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夢の箱庭  作者: Nico
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17/26

17.消えていく時間

検査の日は、朝ご飯が抜きになる。


もう慣れた。慣れたけれど、廊下を通る配膳車の音だけは、いつまで経っても慣れない。他の病室の前で止まって、蓋が開いて、味噌汁の匂いが少しだけ漏れる。それが、私の部屋の前だけ素通りしていく。


採血、心電図、造影剤を入れてのMRI。看護師さんの「はい、力抜いてくださいねー」という声の抑揚まで、私は暗唱できる。筒の中の、あの工事現場みたいな音の中で、私はいつも空を飛ぶことを考えている。


そうしていると、時間はわりと早く過ぎる。


問題は、そのあとだった。






「河瀬さん。ご両親、いらっしゃってますね。少しお話が」




午後3時過ぎ、担当の先生が病室に顔を出してそう言った。


ご両親、と先生は言った。河瀬さん、とは言わなかった。


私は、車椅子のブレーキに手を置いたまま、笑顔を作った。




「はーい。私、廊下で待ってますね」


「ううん、詩織はお部屋にいなさい」




母がそう言って、私の肩に手を置いた。その手が、少しだけ強すぎた。


だから私は、待たなかった。両親と先生が診察室に入ってしばらくしてから、自分で車椅子を漕いで廊下へ出た。ここの床はリノリウムで、車輪の音がよく響く。ドアの2メートル手前で止まって、それ以上は近づかなかった。


近づかなくても、聞こえた。


進行しています、という言葉。これまでの治療では、という言葉。それから、少し声の落ちた場所で、これ以上の回復は、という言葉。


私は、膝の上の自分の手を見ていた。爪が伸びている。切らなきゃ、と思った。


そういうことを考えていないと、耳が勝手に全部拾ってしまう。




ドアが開いたとき、私はもう病室に戻って、窓の外を見ていた。


母は、すごく上手に笑っていた。




「詩織、先生がね、焦らずいこうって」


「うん」


「ちょっと時間はかかるけど、って」


「うん。分かってる」




私も、すごく上手に笑った。


たぶん、二人とも、相手の下手さには気づいていた。父は最後まで何も言わずに、私の枕元のぬいぐるみの向きを、意味もなく直していた。






その日の夜から、病棟のルールが変わった。


別の階で、入院患者さんが夜中にひとりで歩いて転んだらしい。それで、夜間の見回りが1時間おきになった。消灯も30分早くなって、廊下の常夜灯まで一段暗くなった。


看護師さんが悪いわけじゃない。転んだ人が悪いわけでもない。誰も悪くない。


ただ、私にとっては、致命的だった。


金縛りは、深い眠りの入口に立ったときにしか来ない。私は自分の意思でそこへ行けない。タクミくんみたいに、狙って入り口を開けることができない。ただ、じっと待って、運がよければ辿り着ける。それだけの、頼りない道だった。


1時間おきに、ドアが静かに開く。懐中電灯の光が、床を撫でて、私の顔の手前で止まって、また消える。


そのたびに、私は浅いところへ引き戻される。


3日。


4日。


5日。


私は、タクミくんに会えないまま、数を数えていた。






スマホは、使える。


消灯後にこっそり、布団の中で画面の明るさを一番下まで落として、メッセージを送る。




『今日は検査だったよ。造影剤って、体が一瞬あったかくなるの。知ってた?』


『知らねー。痛くないのか?』


『針は痛い。でもあったかいのは、ちょっと面白い』


『変なやつだな』




それだけで、少し笑える。


タクミくんは、いつも返事が早い。バイト中でも、たぶん、レジの合間に打っている。




『そういえば、この前、カオルさんのとこ行ってきた』


『カオルさん?』


『前に話した政府の人。事務所っていうか、なんか、おじいさんとかいる部屋だった』


『そうなんだ』


『シオリも今度連れてく』


『うん!』




うん、と打つまでに、ほんの少しだけ間があった。


カオルさん。タクミくんが一度だけ名前を出したことのある人だ。私はその人の顔も、声も、いくつなのかも知らない。


私が天井を数えている間に、タクミくんはその人に会いに行って、知らない部屋でお茶を出されて、たぶん、笑ったりもしたんだと思う。


私の知らない場所が、一つ増えた。


そう思ってしまったことの方が、嫌だった。


でも、文字は、文字だ。


夢の中でなら、私は自分の足で歩ける。走れる。飛べる。海に足をつけて、しぶきを上げて、木の一番高い枝に座って、笑いながら文句を言える。


ここでは、私はベッドから降りるのに、誰かの手を借りる。




『こっち来れそう?』




6日目の夜、タクミくんからそう送られてきた。


私は、その5文字をずいぶん長いこと見つめていた。




『たぶん、もうすぐ』




そう打って、送った。


嘘ではないと思う。たぶん、というのは、そういう言葉だ。






眠れない夜は、日記を書くことにしている。


母が持ってきてくれた、表紙が布張りの小さなノート。前は、その日食べたものとか、窓から見えた雲の形とか、そういうことばかり書いていた。


ペンを持つ手が、少しだけ震えた。最近、朝の方が調子がいい。夜は指先の力が入りにくくなる。それも、たぶん、先生が診察室で言っていたことの一部なんだと思う。


私は、書いた。




『6日会えていない。1週間は初めて。


タクミくんは待っててくれる。それは分かってる。


でも、タクミくんはあっちの世界で毎日動いている。学校もバイトもあって、それでも人を助けにいっている。私が来ない日も、ずっと。


私が行けない間に、あの世界が私のいない形で回りはじめたら。


私が追いつけないところまで、行ってしまったら。』




そこまで書いて、私はペンを止めた。


こんなことを考えるのは、ずるい。タクミくんは何も悪くない。悪いのは巡回でも、看護師さんでも、転んだ人でもない。


私は、その2行を線で消そうとして、やめた。


消したところで、思ったことは消えない。


代わりに、その下にもう1行だけ書き足した。




『でも、まだ諦めてない。


私は、あの夜だって、屈しなかったんだから。』




ノートを閉じて、枕の下に押し込む。


窓の外は曇っていて、星は一つも見えなかった。それでも私は目を閉じて、手のひらの温度を上げるイメージを、ゆっくりと始めた。


タクミくんが教えてくれたやり方だ。


廊下の向こうで、また、ドアの開く音がした。


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