17.消えていく時間
検査の日は、朝ご飯が抜きになる。
もう慣れた。慣れたけれど、廊下を通る配膳車の音だけは、いつまで経っても慣れない。他の病室の前で止まって、蓋が開いて、味噌汁の匂いが少しだけ漏れる。それが、私の部屋の前だけ素通りしていく。
採血、心電図、造影剤を入れてのMRI。看護師さんの「はい、力抜いてくださいねー」という声の抑揚まで、私は暗唱できる。筒の中の、あの工事現場みたいな音の中で、私はいつも空を飛ぶことを考えている。
そうしていると、時間はわりと早く過ぎる。
問題は、そのあとだった。
「河瀬さん。ご両親、いらっしゃってますね。少しお話が」
午後3時過ぎ、担当の先生が病室に顔を出してそう言った。
ご両親、と先生は言った。河瀬さん、とは言わなかった。
私は、車椅子のブレーキに手を置いたまま、笑顔を作った。
「はーい。私、廊下で待ってますね」
「ううん、詩織はお部屋にいなさい」
母がそう言って、私の肩に手を置いた。その手が、少しだけ強すぎた。
だから私は、待たなかった。両親と先生が診察室に入ってしばらくしてから、自分で車椅子を漕いで廊下へ出た。ここの床はリノリウムで、車輪の音がよく響く。ドアの2メートル手前で止まって、それ以上は近づかなかった。
近づかなくても、聞こえた。
進行しています、という言葉。これまでの治療では、という言葉。それから、少し声の落ちた場所で、これ以上の回復は、という言葉。
私は、膝の上の自分の手を見ていた。爪が伸びている。切らなきゃ、と思った。
そういうことを考えていないと、耳が勝手に全部拾ってしまう。
ドアが開いたとき、私はもう病室に戻って、窓の外を見ていた。
母は、すごく上手に笑っていた。
「詩織、先生がね、焦らずいこうって」
「うん」
「ちょっと時間はかかるけど、って」
「うん。分かってる」
私も、すごく上手に笑った。
たぶん、二人とも、相手の下手さには気づいていた。父は最後まで何も言わずに、私の枕元のぬいぐるみの向きを、意味もなく直していた。
その日の夜から、病棟のルールが変わった。
別の階で、入院患者さんが夜中にひとりで歩いて転んだらしい。それで、夜間の見回りが1時間おきになった。消灯も30分早くなって、廊下の常夜灯まで一段暗くなった。
看護師さんが悪いわけじゃない。転んだ人が悪いわけでもない。誰も悪くない。
ただ、私にとっては、致命的だった。
金縛りは、深い眠りの入口に立ったときにしか来ない。私は自分の意思でそこへ行けない。タクミくんみたいに、狙って入り口を開けることができない。ただ、じっと待って、運がよければ辿り着ける。それだけの、頼りない道だった。
1時間おきに、ドアが静かに開く。懐中電灯の光が、床を撫でて、私の顔の手前で止まって、また消える。
そのたびに、私は浅いところへ引き戻される。
3日。
4日。
5日。
私は、タクミくんに会えないまま、数を数えていた。
スマホは、使える。
消灯後にこっそり、布団の中で画面の明るさを一番下まで落として、メッセージを送る。
『今日は検査だったよ。造影剤って、体が一瞬あったかくなるの。知ってた?』
『知らねー。痛くないのか?』
『針は痛い。でもあったかいのは、ちょっと面白い』
『変なやつだな』
それだけで、少し笑える。
タクミくんは、いつも返事が早い。バイト中でも、たぶん、レジの合間に打っている。
『そういえば、この前、カオルさんのとこ行ってきた』
『カオルさん?』
『前に話した政府の人。事務所っていうか、なんか、おじいさんとかいる部屋だった』
『そうなんだ』
『シオリも今度連れてく』
『うん!』
うん、と打つまでに、ほんの少しだけ間があった。
カオルさん。タクミくんが一度だけ名前を出したことのある人だ。私はその人の顔も、声も、いくつなのかも知らない。
私が天井を数えている間に、タクミくんはその人に会いに行って、知らない部屋でお茶を出されて、たぶん、笑ったりもしたんだと思う。
私の知らない場所が、一つ増えた。
そう思ってしまったことの方が、嫌だった。
でも、文字は、文字だ。
夢の中でなら、私は自分の足で歩ける。走れる。飛べる。海に足をつけて、しぶきを上げて、木の一番高い枝に座って、笑いながら文句を言える。
ここでは、私はベッドから降りるのに、誰かの手を借りる。
『こっち来れそう?』
6日目の夜、タクミくんからそう送られてきた。
私は、その5文字をずいぶん長いこと見つめていた。
『たぶん、もうすぐ』
そう打って、送った。
嘘ではないと思う。たぶん、というのは、そういう言葉だ。
眠れない夜は、日記を書くことにしている。
母が持ってきてくれた、表紙が布張りの小さなノート。前は、その日食べたものとか、窓から見えた雲の形とか、そういうことばかり書いていた。
ペンを持つ手が、少しだけ震えた。最近、朝の方が調子がいい。夜は指先の力が入りにくくなる。それも、たぶん、先生が診察室で言っていたことの一部なんだと思う。
私は、書いた。
『6日会えていない。1週間は初めて。
タクミくんは待っててくれる。それは分かってる。
でも、タクミくんはあっちの世界で毎日動いている。学校もバイトもあって、それでも人を助けにいっている。私が来ない日も、ずっと。
私が行けない間に、あの世界が私のいない形で回りはじめたら。
私が追いつけないところまで、行ってしまったら。』
そこまで書いて、私はペンを止めた。
こんなことを考えるのは、ずるい。タクミくんは何も悪くない。悪いのは巡回でも、看護師さんでも、転んだ人でもない。
私は、その2行を線で消そうとして、やめた。
消したところで、思ったことは消えない。
代わりに、その下にもう1行だけ書き足した。
『でも、まだ諦めてない。
私は、あの夜だって、屈しなかったんだから。』
ノートを閉じて、枕の下に押し込む。
窓の外は曇っていて、星は一つも見えなかった。それでも私は目を閉じて、手のひらの温度を上げるイメージを、ゆっくりと始めた。
タクミくんが教えてくれたやり方だ。
廊下の向こうで、また、ドアの開く音がした。




