16.雑居ビルの奥
結局、俺の方から電話をかけたのは、着信を無視した翌日の昼休みだった。
コールは一度鳴っただけで繋がった。まるで、ずっとスマホを握ったまま待っていたみたいに。
「もしもし」
「……あの、陸奥です。昨日は、出られなくて」
「知ってる。だから、待ってた」
カオルさんの声は、責める調子でもなければ、勝ち誇る調子でもなかった。ただ淡々と、事実だけを置いていくような声だった。
「今週の土曜、時間ある? 場所を送るね。ひとりで来て、って言いたいところだけど、怖かったら誰か連れてきてもいい。あ、でも、事情を知らない子は連れてこない方がいいかな」
「……ひとりで行きます」
自分でも驚くくらい、あっさりと言葉が出た。
土曜日の午後。俺は電車に30分ほど揺られて、隣の市の駅に降りた。
送られてきた住所は、駅の裏手の、細い路地を何度か折れた先だった。カラオケ屋と、看板の文字が半分消えた居酒屋と、シャッターの降りた不動産屋。その並びの一番端に、目当ての建物はあった。
雑居ビル。5階建てで、外壁には雨だれの黒い筋が何本も走っている。入口の案内板には、テナントの名前が7つ並んでいて、そのうち4つにはガムテープが貼られていた。
(……政府って、こういうとこなのか?)
俺が想像していたのは、もっとこう、ガラス張りの高いビルとか、金属探知機とか、首から下げるカードキーとか、そういうものだった。
エレベーターはひどく揺れて、4階に着くまでに二度、変な音を立てて止まりかけた。
廊下の突き当たりのドアには、何も書かれていなかった。
ノックしようとした瞬間、内側からドアが開いた。
「いらっしゃい。よく来てくれたね」
カオルさんが立っていた。スーツではなく、薄手のニットにジーンズという格好で、河川敷で会ったときよりも、ずっと年齢が近く見えた。
部屋の中は、俺の想像とはまた違っていた。
会議室というより、誰かの研究室だ。壁一面がコルクボードで覆われ、日本地図の印刷物に、色の違うピンが何十本も刺さっている。地図の周りには新聞の切り抜きと、印刷したSNSの投稿と、手書きのメモが放射状に貼り付けられていた。
反対側の壁際には、机が4つ。そのうち3つが使われている。
一番奥で、白髪頭の年配の男性が、ノートパソコンと紙の資料を交互に睨んでいた。手前の机では、無精髭の男性が腕を組んだまま、こちらを値踏みするように見ている。もう1人、若い男性が窓際で電話をしていて、俺に気づくと軽く頭を下げた。
「紹介するね。芦田さん。もともと大学で睡眠の研究をしてた人。定年退職してからは暇なんだって」
「暇とは言っとらん。忙しくないだけだ」
白髪の男性――芦田さんが、老眼鏡をずらして俺を見た。悪意のない、けれど遠慮もない目だった。
「それから、黒川さん。前の職場のことは聞かないであげて」
無精髭の男性は、何も言わずに顎を引いた。それが挨拶らしかった。
「……この人たちが、政府の、その」
「ううん」
カオルさんは、あっさりと首を横に振った。
「ここは、政府の部署じゃない。予算もついてないし、上に報告も上げてない。私が個人的に声をかけて、手伝ってもらってるだけ」
一瞬、意味が分からなかった。
「じゃあ、あなたが言ってた『政府の関係者』って……」
「嘘じゃないよ。私の身分は本物。ただ、私が今やってるこの調査は、組織の中では誰にも認められてない。上に持っていったら、まず間違いなく止められるから、持っていってない」
カオルさんは肩をすくめて、少しだけ困ったように笑った。
「がっかりした?」
俺は、すぐには答えられなかった。
がっかり、とは違う。むしろ、頭の中でずっと引っかかっていた小骨が、ぽろりと取れたような感覚だった。
政府というものが、俺やシオリを実験動物みたいに調べ上げるつもりなんじゃないか。ずっとそれが怖かった。でも、この部屋には、そんな力はどこにもない。あるのは、コルクボードのピンと、老眼鏡と、コンビニの弁当のゴミだけだ。
「……逆に、ちょっと安心しました」
正直に言うと、芦田さんが奥で吹き出した。
カオルさんは、俺を地図の前に立たせた。
ピンは、北海道から九州まで、日本中に散らばっていた。多いのは都市部だが、山陰にも四国にも、ぽつぽつと刺さっている。
「インパクトの後、私たちが拾い集めた報告。SNS、地方新聞の埋め草記事、消防と警察に入った通報。全部で、今のところ312件」
「312……」
「もちろん、大半は勘違いか、話を盛ってるだけ。夢と現実を混同しただけの人も多い。でもね」
彼女は、赤いピンだけを指でなぞった。数えると、14本あった。
「この14件は、複数の目撃者が、同じ時刻に、同じものを見てる。人が空中に浮いていた。ガラスが内側から吹き飛んだ。急に現れた人間が、霧みたいに消えた」
俺は、喉が渇いていくのを感じた。
「タクミくん。夢と現実が重なったことで、何かの力を手にした人間は、あなたたちだけじゃない」
背中を、冷たいものが伝った。
あの夜、俺はシオリと二人で、この世界に取り残されたような気持ちでいた。誰にも言えない秘密を、二人で分け合っているつもりでいた。
そうじゃなかった。この地図の赤い点の下には、俺と同じように、ある朝突然、自分の手が別物になっていることに気づいた誰かがいる。
そしてその誰かが、俺と同じ性格をしているという保証は、どこにもない。
「……その人たちは、今、何を」
「分からない。それを調べてる」
カオルさんは地図から目を離さずに答えた。
「私はね、タクミくん。この現象そのものを、悪いことだとは思ってない。ただ、誰も何も知らないまま放っておかれるのが怖いだけ。知らないものは、いつか必ず怖がられて、怖がられたものは、必ず潰される」
その横顔を見ながら、俺はようやく理解した。
この人は、俺を利用しようとしてここにいるんじゃない。俺と同じように、誰にも相談できないまま、たった一人でこの現象と向き合ってきたんだ。使える道具が、たまたま公務員の身分と、退職した知り合いの数人だけだった。それだけの話だ。
「……俺、何をすればいいですか」
気づいたら、そう口にしていた。
カオルさんは、少しだけ驚いた顔をして、それからようやく、河川敷で見せたのと同じ、あの柔らかい笑い方をした。
「まずは座って。お茶を淹れるから。話は長くなるよ」
帰りの電車の窓に、夜の街が流れていった。
膝の上には、カオルさんに渡された薄いファイルが載っている。赤いピンの14件について、日付と場所と、目撃された内容がまとめられていた。
俺は、そのうちの1ページを何度も読み返していた。
先月の下旬。都市部の路上。防犯カメラに、光の粒のようなものが一瞬だけ映り込んでいる。
シオリが消えるときと、よく似た光だった。
(……シオリじゃ、ないよな)
自分に確かめるように、俺は心の中で呟いた。
窓の外を、名前も知らない駅の明かりが、一つずつ後ろへ流れていった。




