指先。腕。上半身。
引きちぎるように身体を起こすと、俺は車の外に立っていた。振り返れば、車の中で自分が眠っている。運転席の黒川さんが、ぎょっとした顔で俺を二度見した。
「……本当に出てきやがった」
初めて聞いた黒川さんの声は、思ったよりずっと低かった。
待ち時間は、驚くほど退屈だった。
俺はビルの外階段の3階の踊り場に腰かけて、ATMコーナーの入口を見下ろしていた。深夜の繁華街は、遠くで人の笑い声がして、時々タクシーが停まって、それだけだ。
2時を過ぎ、3時が近づいて、俺の集中は切れかけていた。
その時、視界の端で、光った。
ATMではない。もっと手前、二つ隣のビルとビルの間の、暗い路地だ。
俺は音を立てずに階段を降り、建物の陰づたいに近づいた。
路地の奥、非常灯の緑色の明かりの下に、男が一人いた。
年は俺より少し上、たぶん二十歳そこそこ。着古した革ジャンに、ボサボサの髪。しゃがみ込んで、膝の上に紙幣の束を広げている。
そして、その手のひらの上を、一万円札が一枚、ふわりと浮いていた。
男が指を軽く動かすと、札は吸い寄せられるように手のひらへ落ちた。次の一枚が、また浮き上がる。
彼はそれを、何度も繰り返していた。
数えているんじゃない。遊んでいるんだ。
「……はは」
男が笑った。
大きな声ではなかった。誰にも聞かせるつもりのない、乾いた笑い方だった。
その笑い方に、俺は動けなくなった。
うまく言えない。ただ、あの笑い方を、俺は知っている気がした。誰もいない夜の街を、屋根から屋根へ飛び移りながら、俺が一人で上げていた声と、どこかが同じだった。
俺が息を吸った、そのわずかな音を、男が拾った。
顔が上がる。目が合った。
暗がりの中で、その目だけが、やけにはっきりと俺を捉えていた。
「――」
何か言おうとした瞬間、男の輪郭が崩れた。
霧。光の粒。
紙幣の束が、支えを失って地面に散らばる。男がいたはずの場所には、緑の非常灯に照らされた、汚れたコンクリートだけが残っていた。
俺は、しばらくそこに立ち尽くしていた。
車に戻り、覚醒して、後部座席で身体を起こした。
見たものを全部話すと、カオルさんは黙って最後まで聞いてから、黒川さんに目配せをした。黒川さんは何も言わずに車を出した。
「タクミくん。今の話、一つだけ確認させて」
カオルさんが、助手席から振り返る。
「その人、あなたを見た?」
「……見ました」
カオルさんは、ゆっくりと息を吐いた。
「そう。じゃあ、向こうも今頃、同じことを考えてる」
窓の外を、コンビニの明かりが一つ、後ろへ流れていった。
俺はもう、この世界に俺とシオリしかいないなんて思っていない。
そして、そのことが、思っていたよりずっと寂しくないことに、俺は少しだけ戸惑っていた。
身元が割れたのは、二日後だった。
放課後、屋上へ続く階段の踊り場で、俺はカオルさんからのメッセージを開いた。
添付されていたのは、数年前のものらしい、一枚の顔写真。
そして、短い文章。
『黒瀬蓮、20歳。定職なし。
インパクトの夜、市内で事故に遭って搬送された記録があります。
今は、家族と連絡が取れていないそうです』




